世界記憶遺産に「南京」「慰安婦」登録ならばユネスコへの資金拠出を一切拒否せよ! 藤岡信勝(拓殖大客員教授)



2015.10.11 17:30更新
【月刊正論】
世界記憶遺産に「南京」「慰安婦」登録ならばユネスコへの資金拠出を一切拒否せよ! 藤岡信勝(拓殖大客員教授)

http://www.sankei.com/politics/news/151002/plt1510020015-n1.html


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ユネスコを支える日本の資金

 日本はユネスコ(国連教育科学文化機関)に対して、莫大な分担金を支払っている。2014年度の分担金の国別の比率は次の通りである。
【1位】アメリカ22%
【2位】日本10・834%
【3位】ドイツ7・142%
 途中を省略して、
【9位】中国二・○六%
【11位】韓国一・八五%
 ここで1位がアメリカとなっているが、アメリカは実は過去2年間、分担金を支払っていない。理由は、パレスチナがユネスコに加盟したことに反発し、イスラエルとともに支払いを凍結したというもの。アメリカはパレスチナと対立するイスラエルの味方なのだ。
そういうわけで、日本が現在、世界中の国の中で最大の分担金を支払っている。その実額は、米ドルで3537万3000ドル。しかし、この他に、各国 政府が自ら支払う拠出金というものがある。これが、957万5000ドル。合計4494万8000ドル。円に換算すると、約54億円。これが、あなたや私 が支払った税金でまかなわれている。この膨大な金額の支出金が、2200人あまりの職員(うち日本人50人あまりを含む)をかかえるユネスコを財政的に支 えているのである。だから、その日本は、ユネスコに対し最も発言権がある立場にいるはずだ。

「強制労働」を認めた歴史戦最大の敗北

  ところが、実態はその逆である。そのよい例が、つい先日のユネスコの世界遺産登録問題の顛末だ。日本は明治日本の産業革命遺産をユネスコの世界遺産に登録 申請した。これに韓国政府がイチャモンを付け、6月に日韓外相会談で、「forced to work」という、日本として認めるべきではない、「強制労 働」を意味する言葉を使って日本政府が声明を発することで合意した。さらに韓国政府は、この合意すら裏切る行為を、ドイツのボンにおける最終決定の段階で 行った。分担金わずか2%にも満たない韓国が、分担金を5倍出している日本を振り回しているのである。
元ユネスコ大使の木曽功氏は、日韓外相間の政治決着自体が「非常に残念」であるという。「なぜなら、政治決着とは、世界遺産に政治問題をリンクさせ ることに他ならないからです。徴用がはたして、韓国が主張する『強制徴用(Forced Labor)』と呼ばれる酷いものだったかどうかはまさしく歴史 認識の問題で、それは世界遺産とは離れたところで議論・解決すべきことです」(『世界遺産ビジネス』小学館新書、2015年)。
 全く同感 であり、私も当時、なぜこれを外交問題にするのか、日本政府のやっていることがさっぱりわからなかった。このような筋違いなことを始めた失敗ばかりでな く、日本政府が朝鮮人徴用工の「強制労働」を初めて認めるという大失態を犯した。今後、軍艦島は「忘れられた東洋のアウシュビッツ」といった打ち出しで、 話が捏造されていくだろう。現に韓国で映画化が進んでいるともいう。
 多くの日本国民は、事情を知れば、世界遺産に指定されることと引き替 えに、日本がアウシュビッツの捕虜収容所と同等の施設をもったホロコースト国家であったという、壮大な嘘を製造されるキッカケを、他ならぬ日本政府がつ くったことを許さないだろう。これは、今年の歴史戦の中での最大の敗北といえるものになる可能性がある。

ユネスコ記憶遺産とは

 明治の産業革命遺産の世界遺産登録問題に続いて 浮上しているのが、ユネスコ記憶遺産への、「南京大虐殺」と「慰安婦=性奴隷」をテーマとした中国による登録申請の問題である。この件については、本誌十 月号で高橋史朗氏が「《南京30万人虐殺》に加えて《慰安婦40万人》-大虚説を掲げる中国の世界遺産申請を許すな」というタイトルの論文で詳細な報告を している。ここでは、はじめに記憶遺産についての補足的な説明をし、ついで問題点をまとめてみたい。
 ユネスコが「世界遺産条約」(世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約)を総会で採択したのは、1972年だった。人類が後世に残すべき貴重な遺跡、景観、自然などを保護・保存することが目的だった。世界遺産については最近よく知られるようになった。
  これに対し、ユネスコ記憶遺産の登録が始まったのは1997年からだ。英語名は、Memory of the World(MOW)という。直訳すれば 「世界記憶遺産」となるはずで、現にそう呼ばれることもあるが、それは俗称で、正式には「ユネスコ記憶遺産」が正しい呼称とされている。
ユネスコ記憶遺産とは、遺跡と異なって持ち運び出来る「可動文化財」で、保存の危機に瀕した歴史的に価値の高い古文書、文献、写真、映像などの記録物を人類共通の遺産として保護・保存することを目的とする。
  今まで記憶遺産に指定されたものを例示すると、「マグナ・カルタ」(英国、2009年)、「人権宣言」(フランス、2003年)、「アンデルセンの原稿筆 写本と手紙」(デンマーク、1997年)などがある。なるほど、これらの原本を保存するのは価値のある事業だと納得できるだろう。日本からは、「山本作兵 衛による筑豊炭鉱の記録画」(2011年)、「慶長遣欧使節関係資料」(スペインとの共同推薦、2013年)、「御堂関白記」(2013年)の3件がすで に登録されている。
 記憶遺産に登録されると、「歴史的に貴重な資料」であると公式に認められ、最新のデジタル技術を駆使して保存され、研究者や一般人に広く公開されることになる。

非常識な中国の申請

  中国はかつて「清の科挙合格者掲示」(2005年)など、私も見たいと思うような「真面目」な記憶遺産の登録をしてきた時期もあった。ところが、中国は、 オランダが2009年に「アンネの日記」を登録してから、ユネスコのこの事業を反日プロパガンダに利用できると思いついたようだ。中心になって推進したの は、南京市にある南京大虐殺記念館の朱成山館長だとされる(9月8日付産経新聞)。
 中国の申請には、次のような重大な問題点がある。
 第1に、最も根本的なことだが、中国の申請はユネスコ憲章の精神に反する非常識な申請だということだ。
  ユネスコ憲章の前文には、「戦争は人の心の中で生れるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」という有名な書き出しの一節があ る。締めくくりは、「平和は、失われないためには、人類の知的及び精神的連帯の上に築かなければならない」となっている。
 ところが、今回 の中国の提出している南京大虐殺なるものは、戦時プロパガンダとして捏造された事件であり、史実ではない。戦時プロパガンダをユネスコ記憶遺産に登録しよ うとすることは、国民の間の旧敵国に対する憎悪と憎しみを助長し、「人の心の中に戦争を起こそう」とする行為であるといっても過言ではない。中国のしてい る行為は、国連憲章の理念に反することが明白な、非常識なものである。

日本はもう金を出すな

 第2に、ユネスコ記憶遺産の事業目的にも反している。「記憶遺産はそもそも戦争や災害で紛失の危機にある文書などを保存し、後世に残していくための制度だ。政治的に利用されることを想定していないのだが…」と、政府関係者はもらしているという(前掲産経記事)。
 第3に、南京大虐殺に関して提出されている写真資料は、すでに日本側の研究で、何ら南京事件について証拠能力のないものであることが証明されているものばかりである。ただの一枚も、南京虐殺を裏付けるものはない。
  第4に、提出された写真資料の中には、著作権を侵害したものもある。中国で民家を利用した慰安所の写真が提出されているが、その著作権は、写真の撮影者で ある旧日本軍人から、その娘に当たる福岡県在住の医師に引き継がれている。その写真が許可無く使用されているのである。
 このように、一つひとつの史料は、中身のない、虚偽を重ねた、全く文化的価値のないがらくたの山である。しかも、遺憾ながら提出された各種の写真は多数の日本の出版物に掲載されており、希少性もない。
 10月上旬にアブダビで開かれる最終の審議会では、14人の委員の多数決をとり、ボコバ事務局長が最終判断をして決定することになる。
 韓国政府は、早くも強制動員された人々の口述記録など33万余点を記憶遺産に申請することを検討しているという(9月14日付朝日新聞夕刊)。もはやとどまるところを知らない。
最後まで日本政府は中国の申請の登録阻止に力を尽くしてもらいたい。しかし、ここでハッキリ言おう。もし中国側の申請が通るようなら、日本はユネスコへの資金の拠出を一切拒否すべきである。それは理念的にも資金的にも、ユネスコの死を意味するだろう。
×   ×   ×   
  藤岡信勝氏 昭和18(1943)年、北海道生まれ。北海道大学教育学部卒。東京大学教授などを経て現職。平成7年、自由主義史観研究会を組織、「新しい 歴史教科書をつくる会」前会長。著書・共著に『教科書が教えない歴史』(扶桑社)、『汚辱の近現代史』(徳間書店)、『国難の日本史』(ビジネス社)など 多数。
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「南京事件」資料が記憶遺産に 中国国営テレビは速報で伝える

「南京事件」資料が記憶遺産に 中国国営テレビは速報で伝える
フジテレビ系(FNN) 10月10日(土)18時20分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/fnn?a=20151010-00000332-fnn-int

中国が、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界記憶遺産に登録申請していた「南京事件」に関する資料の登録が決定した。
ユネスコは9日、中国が申請していた「南京事件」の資料について、新たに世界記憶遺産として登録することを決定した。
中国が申請していたのは、中国国内の資料館に保存されていた、旧日本軍が撮影したとされる写真のほか、戦犯の調査文書や裁判記録。
いわゆる「慰安婦関係資料」の申請は、却下された。
国連機関のお墨つきを得たことで、中国は、「南京事件の犠牲者は30万人」などとする独自の主張に基づく、歴史認識の国際的な宣伝を強化するとみられる。
中国中央テレビは、日本時間午前5時、「南京大虐殺資料は選ばれたが、慰安婦の資料は遺憾にも落選した」と報じた。
中国の国営テレビは、南京事件の資料の世界記憶遺産の登録決定を速報で伝えている。
また、中国共産党の機関紙・人民日報は、ウェブサイト上の記事で、「ユネスコが、中国の保存する南京大虐殺資料の真実性を認めたもの」などと指摘し、「世界的な意義がある」と強調している。
今回の決定について、日本の外務省は、報道官談話を発表し、「中立・公平であるべき国際機関の行動として問題であり、極めて遺憾だ」などと表明した。
また岸田外相が、登録の直前に、ユネスコの事務局長に電話し、登録には問題があると指摘したうえで、登録された場合は、ユネスコへの拠出金を見直す考えを伝えていたことがわかった。
最終更新:10月10日(土)20時50分

 

世界記憶遺産「南京大虐殺」登録 日本、ユネスコ拠出金の凍結検討
夕刊フジ 10月10日(土)16時56分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151010-00000020-ykf-int

 国連教育科学文化機関(ユネスコ)は9日(日本時間10日未明)、中国が登録申請していた「南京大虐殺文書」を記憶遺産に登録したと発表した。「慰安婦 関係資料」は登録されなかった。中国は、国際機関のお墨付きの下、日本を攻撃する新しい材料を得たことになる。政府・自民党では、ユネスコの分担金拠出の 凍結を検討し始めた。

 「中国の記憶遺産申請は政治的利用であり、記憶遺産の本来の目的を逸脱している。このような理不尽な登録が行われた場合、分担金の支払いを留保することも考えていいのではないか」

 自民党の片山さつき国際情報検討委員会委員長代行は、夕刊フジの取材にこう明言した。日本政府筋も「断固たる措置を取る」と語った。

 2014年度のユネスコ予算の日本の分担率は米国の22%に次ぐ10・83%で、金額は約37億1800万円。米国が支払い停止中のため、事実上のトッ プだ。これ以外の任意拠出金を合わせると関係予算は計約54億3270万円だが、今回の対応を受け、これをストップする構えなのだ。

 中国外務省などが、南京事件と慰安婦に関する写真や日記などを申請したのは昨年6月。だが、中国が申請した資料には、捏造が確認された写真や、「大虐殺」があったことを証明するには不適切な文書-などが多数含まれていた。

 そもそも、南京事件については、米紙ニューヨーク・タイムズや、英紙フィナンシャル・タイムズの東京支局長を歴任した、英国人ジャーナリスト、ヘン リー・S・ストークス氏が著書『連合国戦勝史観の虚妄』(祥伝社新書)などで、「中国国民党政府が作り上げたプロパガンダだ」と明言している。

 日本政府は「ユネスコの政治利用になりかねない」としてユネスコ側に慎重な審査を求めた。中国に対しても、申請の取り下げと、資料の検証を再三求めたが、中国が応じることはなかった。

 前出の片山氏は「今後、登録資料が公開されるので、日本は巻き返しを図るべきだ。専門家を集めて、日本の主張が正当であることを証明し、『中国の申請が ユネスコの威信を傷つけている』ということを示す。日本としては、歴史の真実を客観的な証拠をあげて主張していきたい」と語っている。


ユネスコ拠出金見直しへ 「断固たる措置取る」日本政府

2015.10.10 02:40
http://www.iza.ne.jp/kiji/politics/news/151010/plt15101002400006-n1.html

 中国が申請していた「南京大虐殺文書」が記憶遺産への登録が決まったことに対し、日本政府筋は「断固たる措置を取る」と述べ、ユネスコの分担金拠出などの一時凍結を検討する構えを見せている。
  平成26(2014)年度のユネスコ予算の日本の分担率は米国の22%に次ぐ10・83%で、金額は約37億1800万円。米国が支払いを停止しているた め、事実上のトップだ。さらに分担金以外でも、さまざまな事業に対する任意拠出金があり、同年度のユネスコ関係予算は計約54億3270万円に上る。
 外務省首脳は「日本の分担金はトップクラス。(ユネスコ側が)日本からの申し入れに真剣に耳を傾けることに期待したい」として、中国の申請案件の登録が認められた場合は拠出金の凍結もあり得るとのシグナルを送り、慎重な審査を求めていた。
  一方、中国の分担率は6位の5・14%で日本のほぼ半分。任意拠出金も日本より少ない。しかし、中国の動きに詳しい関係者によると、中国は、記憶遺産の周 知を図る名目で関係者を中国に招待するなどしているという。記憶遺産事業だけでなく、アフリカでの女子教育などにも中国は積極的に支援を行っており、「さ まざまな形でボコバ事務局長の思いに応えている」との指摘もある。

中国の登録申請を受け、“防戦”に回った日本も傍観していたわけではなかった。「審査を行う国際諮問委員会メンバーに対し、ユネスコ加盟国は働きか けられない」(日本外務省筋)ことから政府はその動きをつまびらかにしていない。しかし、「政府は関係する分野の専門家などと協力し、委員側に日本の主張 を伝えてきた」(与党議員)という。民間団体もパリのユネスコ事務局を訪問し、英文の反論文を提出している。
 記憶遺産は、人類にとって歴 史的価値のある貴重な文書の保護などを目的とする。中国が日本を貶(おとし)めるために利用する「南京大虐殺文書」の登録が本来の目的にそぐわないことは 明らかだ。政府関係者は「今回の申請も受理も理解できない」と述べ、記憶遺産事業の見直しもユネスコに働きかけるべきだと強調した。



記憶遺産申請のウラに“中韓反日タッグ” 日本併合時代の朝鮮人労働者徴用記録
2015.9.29 20:20
http://www.iza.ne.jp/kiji/world/news/150929/wor15092920200016-n1.html
 世界文化遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産」をめぐり、またぞろ韓国が大騒ぎを始めそうだ。韓国政府が、日本併合時代に朝鮮人労働者が徴用されたことを記録した資料を、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に登録申請する方針を固めたというのだ。
 うんざりする計画は、韓国・聯合ニュースが伝えた。同国政府が2016年3月にユネスコに申請し、17年の登録を目指しているといい、聯合は「日本の歴史歪曲に対する積極的な牽制措置」と論評している。
 「明治日本の~」に関連し、韓国側が「朝鮮半島出身者の徴用工が、一部の施設で強制労働させられた」という筋違いな主張を展開し、露骨な登録妨害工作を繰り広げたことは記憶に新しい。
 「徴用」は合法的な勤労動員であり、大半は日本人に適用されたことは歴史的事実だが、韓国は再び「徴用=強制労働」という誤った図式を国際社会に喧伝するつもりのようだ。
 記憶遺産には、中国政府が昨年6月、「南京大虐殺」と「慰安婦」を登録申請している。
 慰安婦問題にも精通する拓殖大学の藤岡信勝客員教授は「韓国が、中国と同じ手口をとることは目に見えていた」と指摘し、続ける。
  「中韓で日本をたたこうという流れだ。『ユネスコの政治利用はやめよ』と両国に強く抗議したい。日本政府は、ユネスコに対して『反日キャンペーンに乗るな ら、ユネスコの分担金を払わない』ぐらいの強い態度を示してほしい。日本への侮辱を容認するような組織への支出は、国民にも説明がつかないはずだ」

「南京大虐殺」はWGIPのメインテーマです



南京事件-戦時国際法上合法説の詳解

佐藤和男氏『南京事件と戦時国際法』「正論」平成13年3月号
筆者は青山学院大学名誉教授
http://www21.atwiki.jp/nankin1937/pages/16.html


佐藤和男氏の戦時国際法の解釈はアカデミックで理解に苦労します。
y1892aさん の指摘するURLで、

>「南京大虐殺」はWGIPのメインテーマです
http://1st.geocities.jp/nmwgip/nanking/NankingWGIP.html#menu

と言う表題サイトに到達する。このサイトの説明は馴染み易いが
4ページに渡る膨大さを持っている。
現代人にはもはや死語になった軍律とか、
ハーグ陸戰ノ法規 、ジュネーヴ条約」(以下「第三条約」という) など、耳慣れない言葉が
続く、軍事忌避の者には、悪魔の響きと同様であろう。
表題の「南京大虐殺」はWGIPのメインテーマです、のWGIPすら解説が必要かもしれない。

強調したいのは、支那軍が戦時国際法に違反していた。
いや、むしろ、戦時国際法の発動を妨げていたと言い得る。

それは、日中戦争と言う言葉は、つい最近の言われ方で、戦時法規の発動が邪魔だったのは
専ら支那軍である。従って戦闘は戦争規模であったが、国際法から見れば日中戦争と言う言葉は
無かった。しかもこの当時の対戦相手は国民党軍であった。

現在の習近平率いる共産党軍が戦勝国になる事は有り得ないのである。
共産党、人民解放軍は、西域をこそこそ逃げ回っていた。

しかも、占領軍(米軍)のWGIPが、南京大虐殺に登場してくることに、
南京大虐殺とか、従軍慰安婦とか、バターン死の行進とかの捏造を
仕込んだ張本人はアメリカであると、告げている。


便衣兵の「処刑」に裁判は必要だったのか
http://1st.geocities.jp/nmwgip/nanking/Law_01.html


兵器を捨て降伏する者の殺傷は絶対的な禁止事項か?
http://1st.geocities.jp/nmwgip/nanking/Law_02.html


軍律の適用対象と便衣兵摘出
http://1st.geocities.jp/nmwgip/nanking/Law_03.html


幕府山事件
宣誓に依らざる捕虜解放に関する誤解
http://1st.geocities.jp/nmwgip/nanking/Bakufu.html

正統史観年表 非道の中国軍から中国人を守った旧日本軍 

転載記事です



正統史観年表
非道の中国軍から中国人を守った旧日本軍 


http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-128.html
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1938年6月、蒋介石軍が日本軍の進軍を阻止するため黄河の堤防を破壊した。
日本軍による救出活動も虚しく、多くの住民が罹災し、行方不明となった。
支那軍はこれを日本軍の仕業だと世界中に宣伝した。

―――――――

1938年6月6日に、日本は河南省の中心地である開封市を占領、
鄭州市も攻略できる様相となった。

早急な対策が求められた国民党軍側では劉峠第一戦区副司令官の
「黄河の堤防破壊により洪水を起すことによって日本軍の進撃を阻止」
する案が程潜司令官に示され、蒋介石の承認を得た。

蒋介石は、商震将軍に日本軍前衛部隊の背後を突くように
堤防爆破を命じたが、国民党軍の撤退が終わるまで爆破は延ばされた。

この間、蒋介石は何度もその爆破が行われたかの問い合わせを行っている。

おそらく蒋介石は、日本軍の進撃を阻止するために、
味方諸共水攻めにしようとしたのだろう。

6月7日には中牟近くで爆破が行われたが、これは結果として失敗し、
その後、場所を花園口に変更して作業が進められた。

6月9日午前9時に作業が終了、
堤防が破壊されると黄河の水は堤防の外に流れ出し、
河南省・安徽省・江蘇省の3省の土地54,000平方kmを水浸しにした。

この結果、黄河の流れは
その後9年間、南側へ変わり黄海に注ぐようになった。

水没した範囲は11都市と4,000の村におよび、
3省の農地は農作物ごと破壊され、水死者は100万人、
被害者は600万人と言われるが被害の程度については諸説ある。

6月11日夜、
支那軍は、隴海線中牟の西方20Kmの地点で黄河の堤防3箇所を破壊した。

二、三日前の雨で増水した黄河の水は堰を切って奔流しつつあった。

6月12日午後5時に日本軍の2部隊が堤防修理に出動し、
開封治安維持会からも50名以上が自発的に応援に出た。

洪水は中牟を中心として幅約20Kmにわたり、
5m弱の高さを持った中牟城壁は30cm程度を残すだけとなった。

幸い線路が高い所に位置していたため、
住民は線路伝いに徒歩で東方に避難した。

日本軍は筏船百数十艘を出して住民とともに救助活動を行い、
同時に氾濫した水を中牟付近から
別の地域に誘導するために堤防と河道を築いた。

日本軍に救助された避難民は開封方面1万人、
朱仙鎮、通許方面5万人、尉氏方面2万人、その他数万人だった。

国民党軍は現場に近づく日本軍に攻撃を加えたほか、
日本軍が住民と共同で行っていた防水作業を妨害した。

日本軍の地上部隊は住民とともに土嚢による防水作業を行い、
日本軍の航空機も氾濫した地区において麻袋をパラシュートにより投下して
これを支援したが、決壊地点の対岸にいた支那軍遊撃隊が
麻袋の投下開始直後からその航空機と地上で
防水作業中の住民に激しい射撃を加えたこともあった。

6月11日午前、支那国民党の通信社であった中央社は
「日本の空爆で黄河決壊」という偽情報を発信した。

6月13日、さらに支那国民党は、
支那全土の各メディアに虚偽報道の上「日本軍の暴挙」と逆喧伝させた。

当然、日本側は、支那の発表を否定するコメントを出した。

支那側からは、最初は黄河の堤防破壊は堤防の影に避難している支那軍を
日本軍が砲撃及び爆撃した時になされたものであるとの説明がなされ、
後には事件は日本軍によって意図して行われたことであり、
中牟と鄭州地区にある支那軍陣地への水攻めとし、
かつ後方連絡を脅かすゲリラに対する戦略であり、
広東への絶え間ない無差別爆撃と同様に
支那民衆を威嚇する日本軍の作戦の一部とされた。

さらに報告では日本軍機による中牟北部の堤防への爆撃が続けられ、
これが洪水を悪化させ、かつ日本軍は洪水の被害を受けた地区からの
避難民を機関銃で銃撃していること、が説明された。

支那国民党は、自分たちが行っていた住民への銃撃まで
日本軍の仕業だと嘘を吐いて逆宣伝を行っていた。

日本側は、開封の堤防破壊は
支那軍に強制された農民によるものと声明を出した。
(国民党軍は1個師団の兵に加えて付近の農民を強制して作業を行っていた)

また、日本軍は自軍の前進を妨げるために自軍が黄河の堤防を破壊して
洪水を引き起こすはずもなく、さらに堤防の大きさを考慮すれば
爆撃と砲撃によって堤防を破壊することは不可能だと主張した。

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『抗日戦回想録』郭沫若自伝より

敵の最初の計画は、伝えられるところでは、
大きく迂回した包囲戦略をとり、隴海線に沿って西進し、
さらに平漢線南半を奪って大武漢の背をつこうというものだったという。

しかしこの戦略は、6月11日の黄河堤防の決壊で、
河南省東部が沼沢地帯になったため、水の泡と化した。

あの時、黄河の堤防は
開封の西北の五荘、京水鎮、許家堤等で同時に決壊した。

わが方の対外宣伝では敵の無差別爆撃による、といっていたが、
実はわが軍の前線の将軍が命令によって掘りくずしたのだった。
わが伝統兵法――「水、六軍を淹(ひた)す」だった。

しかし敵が水浸しになった程度はたかの知れたもので、
むしろわが方の民間の生命財産が想像もつかぬ犠牲をこうむった。

敵の迂回戦略は挫折したが、逆に正面攻撃戦術をとり、
五方面の大軍で長江下流から水陸を並進し、直接武漢を攻撃した。

かくてしばしの安逸を貪っていた当局も
「大武漢を守れ」の呼びかけを出さざるを得なかった。
私たちが活躍すべき機会到来であった。

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中国軍は、みずから堤防を破壊しておきながら、
それを「日本軍がやった」と逆宣伝した。
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1938年6月16日 東京朝日新聞 夕刊【上海特電十五日発】上海軍当局談
「支那側は目下しきりに黄河堤防決壊は日本軍の所為なりと宣伝に努めつつ
あるが、決壊地点と称される京水鎮には、まだ、日本軍は進出しておらず…」

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1938年6月11日の中国軍による黄河の堤防決壊から罹災民を救い出す日本軍

同盟ニュース 昭和13年6月23日
泥流渦巻く黄河の洪水被災地で、日本軍が中国人を必死に救助した。

20101121151926319.jpg

『農民の飢餓救った日本軍』邦訳本出版より

1938年に中国軍が黄河の堤防を決壊し、
住民30万人以上を大量殺害した時にも、
中国は「日本軍の犯行」と宣伝したが、
日本軍は濁流に飲まれる中国住民を救っていた。
6月23日の同盟ニュースは、濁流渦巻く水禍の中、
ボートで救助作業をしている日本兵の姿を写している。
また、國史図書刊行会編『支那事変』にもその時の写真が掲載されている。

國史図書刊行会編『支那事変』
濁流に車馬を渡す須磨部隊(第10師団工兵第10連隊)。
中下は洪水によって浸水した農村地帯
日本軍2


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その後、支那軍は揚子江の堤防も破壊した。

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『悪逆、暴虐、その極に達す 敵、揚子江堤防を決壊』
6月26日同盟ニュース

悪逆の限り、黄河決壊の暴挙を敢えてなし、
無辜の民幾十万かを絶望の淵にたたき込んだ蒋介石は、
なんたる無謀か、皇軍を怖るあまり、又しても進撃を阻まんとして、
太湖南方揚子江両岸の馬華堤を破壊し、
付近一帯の住民は濁流渦巻く大水害に見舞われんとし、
怨嗟憤怒は地に満ちている。

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支那事変画報 第33号(毎日新聞 1938年7月11日)
わが軍の慈愛の手に救はれた黄河氾濫の被害民の群れ
3日本軍


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さらに中国軍は9月23日にも武穴鎮の下流で揚子江を決壊させた。

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黄河決壊事件の被害状況についての第一報は、1938年6月21日に
日本軍の占領下にある開封の治安維持会と商務会が発表している。
それによると、罹災者約100万人、うち行方不明者約12万人、
浸水部落約3500、うち水底に没したもの約2000、倒壊浸水家屋約30万戸、
被害面積約200平方キロという(大阪朝日1938年6月21日)。
死者数については、終戦後の1945年12月に
国民政府が河南省で行った「河南省戦時損失調査報告」がある。
それによると、1944年末の段階で、洪水による死者約32万人、
離郷者数約63万人という数値を提示している。

犯人である国民政府が終戦直後、河南省だけで約32万人とした死者数は、
その後『中国革命史辞典』などで89万人とされている。

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『中国革命の起源』ルシアン・ビアンコ著

一般住民に対して、徴発と略奪があまりしばしば行われたので、
農民は日本軍よりも彼等自身の軍隊をさらに一層憎んだ。
穀物を略奪されまいとして抵抗する農民を飢えた中国兵が殺したり、
日本軍の進撃を免れるために逃亡兵が村民を殺し、
その衣類を自分が着こんで変装するということも起こった。

日本軍の進撃を鈍らせて鄭州の町を守るために、
政府は1938年に黄河の堰を開いた。
すると、黄河は1世紀近く前から
打ち捨てられたままになっていた古い河道を再び流れた。

「思い切った」決定であったが、
このために、河南省東部の数十万の農民が命を失った。
彼等は水に溺れ、或は飢えて死んだのである。

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蒋介石が焦土戦術を命令していたことを報じる英国の通信社。

1938年(昭和13年)7月12日 東京朝日

【漢口発特電十一日発(ルーター特約)】

蒋政権当局は支那軍に対し九江退却に先立ち、
日本軍の軍事行動に便宜を与えるごとき財産或いは建造物は、
何物たるを問わずこれを破壊し去るよう命令を発した。

九江に権益を有する外国商社のうち亜細亜石油公司
及び怡和・太古の両汽船会社(いずれも英国人経営) は、
その所有財産が右破壊令の対象となることを恐れ、
蒋介石に対し右破壊令の施行範囲を最小限に留むるか、
または、特殊の物件に限り適用するよう、
今や躍起となって申し入れを行っている。

しかし、支那側は、もしこれら各社の施設が日本軍の手に渡れば、
必ず日本軍の軍事行動を助けることは必定であるから、
支那側は、退却に先立ちその欲するところにより、
これらの施設を破壊する完全なる権利を有するとの
見解をとっていることは明らかである。

商社側は依然申し入れを行っている。
なお近く南昌、信陽、岳州等の諸都市に対しても、
おそらく同様の命令が発せられるものと見られている。

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1938年10月、中国軍による清野作戦から中国人老婆などを救い出す日本軍。

『農民の飢餓救った日本軍』邦訳本出版より

10月21日、日本軍は広東に突入したが、中国軍は街に火を放って退却した。
國史図書刊行会篇の『支那事変』の255頁には、
市街はもうもうと上がる黒煙と炎で包まれ、
これを珠江の対岸から見ている日本兵の姿が写っている。

また、256頁には、逃げ遅れた老婆を背負って
避難地まで運んでいる日本兵の姿も写っている。
バックは物凄い黒煙である。

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産経ニュース 2008.12.29_23:03
「日本軍医の美談」日本語教材から削除 中国側のご都合歴史教育
http://sankei.jp.msn.com/world/china/081229/chn0812292305002-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/world/china/081229/chn0812292305002-n2.htm

【北京=矢板明夫】
日本のNPO法人が編集した日本語教材が中国で今秋出版されたが、
原本に史実として収録されていた「旧日本軍医が多くの中国人を助けた」
との内容に対し、中国側が「問題がある」として
削除していたことが29日までにわかった。

中国では愛国主義教育の一環として、
日本軍の残虐さを誇張して描写した書籍が大量に出版されており、
こうした日本軍のイメージと矛盾しているため
中国側が難色を示したとみられている。

この日本語教材は、北京の大手出版社「外語教学と研究出版社」が
9月に出版した「日語読庫」で、
日本のNPO法人、日本語多読研究会(本部、東京)が
外国人向けに編集した「日本語多読ライブラリー」(アスク出版)
を原本にしている。

日中の両出版社は当初、同じ内容の掲載を前提に話を進めていた。
ところが、中国側が突然、変更を求めてきたという。
この教材にはもともと、「雪女」「走れメロス」など
日本のおとぎ話や短編小説、伝記など5つの文章が収録されていたが、
中国側が問題視したのは「永井隆、原爆の地 長崎に生きて」
という文章だった。
長崎に原爆が投下された後、自分も被爆しながら、
多くのけが人を治療した医者、永井隆氏の生涯をつづった文章で、
1937年に永井氏は軍医として中国に赴き、日本人だけではなく、
病気や負傷をした中国人を多数治療したことも紹介されている。

そのうち、「1939年には1年間で4000人の中国の人々を助けた」
などの部分について、中国の出版社が「記述に問題がある」として
日本側に手直しを求めてきた。

日本側は、執筆の際に参考にした「永井隆全集」など
多くの史料を中国側に送り、説得しようとしたが、
結局「永井隆」の部分はすべて削除して出版された。

アスクの担当者は産経新聞の取材に対し、
「この教材は外国人向けの読み物であり、
日本人の中には永井隆博士のように素晴らしい人物がいることを、
ぜひ中国の皆さんに知ってもらいたかった」と述べた。

中国側と何度も交渉したこの担当者は
「削除は中国側の出版社の現場の意見ではなく、上の方の判断」
との印象を受けたという。
中国の外語教学と研究出版はこの件について「ノーコメント」としている。

同教材は2007年10月に韓国で出版され、
来春は台湾でも出版される予定だが、
いずれも原本のままで、内容については問題視されていない。

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農民の飢餓救った日本軍 邦訳本出版 中国で映画化

産経新聞 2006年4月9日より一部抜粋

1942年、大飢饉で河南省の農民を救ったのは、日本軍だった。
そんな歴史の真実をとらえ、ロングセラーとなっている中国小説が
このほど日本で翻訳出版された。
劉震雲さん著、劉燕子さん翻訳の「温故一九四二」(中国書店)だ。

同小説は日中戦争の最中の1942-43年、
河南省を襲った干魃による被災民3000万人、
餓死者300万人という大飢饉の状況を農民、蒋介石ら指導者、米国人記者、
日本軍の立場から多面的に描き出した。

飢饉の原因は天災だけでなく、
中国軍の容赦ない軍糧のとりたてのせいでもあった。
その中で、日本軍は餓死寸前の農民に軍糧を放出した。

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『抗日戦回想録』 郭沫若自伝

私はうけ合ってもいい、抗戦八年のあいだにこうしてふみにじられた同胞、
いわゆる壮丁から弱丁になり、弱丁から病丁になり、
病丁から死丁になって行った同胞の数は、戦死したもの、
日本軍に殺されたものにくらべて、最低百倍は超えているに違いない。

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中国の便衣兵、督戦隊(とくせんたい)、清野戦術
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-472.html
中国軍の清野作戦(=三光作戦、焦土作戦、燼滅(じんめつ)掃討作戦)
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-322.html
1938年(昭和13年)11月13日、長沙焚城(長沙大火)
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-473.html
日本人の武士道精神
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-257.html




ぼやきくっくり  支那人が支那人を殺す戦争!蒋介石の破壊と大虐殺





ぼやきくっくり
日本人は今、世界一、自分の国の歴史を知らない人たちになっている。自分の国の歴史を知らない人が、何で「国民」なのか。日本人の歴史を知らない人が、何で「日本人」なのか。(櫻井よしこさんの言葉)
http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid1356.html


支那人が支那人を殺す戦争!蒋介石の破壊と大虐殺
東アジア(歴史) | author : くっくり | 2013.03.30 Saturday
 先日、支那で2004年に行われた非公開アンケート(捕虜や婦女子を射殺できますか?)を拙ブログで紹介しましたが、アンケートを入手した「中国信息中心」の分析にこのような一文があったのを覚えておられるでしょうか。

 「中国人は中国人自身にも残酷で、情け容赦ない攻撃を加える。ましてや外国人に対しては説明するまでもないだろう」

支那01


 支那人は外国人に対してはもちろん、自国民をも攻撃する。

 彼らの歴史を見ればそういう事例はたくさんありますし(戦後は中国共産党による文化大革命や天安門事件が有名ですね)、資料もたくさん残されています。

 たとえば支那事変の際、当時現場にいた外国人が支那軍の残酷性について多くの記録を残していますが、中には支那人自身がそれを述べているケースもあります。
 
支那02


 中華人民共和国成立後、周恩来首相の下で副首相を務めた郭沫若(かくまつじゃく)という人がいます。

 日本との縁が深く、支那事変が起こるまで日本に長く住んでいました。
 支那事変が始まってのちは、国民党軍事委員会政治部第三庁の長官として文化宣伝に従事しました。

 その郭沫若が、昭和34年に日本で翻訳出版した『抗日戦回想録(原題『洪波曲』)』に、こう記しています。

【話だけでも胸の痛むことだ。あんなふうにわれわれは、やれ動員だ、やれ抗戦だといって、しかも毎日毎日「最後の勝利は必ずわれらのもの」などとくりかえしていたが、抗戦八年の間に、いわゆる壮丁(そうてい)から弱丁へ、弱丁から病丁へ、病丁から死丁へというふうにして踏みにじられた同胞の数は、戦死したり日本の侵略者に虐殺されたりしたものの少なくとも百倍以上はあっただろう。私はそういいきることができる】

支那03


 この記述を証明するものとして、まず、支那事変初期に起きた「黄河決壊事件」を取り上げてみます。
 蒋介石が実行した、一種の自国民大量虐殺です。

 この事件の記録を見れば、戦死したり日本軍に「虐殺」された同胞(支那人)の数よりも、自国軍に殺された同胞の数の方が100倍以上多かったという、郭沫若の主張が嘘ではないことが分かります。

支那04


[徐州作戦(隴海線方面)の戦闘経過と黄河氾濫地域。画像クリックにより新規画面で拡大されます]

 1938年6月。
 すでに河南省の開封(かいほう)を占領していた日本の北支那方面軍は、一部がさらに西の鄭州(ていしゅう)南方の平漢鉄路まで進出しました。

 慌てた蒋介石は日本軍を食い止めるため、中牟県というところで黄河の堤防を破壊しました。

 このため、濁流が東南の平原に流れ込み、周辺の村々だけでなく、安徽(あんき)省、江蘇(こうそ)省の一部を水浸しにしました。

 国民党政府は、日本軍の不意を突くため、大多数の住民に対しては事前に堤防の破壊を伝えない方針を決定していました。
 そのため住民らは逃げる時間もなく、たくさんの被害者が出ました。

 水死者は32万人とも100万人ともいわれます。この中には餓死者も含まれていると思われます。いずれにしろ、被害の程度については諸説あり、はっきりしたことは分かりません。

 また、水死は免れたものの、土地が水没したままで離郷を余儀なくされた住民も多数おり、この数も60数万人とも110万人以上ともいわれています。

 国民党は「黄河決壊事件は日本軍の砲撃で引き起こされたものである」「日本兵の被害は5000人」などと嘘の発表をしました。

 自作自演しておいて、それを敵の仕業だと内外に宣伝する、支那の伝統手法です。
 それに実際は日本側の被害も軽微なもので、水に囲まれて孤立した第十四師団でも洪水による死者は3名のみでした。

 が、国民党の説明にあまりにも無理があったため、各国メディアがそれをそのまま報道することはありませんでした。
 (Wikipedia>黄河決壊事件>各国メディアの報道を参照)

 ちなみにこの時、日本軍は住民の救助活動や堤防修理をしています。
支那05



[日本軍に救出された避難民。『支那事変画報』33号、「皇軍の慈愛/宣撫班員の活動」より(毎日新聞社、昭和13年7月11日発行)]
支那06



[被災地における日本軍の救助作業(同盟ニュース、昭和13年6月23日)]


 蒋介石軍に従軍し、黄河堤破壊現場を目撃したアメリカ人記者のジャック・ベルデンという人がいます。

 ベルデンは3年後の1941年の夏から秋にかけ、再びこの地方を訪れ、復興が進んでいるかどうか確かめようとしました。
 しかし、復興どころではありませんでした。
 
 その時のベルデンの記述です。

【来る日も来る日も、荒れ果てた土地、休閑状態の畑、朽ちて倒れかかった人の住まぬ 家が並んでいるのを、道を歩きながら見ていると、気が滅入る思いがした。まだひどい旱魃(かんばつ)が起っていないところが少なくなかったので、なぜ畑が 見捨てられているのかわからなくて困った。
 そのとき百姓たちは、国民党の徴税吏(ちょうぜいり)と蒋介石軍の徴発吏たちが収穫以上の穀物を要求するために、祖先の田地を立ち去ったのだとわたしに話してくれた。労働の果実がことごとく取り上げられてしまうだけでなく、要求された税に収穫が追いつかないために殴られたり牢屋にぶちこまれるのでは、どうして働くことができようか?】

 国民党は支援どころか、災害に苦しむ農民から苛酷な税を取り立てようとしたのです。
 そのため、農民は畑を放棄して逃げたのでした。

 しかもベルデンが立ち去った翌年、1942年には大干魃が襲いました。

支那07


 そしてその翌年、1943年の2月末から3月にかけて、今度はアメリカの雑誌『タイム』記者のセオドア・ホワイトが現地にやってきました。

 その時の様子をホワイトは後年に出した『歴史の探求』でこう述べています。

【死体があった。洛陽(らくよう)を出てから1時間も経たぬうちに、雪の中に横たわる死体があった。死後1、2日だろうか。その顔は頭蓋のまわりに萎(しぼ)んでいた。たぶん若い女性だったにちがいない。雪はその眼の上にも降り積っていた。埋葬もされぬまま、ついには鳥や犬が骨までしゃぶるだろう。
 犬どもも道端にたむろしていたが、狼の天性に戻ったか、毛並も艶やかでよく肥えていた。われわれは、砂の山から死体を掘り出している犬どもの写真を撮ろうと馬を止めた。なかには半分食べかけのもあったが、犬ははっきりそれとわかる頭蓋骨をきれいにつっつき終わっていた】

 このような残酷な場面を生んだ原因は、先にベルデンが聞き知ったのと同じでした。

【ちょうど近頃の世論調査員がやるように、毎晩私は土地の官吏と話したあと、克明に記録をつけた。そして私が得た結論は、中国政府がその人民を死にいたらしめた、あるいは愚かにも人民を餓死させたという一点に尽きた。政府は抗日戦を戦っていた。そのために情け容赦なく税を取り立てた。
 それも、政府が自国の紙幣を借用せず、戦地の政府軍は穀物などで税を取り立てて軍を維持するよう指示されていたのだ(ある将校は私にこういった。「たとえ民衆が死んでも土地は中国のものだ。だが兵士が飢え死にしたら土地は日本軍に奪われてしまう」)】

 ホワイトはこう続けています。

【河南省では、軍隊は土地の収穫高を上回る穀物税を取り立てた。文字通り田畑を空にしたのである。軍隊は、穀物が余っている地域から穀物を運んでこようとはしなかった。つまり人びとの食生活を完全に無視したのだ】

 さらにホワイトは、身の毛もよだつ恐ろしい噂を耳にしました。

【このような悲惨を私は見てきたが、耳にした最悪の話は人喰いの事実があるということだった。人 間が人間を殺して食べるなど、見たこともなかったし、まして人肉を味わったことなどない。だがこれは、論駁(ろんばく)の余地ない真実と見えた。たいてい の場合、人肉を死体からとるというのが、言い訳になっていた。われわれが記事にしようとした件はどれもこれも、それが弁解の手であった。
 ある村では、母親が2歳になる実の子を茹(ゆ)でてその肉を食べたことが発覚した。2人の息子を絞殺して食べたために告発されたという件もある。また、 貧しい子を預かるようにと軍に命令されて、ある農夫が8歳の少年を預かった。ところがいつの問にか少年の姿が見えない。調べてみると、農夫の小屋の傍の大 きなかめの中から少年の骨が出てきた。問題は、少年が死んでから食べられたのか、殺されたのちに食べられたのかという点だった】

 ホワイトの当時の推定によると、黄河堤の破壊のあと、洪水被害を受けた県には依然、800万人が生存していると思われました。
 しかし、彼の最終的な計算では、「500万人が死んだか、死につつある」と記されています。


 蒋介石の特に残虐なところは、人々をいったん安心させ、警戒心を緩めておいて騙し討ちにかける手法を繰り返し用いたことです。

 いくつもの例が記録されていますが、ここではもう一度、ベルデンの報告を見ます。

 ベルデンは実は第二次世界大戦終結後にも支那を訪れています。
 蒋介石の国民党軍と毛沢東の共産軍の間で始まった国共内戦の初期の頃のことでした。

 河南を訪れたベルデンは、蒋介石が民衆を騙し討ちにかけた事実に驚きました。

 共産軍が撤退してほとんど全県を国民党に明け渡した時、住民は地元にとどまって国民党軍を歓迎しました。

【紅軍(共産軍)から村を引き継ぐと、地主もしくは国民党の将校は民衆大会を招集し、大赦を宣告するのだった。「どの村では共産党の土地政策はとても良かった」、国民党はいつもこういうのだった。
 「われわれは何ひとつ変更しようとは思わない。われわれは、この村の村長、民兵の隊長、共産党のキャップをのぞいては、すべての人をゆるすつもりだ。だれでも、われわれをおそれる必要は少しもない。しかし、諸君のなかの一部の者は、共産党の宣伝によってまどわされている。諸君が村役場まで出頭して、悔恨(かいこん)状に署名しさえすれば、万事それでよいわけだ」。
 そこで、農民たちは出頭した。これ以上良いことはないと思ったので、かれらは村役場へ行って、自分が婦女会あるいは民兵に参加したことを認めた。そういうことをしても、何も悪いことが起こらなかったので、愚直な農民は罠(わな)にかかった。
 女房たちは亭主をときつけて、山のかくれ場所から帰ってこさせた。そして、活動的な農民がすべてふたたび村内に入ったと見たときに、国民党は悔恨状の署名者全部をしばりあげて、公然と処刑した。
 蒋介石は、抗日や反共に名をかりて、ヒトラーによるユダヤ人大量虐殺さえ顔負けの皆殺し(ホロコースト)を、自国民に対して働いていたのだ】


 話を支那事変に戻します。

 日本に戦争を仕掛けるに当たって蒋介石が採用した戦術は、いくつかの〝柱″から成り立っていました。

 まず、奥地(重慶)への退却と退却に際しての焦土作戦です。
 蒋介石は戦後、自著でこれをためらうことなく採用したと自慢しています。

 焦土作戦とは侵入してきた敵に利用させないよう、味方の人家や建物、各種施設に火を放ち破壊することです。

 したがって、住民は、家や生活手段を奪われ、焼け死んだり餓死したりし、自国民が最大の被害者になりますが、支那では伝統的な戦法でした。

 しかし、蒋介石の焦土作戦は常軌を逸し、たいていは無意味でもありました。

支那08


 1938年11月中旬、漢口を南に下った湖南省の大都市・長沙(ちょうさ)で、省長の張治中が強行したのは、無意味な放火の典型でした。

 日本軍が攻め込んでくるとの噂に怯え、事前の警告もなく、兵士を市街のあちこちに派遣してガソリンをまかせ、着火させたのです。

 この時、危うく焼死を免れたのが冒頭に紹介した郭沫若です。
 一時、長沙に滞在し、間もなく離れる準備を整えている最中に火の海に囲まれました。

 郭沫若はこの時に体験し、目撃した大火の模様、逃げ惑う群衆の哀れな様子を詳しく書き残しています。

【長沙に火をつけて焼き払ったのは、張治中とか藩公展とかいった人々の大いなる功労だった。彼らは一度奇功をたててみたい一心で、モスクワを焼いたクトゥーゾフを真似た結果が長沙市の大火になったのだ。
 だが、残念ながら、日本人は笑いものにするばかりで、ナポレオンを演じに登場してくれなかった。
 百万戸以上の人家を焼き、さらに統計にもれた傷病兵や病人や年寄りの市民を焼死させた責任は誰が負うのか?】

 この失態の責任を取らされ、警備司令の鄷悌(ほうてい)ら3人が銃殺されました。

 ちなみに、最高責任者の張治中は、周恩来が蒋介石をとりなしたので死刑を免れています。
 実は周恩来もこのとき長沙に居て火に囲まれ、間一髪で脱出し、直後は腹を立てていたのですが、自分が国民党に潜り込ませた隠れ共産党員の張治中を殺すわけにはいかなかったのです。

 (張治中は回想録の中で、周恩来に中国共産党への入党を申請したが、周恩来からは国民党にとどまり「ひそかに」中国共産党と合作することを求められた、と書き残しています)

支那09



 蒋介石は、自慢の焦土作戦を上海から南京に至るまでの戦場でも実行させました。
 しかも、支那兵は単に放火をしただけではありませんでした。

 日本軍が南京の近くまで押し寄せてから占領までの模様を、南京に居残っていたミニー・ヴォートリンという女性が記録しています。
 南京の金陵女子文理学院の教師(後に同学院校長)をしていた人です。

 彼女が『南京事件の日々』に記したところによれば、支那軍は周辺の村々から住民を連れ出したあと、村を焼き払いました。

 そして12月7日、何千人という支那人が安全区に入って来ましたが、彼らの話によれば、5時までに立ち退くよう警察から命令され、それに従わなければ家は焼き払われ、スパイとみなされるというのでした。

 ヴォートリンは家から離れざるをえなかった大勢の支那人が、空腹を抱え、寒さに震えている様子を、話を聞けた人たちの実名も挙げながら記しています。

 そして、「こうした作戦が仮に日本軍の入城を半日か1日遅らせるとしても、人々にこれほどまでの苦難を与えてまでもする価値があるのか疑問だ」と述べています。

 12月8日、日本軍の中支那方面軍は南京を包囲。
 12月9日、同軍司令官の松井石根は、支那軍に対し無血開城を勧告しました。
 しかし、支那軍が開城勧告に応じなかったため、12月10日に進撃を開始し、12月13日に南京城に入城します。

 日本軍が入城する前日、12月12日のヴォートリンの記述にはこうあります。

【防衛司令長官の唐[生智]には、麾下(きか)の部隊にたいする統率力が不足しているために、場内のほとんどの場所で掠奪がおこなわれているそうだ。(中略)
 いまや日本軍機は意のままに飛来しては爆弾をごっそり投下しているが、高射砲や中国軍機による反撃は何もない。犠牲がほとんど効果をあげていないとすれば、城壁外側のすべての家屋、それに内側の多くの家屋をも焼き払ったことは、とんでもない誤算であったと確信する。
 中国の貧しい民衆のほかにいったいだれが、このような破壊によって苦難をこうむるというのだろうか。破壊しないまま南京を引き渡したほうがよかったのではないだろうか】

【夜9時から10時にかけて陳さんと二人でキャンパスを巡回した。洗濯夫の胡さんと、彼の近所に住んでいる農民の朱さんは二人とも、まだ寝ていなかった。今夜彼らは、撤退して行く中国兵を怖がっている。というのも、家族のなかに若い娘がいるからだ】

 日本軍が入城した翌日の12月14日にはこういう記述が。

【夜明け前にふたたび城壁に激しい砲撃が浴びせられているようだった。おそらく、きょう主力部隊が進入するさいに、邪魔になる城門のバリケードを壊しているのだろう。ときおり銃声も聞こえた。たぶん、掠奪を働いている中国兵グループを日本軍衛兵が狙撃しているのだろう】

支那10


[カメラマン佐藤振寿氏が南京占領の2日後の12月15日、南京安全区にて撮影した写真。佐藤氏曰く「中国人は日本人カメラマンが行くと、積極的に子供をかかえて撮影に協力してくれる。日本兵や日本人を恐れていなかった」]

 支那兵が去ったあと、今度は支那の民間人による略奪が多発しました。

 ヴォートリンは、金陵女子文理学院理事会に提出したレポートの中でこう記しています。

【より貧しい人々は寝具や小銭さえも盗まれ、安全区にあってとても安全だった裕福な家の敷物やラジオや家具も盗まれつつある。私達は、12月17日頃から1月17日迄(この日に私は最後の火事を見た)のような大規模な焼却は見ない。
 現在の最も大きな悩み事は、「老百姓」即ち普通の人々による略奪が続いていることである。法も秩序も無いこの市のなかで、貧しい無法者は、どの家に入って欲しい物を持ってきても全く自由だと思っている。旧安全区の外では、多くの家が戸や窓や床までもすべてが盗まれている。
 ここ数日間、私は良質の戸と窓が売られているのを見たが、それは破壊が進んでいることを意味している。当然、私の中国人の友人はこの件に心を痛めているが、どうすることも出来ない】

 (ちなみにヴォートリンが教鞭を執っていた金陵女子文理学院に関しては、12月17日に日本兵が侵入して避難していた難民女性を多数強姦したと支那側が 主張しており、南京事件の映画では必ずこの描写を盛り込みますが、それが事実ではないことはヴォートリンのレポートの別の箇所に示されています)

 南京で放火、破壊、略奪、強姦を繰り広げたのは、はたして支那人か?日本人か?
 ヴォートリンの記録をご覧になった皆さんはどうお考えでしょうか。

支那11



 国民党軍による破壊行為は単に民家や建物の放火に留らず、農・工業生産施設、水運・海運、鉄道網などにも及びました。

 具体的内容が、1940年3月に南京特別市行政院宣伝局が発行した『中華民國維新政府概史』に掲載されています。
 
 それによると、蒋介石軍が南京陥落までに焦土作戦を強行した場所がわかり、主なものだけで、8つの郷村(鎮や県)が被害に遭っています。

 これにヴォートリンが述べた南京とその周辺を含めると、被害地域は上海から南京までおよそ300キロ、日本で言えば東京から豊橋までぐらいの区間に散在していました。

 日本語の『中華民國維新政府概史』は国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで誰でも見ることができます。

 たとえば、238ページにはこういう記述が見えます(現代語に改めています)。

【殊に蒋介石軍の兵車(へいしゃ)通過地域又はその駐屯地は、放火・掠奪・暴行・破壊と悪虐の限りを極められ、……農家は悉(ことごと)く被害を蒙(こうむ)り、甚だしきものは家屋農具は焼失、家畜・食料・種子は徴発され、農業生産に必要な一切のものを喪失するに至った】

支那12


[画像クリックにより新規画面で拡大されます]


 各地で狼藉を尽くした蒋介石軍が逃げ去ると、住民たちは安堵して隠れ場所から出てきました。
 そして、野蛮な蒋介石軍を退治した日本軍を歓迎したのです。

 それは南京でも同じでした。

 フリーアナウンサーの鈴木史朗さん(1938年2月生まれ)は3~4歳の頃、お父さんに連れられて南京に行った時、南京の人々が好意的に接してくれたという話を紹介しています。
 
 また、昨年、南京事件をめぐる発言で物議を醸した河村たかし名古屋市長も、南京で終戦を迎えたお父さんが南京の人々から温かいもてなしを受け、お礼に桜の木をプレゼントしたと話していました。

 どちらの体験も、「大虐殺」が虚構であり、日本軍の南京占領が住民にとっては解放だったからこそ、あり得た話ではないでしょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

※参考文献
・「WiLL」2012年12月号【誰が「南京大虐殺」を捏造したか 第9回「支那人が支那人を殺す戦争」】古荘光一氏
・日華事変と山西省>蒋介石の"以水代兵"―黄河決壊事件の人的被害
・Wikipedia>黄河決壊事件
・「正論」2012年2月号【虐殺はなかった 南京の平穏を証明するアメリカ人宣教師たちの記録(上)】松村俊夫氏
・「正論」2012年3月号【虐殺はなかった 南京の平穏を証明するアメリカ人宣教師たちの記録(下)】松村俊夫氏

※拙ブログ関連エントリー(支那の民族性)
・09/9/27付:GHQ焚書「敗走千里」より支那軍の実態
 1937年(昭和12年)、支那事変に強制徴用で駆り出された支那人青年の体験記。支那兵が自国人に掠奪や暴行を繰り返したり、便衣兵になって逃亡したりと、とにかく野蛮だったのが分かります。「督戦隊」も登場。
・10/9/27付:9月24日は国恥記念日 船長釈放でますます嵩にかかる中国
 元バレーボール日本代表の川合俊一さん曰く、「昨日まで普通だった中国の選手が、もう上か ら来るわけ。もう嵩(かさ)にかかってくるの。あ、こいつらには絶対負けちゃいけない、負けたらこんな目に遭うんだ。試合でも、えっ?そんなインチキまで 勝ちたいの?っていうぐらいのインチキしたりするんですよ」
・10/11/16付:尖閣問題を考える上での具体例を77年前の本に学ぶ
 ラルフ・タウンゼントの著書「暗黒大陸 中国の真実」より、尖閣問題をはじめとする対中問題を考える上で役立ちそうな箇所を引用しています。
・10/12/7付:支那人の民族性を考える上での具体例を77年前の本に学ぶ
 ラルフ・タウンゼントの著書「暗黒大陸 中国の真実」より、支那人の民族性そのものを理解するために役立ちそうな箇所を引用しています。
・10/12/20付:支那人にまつわる坂東忠信さんのインタビュー「正論」11月号より
 北京語の通訳捜査官として、中国人被疑者の逮捕現場や取り調べに立ち会ってきた坂東さん。 「中国人の供述は嘘が多いので、3回程度の取り調べでは終わりません」「中国人に対するに当たっての日本側の問題点は、日本人の歴史認識の不足です」「彼 らは共存よりも勝ち残ることを優先し、そのためには手段を選ばない」。
・11/2/5付:支那五千年の殺戮の歴史の集大成「三十六計」
 支那では陰謀詭計は日常茶飯事であり、伝統的な闘争文化なのです。
・11/7/25付:中国高速鉄道事故 車両隠蔽に朝日記者も驚愕!?
 中共には常識は通用しない。それを世界中に非常に分かりやすい形で教えてくれました。
・12/2/27付:河村市長頑張れ&支那軍と支那人の特徴及び南京陥落前の大混乱
 「南京大虐殺には動かぬ証拠がある」というのは中共の決まり文句。「動かぬ証拠」があるなら見せて下さいよと思うんですが、見せてくれたためしがありません。
・12/6/11付:旧日本軍軍装品から尖閣地図まで!歴史改竄のため史料を買い漁る支那人
 歴史は日本では「ヒストリー」ですが、支那では「プロパガンダ」。自国発行の古地図や日本の軍装品をなりふり構わず買い漁り、歴史を改竄することとも厭わないのです。
・12/7/23付:旧日本兵らが支那に寄贈した小学校が一般企業に払い下げられていた
 「遺骨詐欺」に遭った旧日本兵たち。「それでも支那の子供たちが喜んでくれるのなら…」。その思いすら裏切るのが支那なのです。
・12/11/5付:長崎事件をご存知ですか?支那を憂う明治天皇と沿岸防備に寄附した国民
 現在、尖閣そして沖縄に侵略の魔の手を伸ばす支那は日本にとって大きな脅威となっていますが、これと似たような状況が明治時代にもありました。
・13/2/9付:沖縄は支那の属国か?いわゆる朝貢体制の本質(付:レーダー照射問題)
 いわゆる朝貢制度とは、自国を世界の中心と仮想する支那人たちの哀れな自己満足のための妄想でしかなかったのです。
・13/3/25付:捕虜も婦女子も皆殺し!支那の非公開アンケート
 「あなたは婦女子や捕虜を射殺できますか?」…戦慄のアンケート結果です。



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