「南京大虐殺」はWGIPのメインテーマです



南京事件-戦時国際法上合法説の詳解

佐藤和男氏『南京事件と戦時国際法』「正論」平成13年3月号
筆者は青山学院大学名誉教授
http://www21.atwiki.jp/nankin1937/pages/16.html


佐藤和男氏の戦時国際法の解釈はアカデミックで理解に苦労します。
y1892aさん の指摘するURLで、

>「南京大虐殺」はWGIPのメインテーマです
http://1st.geocities.jp/nmwgip/nanking/NankingWGIP.html#menu

と言う表題サイトに到達する。このサイトの説明は馴染み易いが
4ページに渡る膨大さを持っている。
現代人にはもはや死語になった軍律とか、
ハーグ陸戰ノ法規 、ジュネーヴ条約」(以下「第三条約」という) など、耳慣れない言葉が
続く、軍事忌避の者には、悪魔の響きと同様であろう。
表題の「南京大虐殺」はWGIPのメインテーマです、のWGIPすら解説が必要かもしれない。

強調したいのは、支那軍が戦時国際法に違反していた。
いや、むしろ、戦時国際法の発動を妨げていたと言い得る。

それは、日中戦争と言う言葉は、つい最近の言われ方で、戦時法規の発動が邪魔だったのは
専ら支那軍である。従って戦闘は戦争規模であったが、国際法から見れば日中戦争と言う言葉は
無かった。しかもこの当時の対戦相手は国民党軍であった。

現在の習近平率いる共産党軍が戦勝国になる事は有り得ないのである。
共産党、人民解放軍は、西域をこそこそ逃げ回っていた。

しかも、占領軍(米軍)のWGIPが、南京大虐殺に登場してくることに、
南京大虐殺とか、従軍慰安婦とか、バターン死の行進とかの捏造を
仕込んだ張本人はアメリカであると、告げている。


便衣兵の「処刑」に裁判は必要だったのか
http://1st.geocities.jp/nmwgip/nanking/Law_01.html


兵器を捨て降伏する者の殺傷は絶対的な禁止事項か?
http://1st.geocities.jp/nmwgip/nanking/Law_02.html


軍律の適用対象と便衣兵摘出
http://1st.geocities.jp/nmwgip/nanking/Law_03.html


幕府山事件
宣誓に依らざる捕虜解放に関する誤解
http://1st.geocities.jp/nmwgip/nanking/Bakufu.html

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正統史観年表 非道の中国軍から中国人を守った旧日本軍 

転載記事です



正統史観年表
非道の中国軍から中国人を守った旧日本軍 


http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-128.html
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1938年6月、蒋介石軍が日本軍の進軍を阻止するため黄河の堤防を破壊した。
日本軍による救出活動も虚しく、多くの住民が罹災し、行方不明となった。
支那軍はこれを日本軍の仕業だと世界中に宣伝した。

―――――――

1938年6月6日に、日本は河南省の中心地である開封市を占領、
鄭州市も攻略できる様相となった。

早急な対策が求められた国民党軍側では劉峠第一戦区副司令官の
「黄河の堤防破壊により洪水を起すことによって日本軍の進撃を阻止」
する案が程潜司令官に示され、蒋介石の承認を得た。

蒋介石は、商震将軍に日本軍前衛部隊の背後を突くように
堤防爆破を命じたが、国民党軍の撤退が終わるまで爆破は延ばされた。

この間、蒋介石は何度もその爆破が行われたかの問い合わせを行っている。

おそらく蒋介石は、日本軍の進撃を阻止するために、
味方諸共水攻めにしようとしたのだろう。

6月7日には中牟近くで爆破が行われたが、これは結果として失敗し、
その後、場所を花園口に変更して作業が進められた。

6月9日午前9時に作業が終了、
堤防が破壊されると黄河の水は堤防の外に流れ出し、
河南省・安徽省・江蘇省の3省の土地54,000平方kmを水浸しにした。

この結果、黄河の流れは
その後9年間、南側へ変わり黄海に注ぐようになった。

水没した範囲は11都市と4,000の村におよび、
3省の農地は農作物ごと破壊され、水死者は100万人、
被害者は600万人と言われるが被害の程度については諸説ある。

6月11日夜、
支那軍は、隴海線中牟の西方20Kmの地点で黄河の堤防3箇所を破壊した。

二、三日前の雨で増水した黄河の水は堰を切って奔流しつつあった。

6月12日午後5時に日本軍の2部隊が堤防修理に出動し、
開封治安維持会からも50名以上が自発的に応援に出た。

洪水は中牟を中心として幅約20Kmにわたり、
5m弱の高さを持った中牟城壁は30cm程度を残すだけとなった。

幸い線路が高い所に位置していたため、
住民は線路伝いに徒歩で東方に避難した。

日本軍は筏船百数十艘を出して住民とともに救助活動を行い、
同時に氾濫した水を中牟付近から
別の地域に誘導するために堤防と河道を築いた。

日本軍に救助された避難民は開封方面1万人、
朱仙鎮、通許方面5万人、尉氏方面2万人、その他数万人だった。

国民党軍は現場に近づく日本軍に攻撃を加えたほか、
日本軍が住民と共同で行っていた防水作業を妨害した。

日本軍の地上部隊は住民とともに土嚢による防水作業を行い、
日本軍の航空機も氾濫した地区において麻袋をパラシュートにより投下して
これを支援したが、決壊地点の対岸にいた支那軍遊撃隊が
麻袋の投下開始直後からその航空機と地上で
防水作業中の住民に激しい射撃を加えたこともあった。

6月11日午前、支那国民党の通信社であった中央社は
「日本の空爆で黄河決壊」という偽情報を発信した。

6月13日、さらに支那国民党は、
支那全土の各メディアに虚偽報道の上「日本軍の暴挙」と逆喧伝させた。

当然、日本側は、支那の発表を否定するコメントを出した。

支那側からは、最初は黄河の堤防破壊は堤防の影に避難している支那軍を
日本軍が砲撃及び爆撃した時になされたものであるとの説明がなされ、
後には事件は日本軍によって意図して行われたことであり、
中牟と鄭州地区にある支那軍陣地への水攻めとし、
かつ後方連絡を脅かすゲリラに対する戦略であり、
広東への絶え間ない無差別爆撃と同様に
支那民衆を威嚇する日本軍の作戦の一部とされた。

さらに報告では日本軍機による中牟北部の堤防への爆撃が続けられ、
これが洪水を悪化させ、かつ日本軍は洪水の被害を受けた地区からの
避難民を機関銃で銃撃していること、が説明された。

支那国民党は、自分たちが行っていた住民への銃撃まで
日本軍の仕業だと嘘を吐いて逆宣伝を行っていた。

日本側は、開封の堤防破壊は
支那軍に強制された農民によるものと声明を出した。
(国民党軍は1個師団の兵に加えて付近の農民を強制して作業を行っていた)

また、日本軍は自軍の前進を妨げるために自軍が黄河の堤防を破壊して
洪水を引き起こすはずもなく、さらに堤防の大きさを考慮すれば
爆撃と砲撃によって堤防を破壊することは不可能だと主張した。

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『抗日戦回想録』郭沫若自伝より

敵の最初の計画は、伝えられるところでは、
大きく迂回した包囲戦略をとり、隴海線に沿って西進し、
さらに平漢線南半を奪って大武漢の背をつこうというものだったという。

しかしこの戦略は、6月11日の黄河堤防の決壊で、
河南省東部が沼沢地帯になったため、水の泡と化した。

あの時、黄河の堤防は
開封の西北の五荘、京水鎮、許家堤等で同時に決壊した。

わが方の対外宣伝では敵の無差別爆撃による、といっていたが、
実はわが軍の前線の将軍が命令によって掘りくずしたのだった。
わが伝統兵法――「水、六軍を淹(ひた)す」だった。

しかし敵が水浸しになった程度はたかの知れたもので、
むしろわが方の民間の生命財産が想像もつかぬ犠牲をこうむった。

敵の迂回戦略は挫折したが、逆に正面攻撃戦術をとり、
五方面の大軍で長江下流から水陸を並進し、直接武漢を攻撃した。

かくてしばしの安逸を貪っていた当局も
「大武漢を守れ」の呼びかけを出さざるを得なかった。
私たちが活躍すべき機会到来であった。

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中国軍は、みずから堤防を破壊しておきながら、
それを「日本軍がやった」と逆宣伝した。
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1938年6月16日 東京朝日新聞 夕刊【上海特電十五日発】上海軍当局談
「支那側は目下しきりに黄河堤防決壊は日本軍の所為なりと宣伝に努めつつ
あるが、決壊地点と称される京水鎮には、まだ、日本軍は進出しておらず…」

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1938年6月11日の中国軍による黄河の堤防決壊から罹災民を救い出す日本軍

同盟ニュース 昭和13年6月23日
泥流渦巻く黄河の洪水被災地で、日本軍が中国人を必死に救助した。

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『農民の飢餓救った日本軍』邦訳本出版より

1938年に中国軍が黄河の堤防を決壊し、
住民30万人以上を大量殺害した時にも、
中国は「日本軍の犯行」と宣伝したが、
日本軍は濁流に飲まれる中国住民を救っていた。
6月23日の同盟ニュースは、濁流渦巻く水禍の中、
ボートで救助作業をしている日本兵の姿を写している。
また、國史図書刊行会編『支那事変』にもその時の写真が掲載されている。

國史図書刊行会編『支那事変』
濁流に車馬を渡す須磨部隊(第10師団工兵第10連隊)。
中下は洪水によって浸水した農村地帯
日本軍2


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その後、支那軍は揚子江の堤防も破壊した。

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『悪逆、暴虐、その極に達す 敵、揚子江堤防を決壊』
6月26日同盟ニュース

悪逆の限り、黄河決壊の暴挙を敢えてなし、
無辜の民幾十万かを絶望の淵にたたき込んだ蒋介石は、
なんたる無謀か、皇軍を怖るあまり、又しても進撃を阻まんとして、
太湖南方揚子江両岸の馬華堤を破壊し、
付近一帯の住民は濁流渦巻く大水害に見舞われんとし、
怨嗟憤怒は地に満ちている。

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支那事変画報 第33号(毎日新聞 1938年7月11日)
わが軍の慈愛の手に救はれた黄河氾濫の被害民の群れ
3日本軍


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さらに中国軍は9月23日にも武穴鎮の下流で揚子江を決壊させた。

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黄河決壊事件の被害状況についての第一報は、1938年6月21日に
日本軍の占領下にある開封の治安維持会と商務会が発表している。
それによると、罹災者約100万人、うち行方不明者約12万人、
浸水部落約3500、うち水底に没したもの約2000、倒壊浸水家屋約30万戸、
被害面積約200平方キロという(大阪朝日1938年6月21日)。
死者数については、終戦後の1945年12月に
国民政府が河南省で行った「河南省戦時損失調査報告」がある。
それによると、1944年末の段階で、洪水による死者約32万人、
離郷者数約63万人という数値を提示している。

犯人である国民政府が終戦直後、河南省だけで約32万人とした死者数は、
その後『中国革命史辞典』などで89万人とされている。

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『中国革命の起源』ルシアン・ビアンコ著

一般住民に対して、徴発と略奪があまりしばしば行われたので、
農民は日本軍よりも彼等自身の軍隊をさらに一層憎んだ。
穀物を略奪されまいとして抵抗する農民を飢えた中国兵が殺したり、
日本軍の進撃を免れるために逃亡兵が村民を殺し、
その衣類を自分が着こんで変装するということも起こった。

日本軍の進撃を鈍らせて鄭州の町を守るために、
政府は1938年に黄河の堰を開いた。
すると、黄河は1世紀近く前から
打ち捨てられたままになっていた古い河道を再び流れた。

「思い切った」決定であったが、
このために、河南省東部の数十万の農民が命を失った。
彼等は水に溺れ、或は飢えて死んだのである。

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蒋介石が焦土戦術を命令していたことを報じる英国の通信社。

1938年(昭和13年)7月12日 東京朝日

【漢口発特電十一日発(ルーター特約)】

蒋政権当局は支那軍に対し九江退却に先立ち、
日本軍の軍事行動に便宜を与えるごとき財産或いは建造物は、
何物たるを問わずこれを破壊し去るよう命令を発した。

九江に権益を有する外国商社のうち亜細亜石油公司
及び怡和・太古の両汽船会社(いずれも英国人経営) は、
その所有財産が右破壊令の対象となることを恐れ、
蒋介石に対し右破壊令の施行範囲を最小限に留むるか、
または、特殊の物件に限り適用するよう、
今や躍起となって申し入れを行っている。

しかし、支那側は、もしこれら各社の施設が日本軍の手に渡れば、
必ず日本軍の軍事行動を助けることは必定であるから、
支那側は、退却に先立ちその欲するところにより、
これらの施設を破壊する完全なる権利を有するとの
見解をとっていることは明らかである。

商社側は依然申し入れを行っている。
なお近く南昌、信陽、岳州等の諸都市に対しても、
おそらく同様の命令が発せられるものと見られている。

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1938年10月、中国軍による清野作戦から中国人老婆などを救い出す日本軍。

『農民の飢餓救った日本軍』邦訳本出版より

10月21日、日本軍は広東に突入したが、中国軍は街に火を放って退却した。
國史図書刊行会篇の『支那事変』の255頁には、
市街はもうもうと上がる黒煙と炎で包まれ、
これを珠江の対岸から見ている日本兵の姿が写っている。

また、256頁には、逃げ遅れた老婆を背負って
避難地まで運んでいる日本兵の姿も写っている。
バックは物凄い黒煙である。

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産経ニュース 2008.12.29_23:03
「日本軍医の美談」日本語教材から削除 中国側のご都合歴史教育
http://sankei.jp.msn.com/world/china/081229/chn0812292305002-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/world/china/081229/chn0812292305002-n2.htm

【北京=矢板明夫】
日本のNPO法人が編集した日本語教材が中国で今秋出版されたが、
原本に史実として収録されていた「旧日本軍医が多くの中国人を助けた」
との内容に対し、中国側が「問題がある」として
削除していたことが29日までにわかった。

中国では愛国主義教育の一環として、
日本軍の残虐さを誇張して描写した書籍が大量に出版されており、
こうした日本軍のイメージと矛盾しているため
中国側が難色を示したとみられている。

この日本語教材は、北京の大手出版社「外語教学と研究出版社」が
9月に出版した「日語読庫」で、
日本のNPO法人、日本語多読研究会(本部、東京)が
外国人向けに編集した「日本語多読ライブラリー」(アスク出版)
を原本にしている。

日中の両出版社は当初、同じ内容の掲載を前提に話を進めていた。
ところが、中国側が突然、変更を求めてきたという。
この教材にはもともと、「雪女」「走れメロス」など
日本のおとぎ話や短編小説、伝記など5つの文章が収録されていたが、
中国側が問題視したのは「永井隆、原爆の地 長崎に生きて」
という文章だった。
長崎に原爆が投下された後、自分も被爆しながら、
多くのけが人を治療した医者、永井隆氏の生涯をつづった文章で、
1937年に永井氏は軍医として中国に赴き、日本人だけではなく、
病気や負傷をした中国人を多数治療したことも紹介されている。

そのうち、「1939年には1年間で4000人の中国の人々を助けた」
などの部分について、中国の出版社が「記述に問題がある」として
日本側に手直しを求めてきた。

日本側は、執筆の際に参考にした「永井隆全集」など
多くの史料を中国側に送り、説得しようとしたが、
結局「永井隆」の部分はすべて削除して出版された。

アスクの担当者は産経新聞の取材に対し、
「この教材は外国人向けの読み物であり、
日本人の中には永井隆博士のように素晴らしい人物がいることを、
ぜひ中国の皆さんに知ってもらいたかった」と述べた。

中国側と何度も交渉したこの担当者は
「削除は中国側の出版社の現場の意見ではなく、上の方の判断」
との印象を受けたという。
中国の外語教学と研究出版はこの件について「ノーコメント」としている。

同教材は2007年10月に韓国で出版され、
来春は台湾でも出版される予定だが、
いずれも原本のままで、内容については問題視されていない。

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農民の飢餓救った日本軍 邦訳本出版 中国で映画化

産経新聞 2006年4月9日より一部抜粋

1942年、大飢饉で河南省の農民を救ったのは、日本軍だった。
そんな歴史の真実をとらえ、ロングセラーとなっている中国小説が
このほど日本で翻訳出版された。
劉震雲さん著、劉燕子さん翻訳の「温故一九四二」(中国書店)だ。

同小説は日中戦争の最中の1942-43年、
河南省を襲った干魃による被災民3000万人、
餓死者300万人という大飢饉の状況を農民、蒋介石ら指導者、米国人記者、
日本軍の立場から多面的に描き出した。

飢饉の原因は天災だけでなく、
中国軍の容赦ない軍糧のとりたてのせいでもあった。
その中で、日本軍は餓死寸前の農民に軍糧を放出した。

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『抗日戦回想録』 郭沫若自伝

私はうけ合ってもいい、抗戦八年のあいだにこうしてふみにじられた同胞、
いわゆる壮丁から弱丁になり、弱丁から病丁になり、
病丁から死丁になって行った同胞の数は、戦死したもの、
日本軍に殺されたものにくらべて、最低百倍は超えているに違いない。

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中国の便衣兵、督戦隊(とくせんたい)、清野戦術
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-472.html
中国軍の清野作戦(=三光作戦、焦土作戦、燼滅(じんめつ)掃討作戦)
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-322.html
1938年(昭和13年)11月13日、長沙焚城(長沙大火)
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-473.html
日本人の武士道精神
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-257.html




ぼやきくっくり  支那人が支那人を殺す戦争!蒋介石の破壊と大虐殺





ぼやきくっくり
日本人は今、世界一、自分の国の歴史を知らない人たちになっている。自分の国の歴史を知らない人が、何で「国民」なのか。日本人の歴史を知らない人が、何で「日本人」なのか。(櫻井よしこさんの言葉)
http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid1356.html


支那人が支那人を殺す戦争!蒋介石の破壊と大虐殺
東アジア(歴史) | author : くっくり | 2013.03.30 Saturday
 先日、支那で2004年に行われた非公開アンケート(捕虜や婦女子を射殺できますか?)を拙ブログで紹介しましたが、アンケートを入手した「中国信息中心」の分析にこのような一文があったのを覚えておられるでしょうか。

 「中国人は中国人自身にも残酷で、情け容赦ない攻撃を加える。ましてや外国人に対しては説明するまでもないだろう」

支那01


 支那人は外国人に対してはもちろん、自国民をも攻撃する。

 彼らの歴史を見ればそういう事例はたくさんありますし(戦後は中国共産党による文化大革命や天安門事件が有名ですね)、資料もたくさん残されています。

 たとえば支那事変の際、当時現場にいた外国人が支那軍の残酷性について多くの記録を残していますが、中には支那人自身がそれを述べているケースもあります。
 
支那02


 中華人民共和国成立後、周恩来首相の下で副首相を務めた郭沫若(かくまつじゃく)という人がいます。

 日本との縁が深く、支那事変が起こるまで日本に長く住んでいました。
 支那事変が始まってのちは、国民党軍事委員会政治部第三庁の長官として文化宣伝に従事しました。

 その郭沫若が、昭和34年に日本で翻訳出版した『抗日戦回想録(原題『洪波曲』)』に、こう記しています。

【話だけでも胸の痛むことだ。あんなふうにわれわれは、やれ動員だ、やれ抗戦だといって、しかも毎日毎日「最後の勝利は必ずわれらのもの」などとくりかえしていたが、抗戦八年の間に、いわゆる壮丁(そうてい)から弱丁へ、弱丁から病丁へ、病丁から死丁へというふうにして踏みにじられた同胞の数は、戦死したり日本の侵略者に虐殺されたりしたものの少なくとも百倍以上はあっただろう。私はそういいきることができる】

支那03


 この記述を証明するものとして、まず、支那事変初期に起きた「黄河決壊事件」を取り上げてみます。
 蒋介石が実行した、一種の自国民大量虐殺です。

 この事件の記録を見れば、戦死したり日本軍に「虐殺」された同胞(支那人)の数よりも、自国軍に殺された同胞の数の方が100倍以上多かったという、郭沫若の主張が嘘ではないことが分かります。

支那04


[徐州作戦(隴海線方面)の戦闘経過と黄河氾濫地域。画像クリックにより新規画面で拡大されます]

 1938年6月。
 すでに河南省の開封(かいほう)を占領していた日本の北支那方面軍は、一部がさらに西の鄭州(ていしゅう)南方の平漢鉄路まで進出しました。

 慌てた蒋介石は日本軍を食い止めるため、中牟県というところで黄河の堤防を破壊しました。

 このため、濁流が東南の平原に流れ込み、周辺の村々だけでなく、安徽(あんき)省、江蘇(こうそ)省の一部を水浸しにしました。

 国民党政府は、日本軍の不意を突くため、大多数の住民に対しては事前に堤防の破壊を伝えない方針を決定していました。
 そのため住民らは逃げる時間もなく、たくさんの被害者が出ました。

 水死者は32万人とも100万人ともいわれます。この中には餓死者も含まれていると思われます。いずれにしろ、被害の程度については諸説あり、はっきりしたことは分かりません。

 また、水死は免れたものの、土地が水没したままで離郷を余儀なくされた住民も多数おり、この数も60数万人とも110万人以上ともいわれています。

 国民党は「黄河決壊事件は日本軍の砲撃で引き起こされたものである」「日本兵の被害は5000人」などと嘘の発表をしました。

 自作自演しておいて、それを敵の仕業だと内外に宣伝する、支那の伝統手法です。
 それに実際は日本側の被害も軽微なもので、水に囲まれて孤立した第十四師団でも洪水による死者は3名のみでした。

 が、国民党の説明にあまりにも無理があったため、各国メディアがそれをそのまま報道することはありませんでした。
 (Wikipedia>黄河決壊事件>各国メディアの報道を参照)

 ちなみにこの時、日本軍は住民の救助活動や堤防修理をしています。
支那05



[日本軍に救出された避難民。『支那事変画報』33号、「皇軍の慈愛/宣撫班員の活動」より(毎日新聞社、昭和13年7月11日発行)]
支那06



[被災地における日本軍の救助作業(同盟ニュース、昭和13年6月23日)]


 蒋介石軍に従軍し、黄河堤破壊現場を目撃したアメリカ人記者のジャック・ベルデンという人がいます。

 ベルデンは3年後の1941年の夏から秋にかけ、再びこの地方を訪れ、復興が進んでいるかどうか確かめようとしました。
 しかし、復興どころではありませんでした。
 
 その時のベルデンの記述です。

【来る日も来る日も、荒れ果てた土地、休閑状態の畑、朽ちて倒れかかった人の住まぬ 家が並んでいるのを、道を歩きながら見ていると、気が滅入る思いがした。まだひどい旱魃(かんばつ)が起っていないところが少なくなかったので、なぜ畑が 見捨てられているのかわからなくて困った。
 そのとき百姓たちは、国民党の徴税吏(ちょうぜいり)と蒋介石軍の徴発吏たちが収穫以上の穀物を要求するために、祖先の田地を立ち去ったのだとわたしに話してくれた。労働の果実がことごとく取り上げられてしまうだけでなく、要求された税に収穫が追いつかないために殴られたり牢屋にぶちこまれるのでは、どうして働くことができようか?】

 国民党は支援どころか、災害に苦しむ農民から苛酷な税を取り立てようとしたのです。
 そのため、農民は畑を放棄して逃げたのでした。

 しかもベルデンが立ち去った翌年、1942年には大干魃が襲いました。

支那07


 そしてその翌年、1943年の2月末から3月にかけて、今度はアメリカの雑誌『タイム』記者のセオドア・ホワイトが現地にやってきました。

 その時の様子をホワイトは後年に出した『歴史の探求』でこう述べています。

【死体があった。洛陽(らくよう)を出てから1時間も経たぬうちに、雪の中に横たわる死体があった。死後1、2日だろうか。その顔は頭蓋のまわりに萎(しぼ)んでいた。たぶん若い女性だったにちがいない。雪はその眼の上にも降り積っていた。埋葬もされぬまま、ついには鳥や犬が骨までしゃぶるだろう。
 犬どもも道端にたむろしていたが、狼の天性に戻ったか、毛並も艶やかでよく肥えていた。われわれは、砂の山から死体を掘り出している犬どもの写真を撮ろうと馬を止めた。なかには半分食べかけのもあったが、犬ははっきりそれとわかる頭蓋骨をきれいにつっつき終わっていた】

 このような残酷な場面を生んだ原因は、先にベルデンが聞き知ったのと同じでした。

【ちょうど近頃の世論調査員がやるように、毎晩私は土地の官吏と話したあと、克明に記録をつけた。そして私が得た結論は、中国政府がその人民を死にいたらしめた、あるいは愚かにも人民を餓死させたという一点に尽きた。政府は抗日戦を戦っていた。そのために情け容赦なく税を取り立てた。
 それも、政府が自国の紙幣を借用せず、戦地の政府軍は穀物などで税を取り立てて軍を維持するよう指示されていたのだ(ある将校は私にこういった。「たとえ民衆が死んでも土地は中国のものだ。だが兵士が飢え死にしたら土地は日本軍に奪われてしまう」)】

 ホワイトはこう続けています。

【河南省では、軍隊は土地の収穫高を上回る穀物税を取り立てた。文字通り田畑を空にしたのである。軍隊は、穀物が余っている地域から穀物を運んでこようとはしなかった。つまり人びとの食生活を完全に無視したのだ】

 さらにホワイトは、身の毛もよだつ恐ろしい噂を耳にしました。

【このような悲惨を私は見てきたが、耳にした最悪の話は人喰いの事実があるということだった。人 間が人間を殺して食べるなど、見たこともなかったし、まして人肉を味わったことなどない。だがこれは、論駁(ろんばく)の余地ない真実と見えた。たいてい の場合、人肉を死体からとるというのが、言い訳になっていた。われわれが記事にしようとした件はどれもこれも、それが弁解の手であった。
 ある村では、母親が2歳になる実の子を茹(ゆ)でてその肉を食べたことが発覚した。2人の息子を絞殺して食べたために告発されたという件もある。また、 貧しい子を預かるようにと軍に命令されて、ある農夫が8歳の少年を預かった。ところがいつの問にか少年の姿が見えない。調べてみると、農夫の小屋の傍の大 きなかめの中から少年の骨が出てきた。問題は、少年が死んでから食べられたのか、殺されたのちに食べられたのかという点だった】

 ホワイトの当時の推定によると、黄河堤の破壊のあと、洪水被害を受けた県には依然、800万人が生存していると思われました。
 しかし、彼の最終的な計算では、「500万人が死んだか、死につつある」と記されています。


 蒋介石の特に残虐なところは、人々をいったん安心させ、警戒心を緩めておいて騙し討ちにかける手法を繰り返し用いたことです。

 いくつもの例が記録されていますが、ここではもう一度、ベルデンの報告を見ます。

 ベルデンは実は第二次世界大戦終結後にも支那を訪れています。
 蒋介石の国民党軍と毛沢東の共産軍の間で始まった国共内戦の初期の頃のことでした。

 河南を訪れたベルデンは、蒋介石が民衆を騙し討ちにかけた事実に驚きました。

 共産軍が撤退してほとんど全県を国民党に明け渡した時、住民は地元にとどまって国民党軍を歓迎しました。

【紅軍(共産軍)から村を引き継ぐと、地主もしくは国民党の将校は民衆大会を招集し、大赦を宣告するのだった。「どの村では共産党の土地政策はとても良かった」、国民党はいつもこういうのだった。
 「われわれは何ひとつ変更しようとは思わない。われわれは、この村の村長、民兵の隊長、共産党のキャップをのぞいては、すべての人をゆるすつもりだ。だれでも、われわれをおそれる必要は少しもない。しかし、諸君のなかの一部の者は、共産党の宣伝によってまどわされている。諸君が村役場まで出頭して、悔恨(かいこん)状に署名しさえすれば、万事それでよいわけだ」。
 そこで、農民たちは出頭した。これ以上良いことはないと思ったので、かれらは村役場へ行って、自分が婦女会あるいは民兵に参加したことを認めた。そういうことをしても、何も悪いことが起こらなかったので、愚直な農民は罠(わな)にかかった。
 女房たちは亭主をときつけて、山のかくれ場所から帰ってこさせた。そして、活動的な農民がすべてふたたび村内に入ったと見たときに、国民党は悔恨状の署名者全部をしばりあげて、公然と処刑した。
 蒋介石は、抗日や反共に名をかりて、ヒトラーによるユダヤ人大量虐殺さえ顔負けの皆殺し(ホロコースト)を、自国民に対して働いていたのだ】


 話を支那事変に戻します。

 日本に戦争を仕掛けるに当たって蒋介石が採用した戦術は、いくつかの〝柱″から成り立っていました。

 まず、奥地(重慶)への退却と退却に際しての焦土作戦です。
 蒋介石は戦後、自著でこれをためらうことなく採用したと自慢しています。

 焦土作戦とは侵入してきた敵に利用させないよう、味方の人家や建物、各種施設に火を放ち破壊することです。

 したがって、住民は、家や生活手段を奪われ、焼け死んだり餓死したりし、自国民が最大の被害者になりますが、支那では伝統的な戦法でした。

 しかし、蒋介石の焦土作戦は常軌を逸し、たいていは無意味でもありました。

支那08


 1938年11月中旬、漢口を南に下った湖南省の大都市・長沙(ちょうさ)で、省長の張治中が強行したのは、無意味な放火の典型でした。

 日本軍が攻め込んでくるとの噂に怯え、事前の警告もなく、兵士を市街のあちこちに派遣してガソリンをまかせ、着火させたのです。

 この時、危うく焼死を免れたのが冒頭に紹介した郭沫若です。
 一時、長沙に滞在し、間もなく離れる準備を整えている最中に火の海に囲まれました。

 郭沫若はこの時に体験し、目撃した大火の模様、逃げ惑う群衆の哀れな様子を詳しく書き残しています。

【長沙に火をつけて焼き払ったのは、張治中とか藩公展とかいった人々の大いなる功労だった。彼らは一度奇功をたててみたい一心で、モスクワを焼いたクトゥーゾフを真似た結果が長沙市の大火になったのだ。
 だが、残念ながら、日本人は笑いものにするばかりで、ナポレオンを演じに登場してくれなかった。
 百万戸以上の人家を焼き、さらに統計にもれた傷病兵や病人や年寄りの市民を焼死させた責任は誰が負うのか?】

 この失態の責任を取らされ、警備司令の鄷悌(ほうてい)ら3人が銃殺されました。

 ちなみに、最高責任者の張治中は、周恩来が蒋介石をとりなしたので死刑を免れています。
 実は周恩来もこのとき長沙に居て火に囲まれ、間一髪で脱出し、直後は腹を立てていたのですが、自分が国民党に潜り込ませた隠れ共産党員の張治中を殺すわけにはいかなかったのです。

 (張治中は回想録の中で、周恩来に中国共産党への入党を申請したが、周恩来からは国民党にとどまり「ひそかに」中国共産党と合作することを求められた、と書き残しています)

支那09



 蒋介石は、自慢の焦土作戦を上海から南京に至るまでの戦場でも実行させました。
 しかも、支那兵は単に放火をしただけではありませんでした。

 日本軍が南京の近くまで押し寄せてから占領までの模様を、南京に居残っていたミニー・ヴォートリンという女性が記録しています。
 南京の金陵女子文理学院の教師(後に同学院校長)をしていた人です。

 彼女が『南京事件の日々』に記したところによれば、支那軍は周辺の村々から住民を連れ出したあと、村を焼き払いました。

 そして12月7日、何千人という支那人が安全区に入って来ましたが、彼らの話によれば、5時までに立ち退くよう警察から命令され、それに従わなければ家は焼き払われ、スパイとみなされるというのでした。

 ヴォートリンは家から離れざるをえなかった大勢の支那人が、空腹を抱え、寒さに震えている様子を、話を聞けた人たちの実名も挙げながら記しています。

 そして、「こうした作戦が仮に日本軍の入城を半日か1日遅らせるとしても、人々にこれほどまでの苦難を与えてまでもする価値があるのか疑問だ」と述べています。

 12月8日、日本軍の中支那方面軍は南京を包囲。
 12月9日、同軍司令官の松井石根は、支那軍に対し無血開城を勧告しました。
 しかし、支那軍が開城勧告に応じなかったため、12月10日に進撃を開始し、12月13日に南京城に入城します。

 日本軍が入城する前日、12月12日のヴォートリンの記述にはこうあります。

【防衛司令長官の唐[生智]には、麾下(きか)の部隊にたいする統率力が不足しているために、場内のほとんどの場所で掠奪がおこなわれているそうだ。(中略)
 いまや日本軍機は意のままに飛来しては爆弾をごっそり投下しているが、高射砲や中国軍機による反撃は何もない。犠牲がほとんど効果をあげていないとすれば、城壁外側のすべての家屋、それに内側の多くの家屋をも焼き払ったことは、とんでもない誤算であったと確信する。
 中国の貧しい民衆のほかにいったいだれが、このような破壊によって苦難をこうむるというのだろうか。破壊しないまま南京を引き渡したほうがよかったのではないだろうか】

【夜9時から10時にかけて陳さんと二人でキャンパスを巡回した。洗濯夫の胡さんと、彼の近所に住んでいる農民の朱さんは二人とも、まだ寝ていなかった。今夜彼らは、撤退して行く中国兵を怖がっている。というのも、家族のなかに若い娘がいるからだ】

 日本軍が入城した翌日の12月14日にはこういう記述が。

【夜明け前にふたたび城壁に激しい砲撃が浴びせられているようだった。おそらく、きょう主力部隊が進入するさいに、邪魔になる城門のバリケードを壊しているのだろう。ときおり銃声も聞こえた。たぶん、掠奪を働いている中国兵グループを日本軍衛兵が狙撃しているのだろう】

支那10


[カメラマン佐藤振寿氏が南京占領の2日後の12月15日、南京安全区にて撮影した写真。佐藤氏曰く「中国人は日本人カメラマンが行くと、積極的に子供をかかえて撮影に協力してくれる。日本兵や日本人を恐れていなかった」]

 支那兵が去ったあと、今度は支那の民間人による略奪が多発しました。

 ヴォートリンは、金陵女子文理学院理事会に提出したレポートの中でこう記しています。

【より貧しい人々は寝具や小銭さえも盗まれ、安全区にあってとても安全だった裕福な家の敷物やラジオや家具も盗まれつつある。私達は、12月17日頃から1月17日迄(この日に私は最後の火事を見た)のような大規模な焼却は見ない。
 現在の最も大きな悩み事は、「老百姓」即ち普通の人々による略奪が続いていることである。法も秩序も無いこの市のなかで、貧しい無法者は、どの家に入って欲しい物を持ってきても全く自由だと思っている。旧安全区の外では、多くの家が戸や窓や床までもすべてが盗まれている。
 ここ数日間、私は良質の戸と窓が売られているのを見たが、それは破壊が進んでいることを意味している。当然、私の中国人の友人はこの件に心を痛めているが、どうすることも出来ない】

 (ちなみにヴォートリンが教鞭を執っていた金陵女子文理学院に関しては、12月17日に日本兵が侵入して避難していた難民女性を多数強姦したと支那側が 主張しており、南京事件の映画では必ずこの描写を盛り込みますが、それが事実ではないことはヴォートリンのレポートの別の箇所に示されています)

 南京で放火、破壊、略奪、強姦を繰り広げたのは、はたして支那人か?日本人か?
 ヴォートリンの記録をご覧になった皆さんはどうお考えでしょうか。

支那11



 国民党軍による破壊行為は単に民家や建物の放火に留らず、農・工業生産施設、水運・海運、鉄道網などにも及びました。

 具体的内容が、1940年3月に南京特別市行政院宣伝局が発行した『中華民國維新政府概史』に掲載されています。
 
 それによると、蒋介石軍が南京陥落までに焦土作戦を強行した場所がわかり、主なものだけで、8つの郷村(鎮や県)が被害に遭っています。

 これにヴォートリンが述べた南京とその周辺を含めると、被害地域は上海から南京までおよそ300キロ、日本で言えば東京から豊橋までぐらいの区間に散在していました。

 日本語の『中華民國維新政府概史』は国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで誰でも見ることができます。

 たとえば、238ページにはこういう記述が見えます(現代語に改めています)。

【殊に蒋介石軍の兵車(へいしゃ)通過地域又はその駐屯地は、放火・掠奪・暴行・破壊と悪虐の限りを極められ、……農家は悉(ことごと)く被害を蒙(こうむ)り、甚だしきものは家屋農具は焼失、家畜・食料・種子は徴発され、農業生産に必要な一切のものを喪失するに至った】

支那12


[画像クリックにより新規画面で拡大されます]


 各地で狼藉を尽くした蒋介石軍が逃げ去ると、住民たちは安堵して隠れ場所から出てきました。
 そして、野蛮な蒋介石軍を退治した日本軍を歓迎したのです。

 それは南京でも同じでした。

 フリーアナウンサーの鈴木史朗さん(1938年2月生まれ)は3~4歳の頃、お父さんに連れられて南京に行った時、南京の人々が好意的に接してくれたという話を紹介しています。
 
 また、昨年、南京事件をめぐる発言で物議を醸した河村たかし名古屋市長も、南京で終戦を迎えたお父さんが南京の人々から温かいもてなしを受け、お礼に桜の木をプレゼントしたと話していました。

 どちらの体験も、「大虐殺」が虚構であり、日本軍の南京占領が住民にとっては解放だったからこそ、あり得た話ではないでしょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

※参考文献
・「WiLL」2012年12月号【誰が「南京大虐殺」を捏造したか 第9回「支那人が支那人を殺す戦争」】古荘光一氏
・日華事変と山西省>蒋介石の"以水代兵"―黄河決壊事件の人的被害
・Wikipedia>黄河決壊事件
・「正論」2012年2月号【虐殺はなかった 南京の平穏を証明するアメリカ人宣教師たちの記録(上)】松村俊夫氏
・「正論」2012年3月号【虐殺はなかった 南京の平穏を証明するアメリカ人宣教師たちの記録(下)】松村俊夫氏

※拙ブログ関連エントリー(支那の民族性)
・09/9/27付:GHQ焚書「敗走千里」より支那軍の実態
 1937年(昭和12年)、支那事変に強制徴用で駆り出された支那人青年の体験記。支那兵が自国人に掠奪や暴行を繰り返したり、便衣兵になって逃亡したりと、とにかく野蛮だったのが分かります。「督戦隊」も登場。
・10/9/27付:9月24日は国恥記念日 船長釈放でますます嵩にかかる中国
 元バレーボール日本代表の川合俊一さん曰く、「昨日まで普通だった中国の選手が、もう上か ら来るわけ。もう嵩(かさ)にかかってくるの。あ、こいつらには絶対負けちゃいけない、負けたらこんな目に遭うんだ。試合でも、えっ?そんなインチキまで 勝ちたいの?っていうぐらいのインチキしたりするんですよ」
・10/11/16付:尖閣問題を考える上での具体例を77年前の本に学ぶ
 ラルフ・タウンゼントの著書「暗黒大陸 中国の真実」より、尖閣問題をはじめとする対中問題を考える上で役立ちそうな箇所を引用しています。
・10/12/7付:支那人の民族性を考える上での具体例を77年前の本に学ぶ
 ラルフ・タウンゼントの著書「暗黒大陸 中国の真実」より、支那人の民族性そのものを理解するために役立ちそうな箇所を引用しています。
・10/12/20付:支那人にまつわる坂東忠信さんのインタビュー「正論」11月号より
 北京語の通訳捜査官として、中国人被疑者の逮捕現場や取り調べに立ち会ってきた坂東さん。 「中国人の供述は嘘が多いので、3回程度の取り調べでは終わりません」「中国人に対するに当たっての日本側の問題点は、日本人の歴史認識の不足です」「彼 らは共存よりも勝ち残ることを優先し、そのためには手段を選ばない」。
・11/2/5付:支那五千年の殺戮の歴史の集大成「三十六計」
 支那では陰謀詭計は日常茶飯事であり、伝統的な闘争文化なのです。
・11/7/25付:中国高速鉄道事故 車両隠蔽に朝日記者も驚愕!?
 中共には常識は通用しない。それを世界中に非常に分かりやすい形で教えてくれました。
・12/2/27付:河村市長頑張れ&支那軍と支那人の特徴及び南京陥落前の大混乱
 「南京大虐殺には動かぬ証拠がある」というのは中共の決まり文句。「動かぬ証拠」があるなら見せて下さいよと思うんですが、見せてくれたためしがありません。
・12/6/11付:旧日本軍軍装品から尖閣地図まで!歴史改竄のため史料を買い漁る支那人
 歴史は日本では「ヒストリー」ですが、支那では「プロパガンダ」。自国発行の古地図や日本の軍装品をなりふり構わず買い漁り、歴史を改竄することとも厭わないのです。
・12/7/23付:旧日本兵らが支那に寄贈した小学校が一般企業に払い下げられていた
 「遺骨詐欺」に遭った旧日本兵たち。「それでも支那の子供たちが喜んでくれるのなら…」。その思いすら裏切るのが支那なのです。
・12/11/5付:長崎事件をご存知ですか?支那を憂う明治天皇と沿岸防備に寄附した国民
 現在、尖閣そして沖縄に侵略の魔の手を伸ばす支那は日本にとって大きな脅威となっていますが、これと似たような状況が明治時代にもありました。
・13/2/9付:沖縄は支那の属国か?いわゆる朝貢体制の本質(付:レーダー照射問題)
 いわゆる朝貢制度とは、自国を世界の中心と仮想する支那人たちの哀れな自己満足のための妄想でしかなかったのです。
・13/3/25付:捕虜も婦女子も皆殺し!支那の非公開アンケート
 「あなたは婦女子や捕虜を射殺できますか?」…戦慄のアンケート結果です。



南京大虐殺  主要な事件   脱 ・ 洗脳史講座より



これで話はお終い。あとは「おまけ」です。
と言うが、非難されたご本人ゆうさんは、粘着質のようで、斯界の南京事件博士と言われるほど、博学であると言うが、
非難したのは y1892aさんである。ゆうさんは、事実派であると言うが、事実派など初めて聞く代物である。


昔の事は、誰かの記事に信頼を寄せるしか、能力を持たない。
ゆうさんの貴重な資料には、何等説明をする気もないし、到底及びもつかない。

>『南京の実相』
あの水間氏なんぞに頼らなければ、もう少しまともな本になったのではないか、という「感想」です。

ブログの整理も兼ねて記事を精査して行くのが、無かった派には、朗報となる。
水間氏の事を、ぞんざいに言う神経には、恐れて近づかないとは、断言できる。
人を呪わば穴二つの箴言もある事である。

戦場のいきさつは、戦時国際法が是認するもので、
南京大虐殺という汚名は習近平の言いがかりである。
習近平の政治的思惑は、日本侵略に口実として設けたもので、実体が無い。

幕府山事件が象徴するように、日本軍は捕虜を半ば公然と
逃走するに任せていた。これが、日本軍の伝統的戦時行為です。

米軍や支那軍のように殺戮をする軍隊ではない。
根絶やしにする事は、外国軍には現地住民を敵に回すだけ、
統治が不可能になる。兵站が十分でない日本軍が採るべき行動ではない。
日本語の一所懸命が示す地域限定は大陸では通用しない。

捕虜の取り扱いと、手当たり次第に殺害するのとは行為が違う。
殺害は明らかなる犯罪です。韓国軍のベトナムにおけるライダイハンは犯罪である。

習近平が言っているのは、死亡者の数であって、戦闘行為に
拠って死亡した人数を計算から除外すべきです。
また、捕虜の扱いも国際法に合致していれば何等言われる筋合いはない。

幕府山事件では、死亡原因も判明している。


上記文章は 当ブログ、大和心の雄々しさが取るスタンスであって、
この意志が無ければ、日本悪玉説に立ち向かえない事になる。


大和心の雄々しさ

”捕虜の処刑”は虐殺か?~「南京事件」肯定派「ゆう」氏を論破してみました
http://radtec.blog.fc2.com/blog-category-33.html



脱 ・ 洗脳史講座
平 成 26年 9月 10日 現在

南 京 虐 殺 各 論 目 次
http://home.att.ne.jp/blue/gendai-shi/nanking/menu8.html

南京大虐殺  主要な事件




http://home.att.ne.jp/blue/gendai-shi/nanking/nanking-jiken-9-1.html
南  京  虐  殺 (9-1)
― 主 要 な 事 件 (1) ―

( ⇒ その2 へ )

 ここで主要な事件をいくつか見ていきます。
 はじめは、ここまでいく度となく顔を出し、最大の殺害数を出したとされる幕府山事件です。57,418人 の殺害現場を目撃したとする「魯 甦証言」 ( ⇒ 4 草鞋峡における大量殺害 )に相当する出来事です。

     1     幕 府 山 事 件
    (1)   山田支隊、幕府山へ
   幕府山は標高200メートルの低い山で、ここに揚子江を航行する船舶をにらむ砲台が設けられていました。この砲台は未完成との話もありますので、揚子江を遡上する日本海軍にとってどの程度脅威であったかはよくわかりません。

     幕 府 山 付 近 図 
nanking-bakuhuzan-map.jpg


 この幕府山砲台を占拠したのは、第13師団・第103旅団 (旅団長・山田 栴二少将 )、略称 「山田支隊 」 で、幕府山事件の当事者となりました。
 山田支隊は上海戦に参戦の後、12月11日、「仙台など足許にも及ばない 」大都会・鎮 江に宿泊。翌12日、鎮江の西3里に移動したところ、「午後1時頃、突然歩兵第65連隊と山砲兵第3大隊、騎兵第17大隊を連れて南京攻撃に参加せよとの 命令 」(山田旅団長日記)を受け、午後5時出発の夜行軍となりました。一方の13師団主力は揚子江の対岸に渡り、北岸添いに南京方面に進みます。
 支隊主力・65連隊(連隊長・両角 業作大佐 )は補充兵中心の急造部隊で、激戦となった上海戦で兵力を半減させ、約1500名(補充があって2200人説も)になっていたといいます。揚子江南岸にそって進む支隊は、それでも13日に烏龍山の砲台を占領、さらに前進します。
 揚子江は下関の下流から分流し、支流の方は草鞋洲(そうあいす=八掛洲)と呼ぶ大きな中洲(なかす)の南側を抜け、また本流に合流します。支隊は支流沿いに進み、幕府山砲台へと向かいました。
 支隊は一戦あるものと覚悟したものの、意外にも抵抗らしい抵抗を受けることなく12月14日、ここを落としました。ところが、そこにおびただしい数の投降兵が白旗を掲げて現れたのです。城内から脱出してきた敵兵でした。

    (2)   万 余 (?) の 投 降 兵
 この間のいきさつは、旅団長・山田 栴二 少将(やまだ・せんじ )の「日記」(『南京戦史資料集 Ⅱ 』、偕行社、1993 )がよく表しています。
〈 12月14日 他師団に砲台をとらるるを恐れ、午前4時半出発、幕府山砲台に向う、
明けて砲台の付近に到れば投降兵莫大にして始末に困る。
捕虜の始末に困り、あたかも発見せし上元門外の学校 に収容せし所、
14,777名を得たり、かく多くては殺すも生かすも困ったものなり。・・・ 〉
 旅団長に報告(連絡)のあった14、777人 という膨大な数は、数えた結果かもしれませんが、精度については疑問があるところです。ただ万、あるいは万に近い膨大な人数であったことは間違いないよう です。またこの中にどれ位かわかりませんが、女・子供も混じっていたとの話もあります。

    (3)   苦難に直面した日本軍
 この前代未聞の投降兵をめぐって、朝日新聞(1937=昭和12年12月17日付け)は、
 〈 持余す捕虜大漁 22棟鮨詰め 食糧難が苦労の種 〉 の見出しで、日本軍の困惑ぶりを以下のようにつたえています。
〈 両角部隊のため、烏龍山、幕府山砲台の山地で捕虜にされた14,777人の南京潰走敵兵 は、
何しろ前代未聞の大捕虜軍とて捕らえた部隊の方が聊(いささ)か呆れ気味で、
こちらは比較になるぬ程の少数のため手が回りきれぬ始末、
先ず銃剣を棄てさせ付近の兵営に押し込んだ。・・・
一番弱ったのは食事で、部隊でさえ現地で求めているところへ、これだけの人間に食わせるだけでも大変だ。
第一、茶碗を1万5千を集めることは到底不可能なので第一夜だけは到頭食わせることが出来なかった。・・・ 〉

 両角(もろずみ)部隊とあるのは、第65連隊(会津若松 )を指し、連隊長・両角 業作大佐 の名を冠したものです。この光景は投降兵を収容した12月14日のものでしょう。銃剣を捨てさせたとはいえ、日本兵の数倍という捕虜を前に、当惑する両角部隊がこの朝日報道からもわかります。

14777-1.jpg


 左写真は『アサヒグラフ 支那戦線写真 』 に掲載されたもので、
「 両角部隊によって南京城外部落 に収容された
捕虜の一部(12月16日上野特派員撮影) 」
 と説明がついています。
 大変な数の投降兵のわりに日本兵の少なさが目につきます。また、投降兵の後ろの建物は、窓が一定の間隔でついているように見えますので、部落というより兵舎か学校のように見えます。
 問題となるのは、この投降兵はどうなったのか。また、14、777人という、一見もっともらしい人数は、正確といえるのかという点でしょう。
 洞 富雄はこの数を信頼できると判断、「約1万5千人全員虐殺 」 したとし、笠原 十九司は従軍した兵士の「陣中日記」 などから、「2万1千人以上虐殺 」 を主張します。「陣中日記」等については、後述します。

    (4)   事 件 解 明 へ 向 け て ・・・ 山田旅団長の日記
 この事件に踏み込んだ先駆者の一人が鈴木 明でした。その著作『「南京大虐殺」のまおぼし』(文藝春秋、1972)で、山田旅団長、また65連隊と終始、行動を共にした平林 貞治少尉( 後出。終戦時少佐) らに会い、話を聞き取っています(このとき、両角連隊長は故人)。
 「それは、あまり、しゃべりたくないな 」という山田旅団長に子息(河北日報の論説委員長 )の説得もあって、重い口を開きました。そして、「日 記」 に基づいて要点を記したのでしょう、「メモ」が示され、このメモは「山 田 メ モ 」 として同書に記されています。「日記」は後に公表されました。
 山田旅団長の話の要点は以下の通りです。
・  捕虜の数について両角部隊長は8千人位 といっていた。
・  無抵抗のまま捕らえられた捕虜に、「抵抗しないものは保護する」と(自分は)言った。
道端に投げられた鉄砲だけで5千挺。
・  捕虜を「正規の手続きをへて保護したい」という旅団方針に対して、そのような余裕はない、
山田旅団長の手で「始末せよ」 との命令であった。
(命令者について少将は沈黙し語らなかったが、話の順序から長 勇(ちょう・いさむ )参謀に間違いないと鈴木明は記しています。
なお、長 中佐は上海派遣軍司令部参謀でした。)
・  船を徴発し、捕虜を揚子江を渡して北の方に逃がそうと、
「数千人の捕虜を連れて数百人の日本軍 」が江岸に向かう。
江岸につくまで、かなりの時間を要し、たどりついた時は、陽はとっぷりとくれていた。
・  突如、捕虜の暴動が起こり、深夜の暗黒のなかを一斉に逃げ出した。
その中に小銃と機関銃が撃ち込まれた。日本側も不意をつかれたため、何がどうなったかわからなかった。
・  朝、千あまり(数千ともいう)の捕虜の死体に交じって、日本軍将校1名、兵8名 の死体があった。
 以上ですが、鈴木は〈 この事件が、単に「捕虜への一方的虐殺」ではなかったことを、この一人の将校の戦死の記録が、充分に物語っている。 〉と記しています。
 なお、山田日記は上述の『南京戦史資料集 Ⅱ』に収められています。事件の背景を知るためにも参考になりますので、すでに紹介した12月14日につづく12月15日以降を引用します。

    ・   山 田 旅 団 長「日 記」
 12月15日  捕虜の仕末其他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す。皆殺せとのことなり 。各隊食糧なく困却す
  〃 16日  相田中佐を軍に派遣し、捕虜の仕末其他にて打合わせをなさしむ、捕虜の監視、誠に田山大隊(注、第1大隊 ) 大役なり、砲台の兵器は別とし小銃5千、重機軽機其他多数を得たり
  〃 17日  晴の入場式なり
 車にて南京市街、中山陵等を見物、軍官学校は日本の陸士より堂々たり、午後1・30より入城式祝賀会、3・00過ぎ帰る、仙台教導学校の渡辺少佐師団副官となり着任の途旅団に来る
  〃 18日  捕虜の仕末にて隊は精一杯なり、江岸に之を視察す
  〃 19日  捕虜仕末の為出発延期、午前総出にて努力せしむ

    (5)   両角連隊長の手記
 捕虜の処置について、議論がさかんに行われています。全員虐殺とする側、人数はもっと少なくやむを得ない処置とする側、ともに見解を著作にするなどしています。
 両者はどう違うのか、また違いはどこからくるのか、まず両角連隊長の「手記」(『南京戦史 資料集Ⅱ 』)の要点を原文を生かしながら紹介します。「手記」といっても、ごく短いものですが。

 ・  新聞は2万とか書いたが、実際は1万5千300余人 で、婦女子、老人、非戦闘員(南京から落ちのびた市民多数 )がいたため、これをより分けて解放。残りは8千人程度であった。
 ・  炊事が始まり、某棟が火事になった。火は延焼し、その混雑はひとかたならず、連隊から1中隊を派遣、沈静にあたらせた。出火は計画的なもので、混乱を利用して約半数が逃亡した。射撃して極力逃亡を防いだが、暗に鉄砲 、ちょっと火事場から離れると見えないため、少なくも4千人ぐらい は逃げ去ったと思われる。
 ・  私は部隊の責任にもなるし、その他のことを考えると、少なくなったことを幸いぐらいに思って上司(山田支隊長)に報告しなかった。
 ・  12月17日は南京入場式で、万一の失態があってはいけないとういうわけで、軍からは「俘虜のものどもを”処 置 ”するよう」 にと山田少将に頻繁に督促がある。山田少将は頑としてハネつけ、軍に収容するように逆襲していた。私も丸腰のものを何もそれほどまでにしなくともよいと、 大いに山田少将を力づける。処置などまっぴらご免である。だが、軍は強引にも実施をせまったのである。ここにおいて山田少将、涙を飲んで私の隊に因果を含 めたのである。
 ・  しかし私にはどうしてもできない。考えたあげくに、「こんなことは実行部隊のやり方ひとつ 」、私の胸三寸で決まることだとし、田山(芳雄)第1大隊長を招き、ひそかに次の指示を与えた。
 「17日に逃げ残りの捕虜全員を幕府山北側の揚子江南岸に集合せしめ、夜陰に乗じて舟にて北岸に送り、解放せよ 。これがため付近の村落にて舟を集め、また支那人の漕ぎ手を準備せよ 」 と。
   ・  17日、山田少将とともに入城式に参列。もどると田山大隊長より「何らの混乱もなく予定の如く俘虜の集結を終わった 」の報告を受ける。火事で半数以上が減っていたので大助かり。
 ・  12時ごろ になって、にわかに同方面に銃声が起こった。さては・・・と思った。銃声はなかなか鳴りやまなかった。いきさつは次の通り。
 軽舟艇に2、3百人の俘虜を乗せ長江の中流まで行ったところ、前岸に警備していた支那兵が、日本軍の攻撃とばかりに発砲。舟の舵をあづかる支那の土民はキモをつぶして江上を右往左往、しだいに押し流されるという状況。
 ところが、北岸(注、南岸の間違い)に集結していた俘虜は、銃声を日本軍が自分たちを江上に引き出して銃殺する銃声であると即断、たちまち混乱となっ た。2千人ほどが一時に猛り立ち、死にもの狂いで逃げまどうので、いかんともしがたく、我が軍もやむなく銃火をもって制止につとめたものの暗夜のため、大 部分は陸地方面に逃亡、一部は揚子江に飛び込み、銃火により倒れた者は、翌朝私も見たのだが、「僅少の数に止まっていた 。すべて、これで終わりである。あっけないといえばあっけないが、これが真実である。」
 表面に出たことは宣伝、誇張が多過ぎる。処置後、ありのままを山田少将に報告をしたところ、少将も安堵の胸をなでおろされ、「我が意を得たり」の顔をしていた。
 「自分の本心は、如何ようにあったにせよ、俘虜としてその人の自由を奪い、少数といえども射殺したことは〈 逃亡する者は射殺してもいいとは国際法で認めてあるが 〉・・・なんといっても後味の悪いことで、南京虐殺事件と聞くだけで身の毛もよだつ気がする。 」

 以上が手記の概要です。お読みになって気づかれたと思いますが、この手記は終戦後しばらくして書かれたものです。
 1962(昭和37)年1月、事件の研究者でもある阿部 輝朗 が両角連隊長から「手記」を借り、これを筆写・保存しておいたもので、手記原文はノートに書かれ、当時の「日記」( 後出)をもとに書いたとのことです(『南京戦史 資料集Ⅱ 』)。
 それから約25年後の1988年、「南京戦史」の刊行1年前ですが、阿部は戦史編集委員会に協力を申し出、新資料が公になったという次第です。阿部は鈴木明の調査に先立つ10年近くも前から、こつこつと関係者の「証 言」等を集めていたようです。そして阿部自身も『南京の氷雨』 (教育書籍、1989 )を著し、入手した資料、証言等を公表しました。

    (6)   「手記」への疑問
   「両角手記」の信頼性にとくに問題がなければ、話の大筋はこれで決着となるでしょう。ですが、手記には無視できない矛盾があり、鵜呑みにできないのです。このため、手記は連隊長の弁明あるいは虚偽ではないかとの疑問、反論が出てきます。

      ・   殺害事件は2夜連続
 事件自体を否定する声は出ませんでしたが、いつ、どこで、なぜ、どのくらいの人数だったのかなど、確かな資料・証言に欠け、手探りの状況でした。そのなかで、殺害事件は1夜だけでなく、2夜にわたった のではという疑いが、一部研究者の間で言われていました。
 ところが、山田日記、両角日記に2夜と書いてありませんし、鈴木明の山田旅団長のインタビューでもふれられておりません。鈴木自身が2夜とは考えなかったために、聞き損じたのかもしれませんが。
 2夜連続とする説を出したのは上記の阿部 輝朗が最初(?)と思います。阿部の研究によれば12月16日夜、草鞋峡の海軍倉庫付近で捕虜の一部を殺害、翌17日夜、残りの大部分を幕府山の北、揚子 江が分流するあたりで殺害したとします。人数についてはっきりと言及されていません。
 現在は研究も進み、2夜連続は否定できない事実 と考えられています。となりますと、旅団長の話、連隊長の手記は1夜だけしか言及しておりませんので、この点だけでも信頼性が揺らいできます。
 さらに、肝心の人数について「我が銃火により倒れたる者は、翌朝私も見たのだが、僅少の数に止まっていた 」としていますが、これは後述の証言、資料により、「僅少の数 」などというレベルの話ではないことがわかります。

     ・   火災と逃亡者
   両角 業作連隊長の手記は、
〈 捕虜総数15,300人、婦女、子供など非戦闘員を解放して残るは8,000人。
ところが捕虜が計画的に火災を発生させ、少なくとも4,000人が逃亡 〉
 したとしています。その火災は「暗に鉄砲」と書いてあるところから、夜間の火災であったと読み取れます。夜間の火災であれば、さもありなんと考えられそ うです。ですが、火災は昼間、それも正午ごろであったと複数の「陣中日記」にあり、夜間火災に疑いがでてきました。もっとも、「夕方」(「陣中日記」)と したもの、「夜の炊事どき」とした「証言」もあるのですが。こうしたことのため、火災は1件ではなく複数件という見方もでてきます。
 昼間火災となれば、果たして4000人も逃げたのか、計画的な放火であったのかなど手記にきしみがでてきます。逃亡目的の計画的放火であれば、なぜ夜を 選ばず、真昼間に放火したのか。さらには、15000余人の捕虜のうち女・子供など非戦闘員を釈放した結果、8000人になったというのは本当なのかと いった具合に、疑問が増幅されてきます。

    (7)   あらたな証言と資料

  〈 そ の 1 〉  栗 原 伍 長 証 言 ・・・ 毎日新聞
1984(昭和59)年8月7日付け毎日新聞は、「南京捕虜1万余人虐殺」などの見出しを立てて、
〈 当時のスケッチ、メモ類をもと中国兵捕虜1万余人の殺害を詳細に証言した。
問題の捕虜大量射殺事件はこれまで上級将校の証言などから
「釈放途中に起きた捕虜の暴動に対する自衛措置」とされてきた。今回の証言はこれを覆すものだ。 〉
 とリードに記し、田山大隊(第1大隊)の栗原 利一伍長 の証言を報じました。証言によれば、
〈 捕虜殺害は12月17日か18日夜で、昼過ぎから捕虜を後ろ手に縛って、
ジュズつなぎにし、収容所から約4キロ離れた揚子江に連行した。
1万人を超える人数 のため全員がそろったときは日が暮れかかっていた。
沖合いに中洲があり「あの島に捕虜を収容する」と上官から聞いていたが、
突然「撃て」の命令が下った。約1時間一斉射撃が続いた。捕虜は必死に逃げまどい、
水平撃ちの弾を避けようと死体の上にはいあがり、高さ3~4メートルの人柱ができた。 〉(要 旨)
 鈴木明、戦史叢書などがとる山田旅団長ら上級将校の証言に基づく「自衛発砲説」に対しては、
〈 後ろ手に縛られ、身動きもままならなかった捕虜が集団で暴動を起こすわけない。
虐殺は事実。はっきりさせた方がよい。 〉
 として、明確に否定しています。
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 この報道を読んだ限りでは、沖合いにある中洲といいますから、草鞋洲を指すのでしょう、「あの島に捕虜を収容する」と上官から聞いていたというのですから、「釈放計画があった」 と受け取れます。ところがどうしたわけか、突然「撃て」 の命令が出たというのですから、話がわかりにくくなってきます。
 となりますと、射手への命令は両角連隊長から釈放の指示を受けた田山芳雄・第1大隊長の独断でしょうか。まさかそれはないでしょう。それとも釈放は偽装で殺害が目的だった? 。 さて、これはどうでしょうか。
 この報道、必ずしも証言を正確につたえていない節があります。これはよくあることで、珍しいことではありません。証言者が記事内容を事前に見る機会はな いのが普通ですので、掲載紙を見てはじめて全容を知ることになります。そこで、「真意が伝わっていない」との不満を、話し手が持つことにつながってきま す。
 
     ・   板倉 由明の要約
 この報道の後、栗原元伍長に「南京戦史」編集委員であった板倉 由明(本多 勝一も)が話を聞きとっています。その結果は『南京戦史 』に掲載されていますが、ここでは板倉が記した「要 約」 を『 間違いだらけの新聞報道』 ( 閣文社、1992)から抜粋します。
〈 ・・・14日朝、幕府山付近で莫大な投降兵があり、ことごとく武装解除して連行した。
捕虜は4列縦隊で延々長蛇の列となった。武器の山は私たちが燃やした。
 15日と16日、第1大隊135名 はこの13,500人と公称された捕虜の大群を
幕府山南麓の学校か兵舎のようなワラ葺きの10数棟の建物に収容し、3日間管理した。しかし、
自分たちの食糧にもこと欠く有様で、捕虜に与える食糧もなく、・・・粥(かゆ)を1日1回与えるだけが精一杯であった。
多分17日と思うが、捕虜を船で揚子江対岸に渡す ということで、午前中かかって形だけだが手を縛り 、午後大隊全員で護送した。
4列縦隊で出発したが、丘陵を揚子江側に回りこんでからは道も狭く、4列では歩けなかった。列の両側に50米くらいの間隔で兵が付いた。・・・
2時間くらいかかり、数キロ歩いた辺りで・・・やや低い平地があり、捕虜がすでに集められていた。
周囲には警戒の機関銃が据えられてあり、川には船も2、3隻見えた。
 うす暗く なった頃、突然集団の一角で「 ××少尉がやられた! 」 という声があがり、すぐ機関銃の射撃が始まった 。
銃弾から逃れようとする捕虜たちは中央に人柱となっては崩れ、なっては崩れ落ちた。・・・
死体は翌日他の隊の兵も加わり、楊柳の枝で引きずって全部川に流した。
これは「戦闘」として行ったもので、その時は「戦友の仇討ち」という気持ちであり、
我が方も9名(正しくは7名)が戦死した。殺したなかに一般人は一人もいない 。
当時日本軍の戦果は私たちの1万3500を含め7万といわれていたが、
現在中国で言うような30万、40万という大虐殺などとても考えられない。
私達も真実を言うから、真の日中友好のために、中国も誇大な非難はやめてもらいたい。 〉
 毎日の記事と、板倉「要約」とは、ご覧になったように、重要な点で違いを見せています。前者を読めば、〈 突然「撃て」の命令が下った 〉としていますので、意図した殺害(虐殺)と受け取れますが、後者では 〈 突然集団の一角で「××少尉がやられた!」 という声があがり 〉 、その後に射撃が始まったというのですから、予期しないことが発生したため、射撃を誘発したと受け取れます。
 また、前者は「後ろ手に縛られ、身動きもままならなかった捕虜が集団で暴動を起こすわけない」とし、暴動に基づく自衛発砲説を否定していますが、後者は「形だけだが手を縛り」となっていますので、「暴動を起こすわけない」 との理由にはならないでしょう。
 また、後者によれば、13500人は「公称」であり、捕虜を捕らえた時点の人数を指していることは明らかです。となりますと、火災について何も触れてい ないこと、また16日の殺害について触れていないのも、分かりにくい点でしょう。ただ、16日について、栗原伍長は知らなかったのかも知れません。隣の中 隊の動きを一般兵士は分からないのが普通ですから、十分考えられることなのです。
 このように差のあること、原因はいろいろ忖度できますが、ありがちなことと思います。ですから、他の証言等との突き合わせが欠かせないことを、この例も教えてくれています。
 なお、出所を知らないのですが、秦 郁彦の『南京事件』(147ページ)に、「 日本側関係者の間では、捕虜のほぼ全員という点では一致するが、江岸への連行=殺害数は5千~6千(栗原)、・・・ 」とあり、この記述に間違いがなければ、江岸へ連行した1万3500人のうち半数以上が難を逃れたと栗原が認識していたことになるでしょう。毎日新聞の見出し「1万余人虐殺」とは大変な違いです。
 なお、栗原伍長が証言に踏み切ったキッカケは、栗原証言が掲載された半月前、同じ7月22日付けの毎日新聞が、〈 南京大虐殺、中国側が“立証” 〉とし、中国側公式記録として『証言 南京大虐殺』(既述。左写真 )を大きく紹介、「犠牲者30余万人」とした報道への反発だったとのこと。そこで、毎日記者に当時のスケッチを示して実情を説明したところ、記事は「30 万大虐殺の証明」に使われ、意図とは異なっていたと、板倉は記しています。
 
  〈 そ の 2 〉  資 料 発 掘
 次は従軍した両角部隊の兵士の「陣中日誌」「証言」など、まとまった数の資料の発掘です。発掘者は小野 賢二 で、この事件の調査に4年がかりであったといいます。
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 この調査の成果を報じたのは朝日新聞(1990年9月19日付け、左写真 )で、〈 死者数は「14,777人 」か 〉 の大見出しのもと、「130証言掘り起こし」「岸に数十メートルの死体の半島」などと小見出しをとり、ほぼ1ページを費やす大報道となりました。本多 勝一記者の署名記事です。
 〈 両角部隊の中で小野氏が生存を確認2百数十のうち、直接会って証言を求めたり日記を見せてもらった例が約120人、電話による取材が約10人。〉
 捕虜殺害は12月16、17日の2回。16日は中国軍関係設備の魚雷営 、17日は同じ魚雷営のほか、その2,3キロ下流の大湾子付近で、17日の方が大量だったなどと調査の要約を記しています。
 そして、調査の「一応の結論」は、「虐殺された捕虜の数は14,777人に限りなく近い」 というものでした。
〈 『南京戦史 』が虐殺数を千人ほど としている理由は、
捕虜の多くが釈放されたり逃亡したりの結果だが、
小野氏の取材した中には、捕虜を一部といえど釈放したとする証言や日記は1例もない。
また釈放を目的として連行したという例も絶無( 注2) 。逃亡は、虐殺時に仮にあったとしても
数十人から多くても数百人まで。何千人も逃亡したとは考えられないという。 〉
 文中の( 注2)は、〈 捕虜に対する口実として「釈放」とだました可能性はありうる。 〉 と欄外に記してあります。
 そして、虐殺数について、「約2万千人」「2万人」・・「3、4千人」「約 千人」などあるが、『南京戦史』( 偕行社)は「約千人 」を採用し、南京事件調査研究会が『南京戦史』を検討した結果、〈 「各現場の資料によって虐殺数が違う場合は、たいてい少ない方を採用している 」 などの批判が続出し・・・ 〉と、『南京戦史』 批判を強く打ち出しています。
 「南京事件調査研究会」 は、本多記者も会員の一人で、朝日新聞が事実上、後押しする「大虐殺派」が集う研究会です( ⇒ 8-1 ) 。
 『南京戦史』が「約千人」を採用したというのは「約3千人」採用の誤りで、戦史編集員会の抗議の結果、後日、「訂正」を出しています。
 そして、「釈放とか逃亡が何千人という説は部隊の主な幹部が戦後に口裏をあわせて発表した可能性もなしとしない」 という、例の言い回しの洞 富雄談などで記事をしめくくっています。
 なお、小野が発掘した「陣中日記」などから19点を選択、『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち 』( 小野 賢二、本多勝一ほか。大月書店、1996年 )として出版されています。

      (8)   17日事件は釈放目的
 こうなりますと、殺害は16日、17日の両日に起こったことに関しては、とくに異論はないとして、計画的殺害か、釈放途中に発生した事故が発端なのか、また殺害人数はとなると、少々、水かけ論の様相を帯びてきます、
 ただ17日夜事件は、釈放目的で江岸に捕虜を連行、ここで突発的に混乱が起こったための出来事であったのは、まず間違いないと私は判断しています。
 まず、両角連隊長の「日記」と山田旅団長の「日記」をご覧ください。

     ・   「両 角 日 記」
 12月15日 俘虜整理および付近掃蕩
  〃 16日 同上。南京入場準備
  〃 17日 南京入場参加。Ⅰは俘虜の開放準備、同夜開放
  〃 18日 俘虜脱逸 の現場視察、ならびに遺体埋葬
  〃 19日 次期宿営地へ出発準備

 上記のとおり、両角日記(12月17日)に「 I は俘虜の開放準備、同夜開放」 とあり、「Ⅰ」 は第1大隊を表し、「開放」は「解放」の書き違いとしか考えられませんから、少なくとも釈放計画があったらしいことはわかります。

     ・   田山 芳雄 第1大隊長の証言
 まず、釈放を指示されたという田山第1大隊長の「証言」を見てみましょう。
 「 第1大隊長の田山芳雄少佐は、四国の丸亀市出身の人。直接会って取材したときの私のメモには次のようにある」 とし、以下の証言を阿部 輝朗は著作『南京の氷雨』 に記しました。
 〈 「 解放が目的でした。だが、私は万一の騒動発生を考え、機関銃8挺を準備させました。
舟は4隻―いや7隻か8隻は集めましたが、とても足りる数ではないと、私は気分が重かった。
でも、なんとか対岸の中洲に逃がしてやろうと思いました。この当時、
揚子江の対岸には友軍が進出していましたが、広大な中洲には友軍は進出していません。
あの当時、南京付近で友軍が存在していないのは、八卦洲と呼ばれる中洲一帯だけでした。
解放するにはもってこいの場所であり、彼らはあとでなんらかの方法で中洲を出ればいいのですから・・・ 」
南京虐殺を研究している人の中には「 対岸には日本軍が進出しており、
その方面に解放するというのはおかしい」とする説もある。しかし実情は以上の通りだった。
「 銃声は最初の舟が出た途端に起こったんですよ。たちまち捕虜の集団が騒然となり、手がつけられなくなった。
味方が何人か殺され、ついに発砲が始ってしまったんですね。
なんとか制止しようと、発砲の中止を叫んだんですが、残念ながら私の声は届かなかったんです 」 〉
 田山証言は具体的で、これといった両角手記との矛盾は見られません。連隊長、第1大隊長の2人が口裏あわせをしたと疑っている洞 富雄、本多 勝一らの見方は次の「証言」で打ち消されているはずです。

     ・   箭内 亨三郎准尉の証言
 捕虜の集合場所をあらかじめ河原で設定したという箭内 亨三郎准尉 ( 機関銃中隊)の「証言」があります。
 「 私とは懇意にしており、生前その状況について詳細に語ってくれている。私は回想談を速記メモしていたが、それを紹介しよう 」 と阿部 輝朗は箭内証言をこう記します。証言のうち重要と思われる部分を以下、引用します。
〈 「 目の前は揚子江の分流(爽江)が流れており、背景は幕府山に続く連山でした。
河川敷はかなり広くてね、柳やらススキやらが生えていて、かなり荒れたところでしたよ。
確か南京入城式のあった日でしたが、入城式に参加したのは連隊の一部の人たちが集成1個中隊をつくって出かけたはずです。
私は入城式には参加しませんでしたが、機関銃中隊の残余メンバーで特別な仕事を与えられ、
ノコギリやナタを持って、4キロか5キロほど歩いて河川敷に出かけたのです 」(略)
「 実は捕虜を今夜解放するから、河川敷を整備しておくように、
それに舟も捜しておくようにと、そんな命令を受けていたんですよ。解放の件は秘密だといわれていましたがね。
ノコギリやカマは、河川敷の木や枯れたススキを切り払っておくためだったんです 」
「 実は逃がすための場所設定と考えていたので、かなり広い部分を刈り払ったのです。刈り払い、切り払いしたのですが、
切り倒した柳の木や、雑木のさまざまを倒したまま放ったらかしにして置いたんです。
河川敷ですから、切り倒したといっても、それほど大きなものはありませんでしたがね。
ところが、後でこれが大変なことになるのです 」( 略 )
「 集結を終え、最初の捕虜たちから縛を解き始めました。その途端、どうしたのか銃声が・・・。
突然の暴走というか、暴動は、この銃声をきっかけに始ったのです。彼ら捕虜たちは次々に縛を脱し、
巻脚絆(まききゃはん)などで軽くしばっていただけですから、その気になれば縛を脱することは簡単だったのです 」 〉(略)
縛を脱した捕虜たちは、ここで一瞬にして恐ろしい集団に変身したという。
昼のうちに切り倒し、ただ散乱させたままにしておいた木や枝が、彼らの手に握られたからだ。
近くにいた兵士たちの何人かは殴り倒され、たたき殺された。
持っていた銃は捕虜たちの手に渡って銃口がこちらに向けられた。
「たまりかねて一斉射撃を開始し、鎮圧に乗り出したのです。私の近くにいた第1大隊長の田山少佐が
『撃ち方やめ!』を叫びましたが、射撃はやまない。気違いのようになって撃ちまくっている。
目の前で戦友が殴り殺されたのですから、もう逆上してしまっていてね・・・。
万一を考え、重機関銃8挺を持って行っていたので、ついには重機関銃まで撃ち出すことになったのです 」 〉
―『 南京の氷雨 』 より ―
 事件に至るまでの経過、現場の様子がこれでかなりハッキリしたと思います。同時に朝日報道がある期待をこめた予断に彩られた報道であったかが分かります。

    ・   平 林 貞 治 少 尉 の「証 言」
 また、終始、65連隊と行動を共にし、福島で電気工事会社の専務をしている「65連隊の生き字引」という平林貞治少尉(前出)も、次のように鈴木明に語っています。
 〈 たしか2日目に火事がありました。そのとき、捕虜が逃げたかどうかは憶えていません。もっとも逃げようと思えば簡単に逃げられそうな竹がこいでした から。それより、問題は給食でした。われわれが食べるだけで精一杯なのに、1万人ものメシなんか、充分に作れるはずがありません。・・・ 〉
 と言い、だから、「捕虜を江岸まで護送せよ」 という命令が来たときはむしろホッとしたとし、「捕虜は揚子江を船で鎮江の師団に送り返す」 と聞いていたとしています。
 そして、
〈 江岸に集結したのは夜でした。その時、私はふと怖ろしくなってきたのを今でも憶えています。
向こうは素手でも10倍以上の人数です。そのまま向かって来られたら、こちらが全滅です。
とにかく、舟がなかなか来ない。考えてみれば、わずかな舟でこれだけの人数を運ぶというのは、
はじめから不可能だったかもしれません。捕虜の方でも不安な感じがしたのでしょう。
突然、どこからか、ワッとトキの声が上った。日本軍の方から、威嚇射撃をした者がいる。
それを合図のようにして、あとは大混乱でした。・・・・向こうの死体の数ですか?
さあ・・・千なんてものじゃなかったでしょうね。3千ぐらい あったんじゃないでしょうか・・・  〉
 と平林少尉は証言しています。また、
 「 あれは偶発であり、最初から計画的に皆殺しにする気なら、銃座をつくっておき、兵も小銃をかまえて配置し、あのように仲間が死ぬヘマはしません」と阿部 輝郎に語っています。

 以上のことから、17日事件は釈放計画のもとに行動中、予期しない出来事から銃乱射となって、大量殺害に至ったと断定して間違いないと思います。
 なお、上記の本多勝一記者による朝日報道は、どうしたわけか先行研究である『南京の氷雨』を紹介するでもなく、「証言」等についても、一切触れていませ ん。この疑問についての朝日新聞社の回答は「小野研究と比較して、同書を取り上げる必要はないと判断した」というのですから、呆れ果てます。何も今に始 まったことではありませんが、朝日報道がいかに偏ったものかが改めてわかりますし、公正さなど期待すべくもないでしょう。
 
    (9)   16日事件は?
 一方の16日夜の殺害ですが、17日事件のように明確とはいえず、紛れがあるのです。
 殺害に加わった兵士の日記は7、8例はあるでしょうか、そのなかから2、3見ておきます。

     ・   佐藤 一郎 1等兵
 〈 12月16日  朝7時半、宿舎前整列。中隊全員にて昨日同様に残兵を捕えるため行く事2里半、残兵なく帰る。
昼飯を食し、戦友4人と仲よく故郷を語って想いにふけって居ると、残兵が入って居る兵舎が火事 。
直ちに残兵に備えて監視。あとで第1大隊に警備を渡して宿舎に帰る。それから「カメ」にて風呂を造って入浴する。
あんなに2 万名 も居るので、警備も骨が折れる。警備の番が来るかと心配する。
夕食を食してから寝ようとして居ると、急に整列と言うので、また行軍かと思って居ると残兵の居る兵舎まで行く。
残兵を警戒しつつ揚子江岸、幕府山下にある海軍省前まで行くと、重軽機の乱射となる。
考えて見れば、妻子もあり可哀想でもあるが、苦しめられた敵と思えば、にくくもある。
銃撃してより1人1人を揚子江の中に入れる。あの美しい大江も、真っ赤な血になってものすごい。
これも戦争か。午後11時半、月夜の道を宿舎に帰り、故郷の家族を思いながら、
近頃は手紙も出せずにと思いつつ4人と夢路に入る。( 南京城外北部上元門にて、故郷を思いつつ書く。 ) 〉
― 『南京の氷雨』 ―
 翌12月17日にも、〈 夕食の準備をして居ると、また残兵の連行だと言う。入城式で疲れた足を引きずりながら行く。幕府山下まで行き、昨夜同様の事が起こってしまう。午後12時 に宿舎へ帰る。 〉 とあり、事件が2日連続であったことが分かります。佐藤一郎は仮名ですが、信用できるものと思い、引用しました。

     ・  宮本 省吾 65連隊第4中隊少尉
〈 16日 警戒の厳重は益々加わりそれでも午前10時に第2中隊と衛兵を交代し一安心す、
しかし其れも束の間で午食事中、俄に火災起り非常なる騒ぎとなり3分の1程延焼す、
午后3時大隊は最後の取るべき手段を決し、捕虜兵約 3千 を揚子江岸に引率し之を射殺す。
戦場ならでは出来ず又見れぬ光景である。 〉 ( 『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち 』 より)
 なお、宮本少尉は17日事件にも加わったことを、この「陣中日記」に書いています。

     ・   遠藤 高明 第65連隊第8中隊少尉
〈 12月16日 晴  定刻起床、午前9時30分より1時間砲台見学に赴く、
午後0時30分捕虜収容所火災の為 、出動を命ぜられ同3時帰還す、
同所に於て朝日記者横田氏に遭い一般情勢を聴く、捕虜総数1万7025名 、
夕刻より軍命令により捕虜の3分の1を江岸に引出し、Ⅰにて射殺す。〉(同 上)
 「Ⅰ」は第1大隊の意でしょう。この「陣中日記」から、第2大隊の遠藤少尉が現場に行ったのかどうかがはっきりせず、あるいは伝聞かもしれません( Ⅰ が間違いの可能性があります)。
 殺害事件が起こったのは確かですが、どのような経過だったのか、また目的は何だったのでしょうか。これに答えた唯一(?)の「証言」があります。

     ・   角田 栄一 第5中隊長の「証言」
 角田証言も、阿部輝朗が聞き取ったものです。鈴木明も阿部から紹介をうけ、角田中尉宅に予告なく訪れていますが、酩酊状態で話はよく聞けなかったとしています。以下も『南京の氷雨』からの引用です。
〈 火事があって、かなりの数の捕虜に逃げられた。 だが、このとき両角連隊長のところには「処分命令」がきていた。
しかし両角連隊長はあれこれ考え、一つのアイデアを思いついた。
 「火事で逃げられたといえば、いいわけがつく。だから近くの海軍船着き場から逃がしてはどうか。
私は両角連隊長に呼ばれ、意を含められたんだよ。結局、その夜に七百人ぐらい 連れ出したんだ。
いや、千人 はいたかなあ・・・。あすは南京入城式、早ければ早いほどいい、というので夜になってしまったんだよ。」 (略)
 「昼のうちに堂々と解放したら、せっかくのアイデアも無になるよ。江岸には友軍の目もあるし、殺せという命令を無視し、逆に解放するわけなのだからね」
夜の道をずらりと並べて江岸へと連行していったが、案に相違して捕虜の集団が騒然となってしまった。
万一の場合を考え、2挺の重機関銃を備えており、これを発射して鎮圧する結果となった。
しかし、いったん血が噴出すると、騒ぎは大きくなった。兵たちは捕虜の集団に小銃を乱射し、
血しぶきと叫び声と、そして断末魔のうめき声が江岸に満ちた。修羅場といっていい状況がそこに現出した。(略)
「連行のとき、捕虜の手は後ろに回して縛った。途中でどんなことがあるかわからないというのでね。
で、船着き場で到着順に縛っていたのをほどき始めたところ、いきなり逃げ出したのがいる。
4、5人だったが、これを兵が追いかけ、おどかしのため小銃を発砲したんだよ。
これが不運にも、追いかけていた味方に命中してしまって・・・。これが騒動の発端さ。
あとは猛り立つ捕虜の群れと、重機関銃の乱射と・・・。地獄図絵というしかないね、思い出したくないね。
ああいう場での収拾はひどく難しく、なかなか射撃をとめられるもんじゃない。
まして戦友がその場で死んだとなったら、結局は殺気だってしまってね 」
銃撃時間は「長い時間ではなかった」 と角田中尉はいう。月が出ていて、
江岸の船着き場には無残な死体が散乱する姿を照らし出していた。
5隻ほどの小船が、乗せる主を失って波の中に浮かんでいた。(略)偶発、それが結果として虐殺になった。 〉
 16日の江岸連行がが釈放目的であったとする証言は角田中尉の1例だけで、資料も今のところないと思います。16日事件の大筋は17日事件と酷似しています。そこで、角田証言をどう解釈するかですが、額面どおりに受け取るのは難しいのではないでしょうか。
 というのは、両角連隊長に呼ばれ、意を含められたのが事実なら、なぜ両角連隊長は「手記」「日記」にこのことを書かなかったのでしょう。16日にこの記 述がスッポリ抜け落ちているのは、両角手記の信頼性にとって大きな欠陥でしょうし、故意に書かなかったと取られてもやむをえないところでしょう。山田旅団 長日記、同メモについても同じです。
 また、角田中尉が上官である第2大隊長について、何も語っていないのも気になります。大隊長抜きで中隊長に直接命令がくることはないはずですので。
 私は以下のように考えています。
 もし、江岸連行が釈放目的なら、結果は大失敗だったはずです。ならば、17日の連行は、二の舞をさけるための何らかの方策がこうじられたに違いありません。ですがその様子が感じられないのです。
 やはり16日事件については、上層部からの圧力に抗しきれずに殺害におよんだのだと思います。ですが、残りの捕虜殺害は両角「手記」にもあるように、ど うしても出来なかったのでしょう。そこで、釈放という策をとったのだと思います。ですから、用意不足のため17日は大失態になったのではと思うのですが。
   16日事件は連隊長(それに山田旅団長も)にとっては、触れたくない出来事であり、だから日記に書きたくなかった(書けなかった)のだろうと推定しています。もちろん、新しい証拠でもでれば訂正しますが。

      (10)   「従軍日記」に見る投降兵数、殺害数
 ここで、日本軍将兵が記録した「日記」などから、投降兵の数、殺害数について主なものを拾っておきます。

     ・  投 降 兵 の 数
 既述したように、1万4、777人( 山田旅団長「日記」、朝日報道ほか)、1万5、300人( 両角「手記」)、栗原伍長(証言)の1万3、500人などが出てきました。
 ほかにもあります。飯沼 守少将 ・上海派遣軍参謀長の「日記」は「1万5、6千人」としていますし、中沢 三夫大佐 ・16師団参謀長は「1万3千人」としています。このように、数が定まらないのは、報告(伝達)ルートの問題ではなく、ちゃんと数えた数字がないからでしょう。

     ・  殺 害 数
 一方、小野賢二の発掘した「陣中日記」のなかに、殺害数、投降兵数を記したものがあります。
  ・  前出の宮本 省吾少尉は、16日「約3千射殺」、17日について「夕方、漸く帰り直ちに捕虜兵の処分に加わり出発す、2万以上 の事とて終に大失態に会い、友軍にも多数死傷者を出してしまった」 とありますので、「2万人以上」となり、16日、17日を合計すれば2万3千人以上 を殺害した勘定になります。
 捕虜数より殺害数が多いのはおかしいという点は、大虐殺派は、捕虜は14日の大量投降以降もあって、増え続けたのだとしています。
  ・  また、遠藤 高明少尉(前出)は16日「捕虜の3分の1を射殺」、つづく17日には「捕虜残余1万余処刑の為」とありますので、合わせれば2万人内外 となるでしょう。
  ・  本間 正勝(第9中隊2等兵)は、捕虜数を2万余 とし、16日 「捕虜3千名 揚子江岸にて銃殺す」とあり、17日は「中隊の半数は入場式へ半分は銃殺に行く、今日1万5千名 」とありますから、合わせて1万8千人 となります。
  ・  なかには、高橋 光夫(第11中隊上等兵)のように、18日の「日記」に、「午後には連隊の捕虜2万5千近くの殺したものをかたつけた」とあり、額面通りに受け取れば、「2万5千名近く」の死体を目撃したことになります。

 以上の数字をご覧になって、この「従軍日記」にどの程度の信頼性があるとお考えでしょうか。

    (11)   闊歩する誇大数字
 当時の「陣中日記」に書かれたこれらの数字がどの程度信頼できるのか。これを計るために、「兵力数の上限」との対比が一つの判断基準になると思います。ここでは、「南京守備兵力」が該当するでしょう。
 中国軍は12日夕には総崩れとなり、一部は退却をはじめますが、唐 生智司令部の退却命令(12日夜)とともに、退却は本格化します。中国軍のうち、一部は安全区へ逃げ込みましたが、城外にいた中国軍はそのまま、あるいは 城内を経由し、ごく大雑把にいって4方向に逃れました。
 その1つが、ゆう江門から下関に出て、ここ北方の幕府山付近、もう1つが逆に西南方の上河鎮、新河鎮方面、3つ目が太平門を出て東方約10キロ離れた尭化門、仙鶴門鎮方面 へ、4つ目は下関から舟で対 岸 に渡った一団および舟がないため渡れずに下関一帯で日本軍と遭遇した一団でした。

     ・  中国軍兵力を「日記」類から足し合わせると
 便宜上、12月15日を念頭において(理由は後述)、日本軍側の「日記」類から、中国軍の兵力がどのくらいの数になるかを見てみましょう。
 ・  まず、上河鎮、新河鎮方面に逃げた中国軍ですが、退路を遮断するために進軍した日本軍(第6師団45連隊第3大隊)と12月13日朝にぶつかり、白兵戦を含む激しい戦闘になったことはすでに記しました( ⇒ 7ー3 )。
 中国軍の兵力をどのくらいと書かれていたのでしょう。
 「 4万程の敵に包囲された」 と、第11中隊・福元 続上等兵の「陣中日記」にあり、敵の死者は、「 6,000人余は有り との事だったから、足の踏み場もなかった」と記しています。この光景を見た高橋 義彦中尉(独立山砲2連隊)は、「死体は枕木を敷きつめたように泥濘地帯を埋め」(証言) と表現し、谷 寿夫師団長は「河岸一面死体を以て覆われたる状況」と「日記」に記しています。
 報告を受けた遺棄死体数(6000人余り?)が過小と判断したのか、遺棄死体数の調査を命じます。そこで、1個小隊が現場に行って数えたところ、2,377人 (福元日記ほか)だったというのでした。
 「4万程の敵」のほかに「数万の敵軍 」(第3大隊MG、軍曹)としたもの、また「2万」としたものもあるとのことです。

 ・  次に東方に逃げた兵に関連し、次の記述があります。
〈 後に到りて知る処に依りて、佐々木部隊丈(だけ)にて処理せしもの約1万5千(次項に記述)、
太平門に於ける守備の一中隊長が処理せしもの約1300 、
仙鶴門鎮附近に集結したるもの約7、8千あり。尚続々投降し来る 〉
 と中島 今朝吾 ・第16師団長は13日の「日記」に書いています。このなかで、太平門の1300、仙鶴門鎮の7~8000人は東方に逃げた中国軍です。

 ・  次は下関一帯の中国軍です。
 京都第16師団の隷下で、33連隊、38連隊を率いる第30旅団(佐々木 到一少将)は、中島師団長の命により38連隊と33連隊の一部(第1大隊)をもって佐々木支隊を編成、紫金山の北を迂回し下関へ急行、13日に下関に達しました。
 また、紫金山に向かった33連隊主力は激戦を経て、支隊よりやや遅れたものの13日に下関に達しました。ここで対岸に逃れる渡江中の敵に遭遇、銃砲撃によって大損害を与え、また、江岸に残った中国兵とも戦闘になりました。
 佐々木回想記は、
 〈 此の日(注、13日)、我支隊の作戦地域内に遺棄された敵屍は1万数千 にのぼり、
その外、装甲車が江上に撃滅したもの並各部隊の俘虜を合算すれば我支隊のみにて
2万以上 の敵は解決されているはずである。 〉
 としています。
    以上を整理しますと、中国軍兵力は、
  ①  幕府山方面  1.5万人~2万人程度
  ②  上河鎮、新河鎮方面  2万~4万
  ③  太平門、仙鶴門鎮方面  8~9千人
  ④  下関方面   2万人以上
 となり、合計すると、なんと6.3万~8.9万人 という数になります。この数にダブリはないはずで、日付を追えばわかることと思います。

 ここでもうひとつ、NYタイムズのダーディン記者を想起してください( ⇒ 5-1 ) 。
 南京守備兵力を5万人 と見積るダーディン記者は、12月15日までに、日本軍が処刑した将兵は2万人と報じたことです。ダーディン記者はこの2万人をゆう江門の同士討ち遺体、 安全区を含む城内掃討による兵士処刑をもとに考えていたと思いますので、上記の兵力とはまた別で、佐々木支隊とのダブリがあったとしても、そう多くないはずです、
   となりますと、12月15日時点(幕府山の殺害発生前)で、兵力は8.3万人~10.9万人になってしまいます。上河鎮の「4万」が多すぎるというのであれば、2万人で計算しても8.3万~8.9万人 です。
 この中には、南方に位置する雨花台方面など、他地区の中国軍、また日本軍が到着するまでに江岸を渡った一団(36師等)は勘定に入っていません。加えれば、万単位で増えるはずです。
 この兵力数を譚 道平 参謀長のいう総兵力8.1万人 と比較すれば、いかに誇大かがわかりますし、台湾公刊戦史の10万人と較べても同様です ( ⇒ 守備兵力数一覧表)。
 つまり、下級兵士の「陣中日記」も師団長、旅団長クラスの「日記」も、ジャーナリストの報道のどれをとっても、遺棄死体、殺害数など数字に関するかぎ り、鵜呑みにできないことを示しています。とくに下級兵士は情報源が限られ、仲間内でささやかれた数字を書きますから、数人の記述が一致したからという理 由だけで、数字が正しいとは言えません。
 幕府山での1.5万~2万人殺害が事実なら、譚 道平の記録する南京戦での損失数(=死者数)3万6500人 の実に半数を超える数になってしまいます。信じろいうのは、土台無理な話でしょう。ですから、これらはせいぜい「参考程度」であって、裏づけがなければ使える数字ではないでしょう。

     (12)  で は、 何 人 か
 資料不足のため、もとより確定的な数字は示せませんが、以下のように考えています。
 まず、捕虜ですが、約1万5千人内外とする数は信じられません。それでも「前代未聞」といえる程度に達していたのは間違いないと思います。具体的な数字 を出せば、8千人以下ではないでしょうか。8千人は、『ふくしま・戦争と人間1 白虎篇 』(福島民友新聞社。1982)にでてくる数ですが、ある程度、納得しています。
 また、捕虜は教導総隊ともいいますが、紫金山で敗北した部隊に1万余の兵力が残存したとは思えません。ちなみに、譚 道平は教導総隊の当初兵力を1万1千人としています。
 そして、女子供が含まれていれば解放したと思いますし、16日火災で数は言えませんが逃亡者はでたでしょう。兵舎(?)を半数(または3分の1)近く焼 いたのですから、飢えと寒さから夜間に脱走者がでても不思議はないと思います。また、射撃中にも逃亡者はかなりでたことでしょう。
 日本軍の機関銃の性能は低く、一中隊4挺のうち1挺以上は故障、すぐに熱を持つので平均1秒間に1発はとても無理との確度の高い話があり、私たちが想像するような連射、連射はありえないといいます。
 そして殺害数ですが、遺体数などの証言を勘案して私の判断を記せば、16日事件で1000~2000人未満(虐殺相当)、17日事件は2000~3000人未満、合わせて3000~4000人未満と思っています。

     (13)  参 考 ま で に

tokyo-marathon.jpg

 大虐殺派の洞富雄は「1万5千人全員殺害」とし、笠原十九司は「陣中日記」を根拠に「2万1千人以上虐殺」と結論づけました。
 一口に2万人といいますが、大変な数に違いありません。左の写真をご覧になってください。
 写真は2009年に開催された東京マラソンのもので、スタート直前のものと思われます。参加者は抽選で、たしか3万5千人に限定されていたはずです。ですから、2万人は3万5千人の約60%に当たります。
 参加者の何割くらいがこの写真に写っているのかわかりませんが、ある程度、数を実感できるでしょう。写真を見て、1.5万人、2万人殺害を信じられますか。
 スタートの合図とともに一斉に走り出すわけですが、全員がスタートラインを通過するのに20分以上かかったとのことです。

― この頁 ( 9-1 )は2009年 6月20日より掲載 ―

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南京事件-戦時国際法上合法説の詳解

転載記事です

南京事件-戦時国際法上合法説の詳解

佐藤和男氏『南京事件と戦時国際法』
「正論」平成13年3月号
筆者は青山学院大学名誉教授
http://www21.atwiki.jp/nankin1937/pages/16.html

一、問題状況
 日本陸軍が支那事変初期の南京攻略戦に付随して軍民三十万人の大虐殺(中国政府の主張)を行ったという"南京事件″なるものが、日本国民の耳目を聳動させたのは、いわゆる東京裁判から以後のことである。爾来、本事件は、その真相の実証的究明とは無関係に、現実に起きたものとマスコミや教育の世界で受けとめられ、暗鬱な夢魔のごとく日本国民を悩まし続けてきた。
 東京裁判を傍聴し、国際法上理論的にも手続的にも疑問の多い同裁判が下した判決に示された"事件"の犠牲者数(十万~二十万人以上の間の異なった複数の数字が示されている)については、同裁判自体の合法性に対すると同様に、筆者は最初から強い疑念を抱かぎるを得なかったが、その数字はやがて中国共産党政府により三十万人と政治的に決定され、対日強圧政策の手段としての効用が重視されるに至った。
 国家間に紛議を惹起している問題を解明するためには、筆者は次のような考察の三階梯が不可欠と考える。(1)歴史的事実の確認、(2)法的適否の判断、(3)政治的意味の考究。(P308)
 南京事件についていえば、右の(1)として、わが国の幾多の研究者の積年の努力によって、大虐殺論はほぼ完全に否認される状況に立ち至っていると、筆者は認識する。鈴木明、田中正明両氏の先駆的研究に続き諸調査が発表され、わけても財団法人・偕行社による『南京戦史(同資料集Ⅰ・Ⅱ』(初版は平成元年、増補改訂版は平成五年の刊行)が画期的といえる実証的かつ総合的な調査成果を世に示し、これらの業績を踏まえつつ、板倉由明、東中野修道、日本会議国際広報委員会等のそれぞれ特徴ある労作が公にされている。(P308-P309)
 本稿で筆者が試みるのは、右の(2)の考察であり、国際法の観点から、今日なお論議の余地ありとされている事件関連の問題点について、検討することとしたい。(P309)

二、支那事変と国際法の適用
 昭和十二年七月七日夜、盧溝橋畔の日支両軍の武力衝突に端を発した支那事変(九月二日、北支事変から改称)は、昭和十六年十二月九日に支那政府(中華民国、蒋介石・国民党政権)が対日宣戦布告を行って、事変が大東亜戦争に包含されるまでの間、日支いずれの側も国際法上の正式の戦争意思(アニムス・べリゲレンディ)を表明しない「事実上の戦争」として性格づけられ、国際社会も、例えばアメリカやイギリスも、それを正規の(法律上の)戦争とは認めなかった。
 しかし、一般的に国際武力衝突を規律する規範とされている戦時国際法(交戦法規といわれる部分)が、戦争の場合と同様に同事変にも適用されることには、異論の余地がなかった。
 戦時国際法は、国際法全般の場合と当然ながら同様に、時代の進展に伴ってその内容を(比較的に急速に)変遷せしめている法体系であり、しかもその法源中の条約の持つ特殊性(締約国のみを拘束する)により、諸国が遵守すべき規範内容に差異が生じ得るものなのである。
 本稿で重要なのは、支那事変当時に日支両国が共通に遵守義務を負っていた交戦法規の実態をその最重要なものとして「陸戦ノ法規慣例二関スル条約・(同付属書)陸戦ノ法規慣例二関スル規則」が挙げられる。
 これは普通に一九〇七年ハーグ陸戦条約(規則)と呼ばれ、陸戦にかかわる交戦法規を集大成した基本法典的な性格を持つものであるが、日本は一九一二(明治四十五)年二月に、支那(中華民国)は一九一七(大正六)年五月にそれぞれその当事国となっていて、支那事変当時この条約が日支両国間に適用されるものであったことは明白である。南京攻略戦に関連する法的諸問題は大体において本条約の枠内における規律対象とされている。
 後述するが、一九二九年のジュネーブ捕虜待遇条約は、当時、両国間に適用可能ではなかった。この当時、日本陸軍が交戦法規についてその遵守が基本的に肝要であると考えていたことは、昭和十二年八月五日の「交戦法規ノ適用二関スル件」と題する陸軍次官通牒(駐屯軍参謀長宛)中に見られる例えば次のような言葉から理解できる。(P309)
「日支兵干戈ノ間二相見ユルノ急追セル事態ニ直面シ全面戦争へノ移行転移必スシモ明確二判別シ難キ現状二於テ自衛上前記条約〔陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約其ノ他交戦法規二関スル諸条約〕ノ精神二準拠シ実情ニ即シ機ヲ失セス所要ノ措置ヲ取ルニ遺漏ナキヲ期ス」、
「帝国カ常二人類ノ平和ヲ愛好シ戦闘二伴フ惨害ヲ極力減殺センコトヲ顧念シアルモノナルカ故二此等ノ目的ニ副フ如ク前述条約中害敵手段ノ運用等二関シ之カ規定ヲ努メテ尊重スヘク又帝国現下ノ国策ハ努メテ日支全面戦ニ陥ルヲ避ケントスルニ在ルヲ以テ日支全面戦ヲ相手側ニ先ンシテ決心セリト見ラルゝカ如キ言動(中略)ハ努メテ之ヲ避ケ又現地二於ケル外国人ノ生命、財産ノ保護、駐屯外国軍隊二対スル応待等ニ関シテハ勉メテ適法的二処理シ(中略)要ラサル疑惑ヲ招カサルノ用意ヲ必要トスヘシ」(P310)

三、捕虜の取扱いに関する法規
 "南京事件″では「捕虜」にかかわる諸問題が格別に重視されているので、国際法上の捕虜の取扱いについて概観しておく。
 捕虜の待遇は、近代国際法の交戦法規の中で特別の関心が払われてきたが、一八七四年のブリュッセル宣言(発効しなかった)の十二箇条が捕虜に関する法制を構想し、以後の関係条約中において具現されることになった。
 一八九九年と一九〇七年のハーグ平和会議を機に、一八九九年ハーグ第二条約と一九〇七年ハーグ第四条約(前出の陸戦条約)との双方の付属規則に、捕虜に関する十七箇条の規定が設けられ、さらに他の一九〇七年ハーグ諸条約中の若干のものにも多少の関連規定が置かれた。
 第一次世界大戦の経験を通じて右のハーグ規則十七箇条の不備と不明確性が明らかとなり、その欠陥は一九一七年、一九一八年に諸国間で結ばれた諸条約によって、一部是正された。一九二一年にジュネーブで開かれた第十回国際赤十字会議は、捕虜の取扱いに関する条約の採択を勧告し、一九二九(昭和四)年にスイス政府は、そのような条約の採択(および戦地軍隊の傷者・病者に関する一九〇六年ジュネーブ条約の改正)のために外交会議を招集して、「俘虜(捕虜)ノ待遇二閑スル条約」を同年七月に正式に採択せしめるに 至った。
 この一九二九年ジュネーブ捕虜条約は、一八九九年、一九〇七年のハーグ陸戦規則中の捕虜に関する諸規定をある程度補足し改善する意義を有していた。(P310)
 右条約は、支那事変当時、日支両国間の関係には適用されなかった。支那(中華民国)は一九三六年(昭和十一)年五月に同条約に加入していたが、日本は未加入であったからである(本条約は、条約当事国である交戦国の間で拘束力を持つ)。(P310-P311)
 ちなみに、大東亜戦争が開始された直後の一九四一(昭和十六)年十二月二十七日の連合国側の問合わせに対して、日本政府は翌年一月二十九日に、未 批准の一九二九年捕虜条約の規定を準用すると回答している。準用とは「必要な変更を加えて適用する」との意味である。しかし、連合国側は、あえて準用を批准 とほぽ同義に解釈したのである。
 以上見た限りにおいても、捕虜に関する国際法上の規範の内容が時代の進展とともに変化(おおむね改善)せしめられていることが理解されよう。その規範の法源は十九世紀後半に至って慣習法から条約へと徐々に転換して成文化の道を辿ることになるのであ るが、各時代・各国家間関係に対応して現実に適用される関係法規の実体の認定に際して、厳密な注意が要求されることは、いうまでもない。
 現在では「法規認定の補助手段」として国際裁判に際しても重要視されている卓越した国際法学者の「学説」を参照する場合にも、このことは忘れられては ならないのである。例えば、わが国で比較的に良く知られていて引用されることも多い『オッペンハイム国際法論』第二巻(永きにわたり戦時国際法の専門的な解説書として高く評価されてきた) にしても、原著者L・F・L・オッペンハイムの死去(一九一九年)の後、異なる改訂責任者による改訂版として、記述内容も必要に応じた訂正を加えて継続的に刊行されており、支那事変当時の戦時国際法状況を知るために適当と考え られる第三版(一九二一年)、第四版(一九二六年)、第五版(一九三五年)は、それぞれR・F・ロックスバーグ、A・D・マックネア、H・ラウターパハトという異なる改訂者の手に成るところの、内容に変化が見られるものであることに、留意すべきであろう。
 以下、捕虜に関する実定法規の主要なものを簡略に説明する。
 まず初めに、捕虜の定義であるが、支那事変当時日支両国間に適用されるハーグ陸戦規則には、具体的に示されてはいない。ここでは、両国間に適用されなかったものの国際的な意味が少なくなかった一九二九年捕虜条約の第一条(1)が掲げている「一九〇七年ハーグ陸戦規則第一条、第二条、第三条二掲クル一切ノ者ニシテ敵二捕へラレタル者」を便宜上念頭に 置くこととする。(P311)
 右のハーグ規則三箇条は、交戦者の資格を、軍隊の構成員のみならず、(1)部下ノ為二責任ヲ負フ者其ノ頭二在ルコト、(2)遠方ヨリ認識シ得へキ固著ノ特殊 徽章ヲ有スルコト、(3)公然兵器ヲ携帯スルコト、(4)其ノ動作二付戦争ノ法規慣例ヲ遵守スルコト、の四条件を具備する場合、民兵と義勇兵 団とにも認め(第一条)、敵侵入軍の接近に際して「抗敵スル為自ラ兵器ヲ操ル」群民蜂起を行う占領されていない地方の住民にも、「公然兵器ヲ携帯シ、且戦争ノ法規慣例ヲ遵守スル」ことを条件に同様に認め(第二条)、また兵力を編成する 戦闘員と非戦闘員とが両者等しく捕虜の待遇を受ける権利を有することを認めており(第三条)、交戦者としての正当な資格を有するこれらの者が、国際法が認める捕虜としての待遇を享受し得ると定めるものであった。(P312-P313)
 ハーグ陸戦規則第四条は「俘虜ハ、敵ノ政府ノ権内二属シ、之ヲ捕ヘタル個人又ハ部隊ノ権内二属スルコトナシ」と規定するが、往昔、捕虜が捕獲者たる将兵の個々の権内に属して、彼等に生殺与奪の権を握られることがあったのである。
 「敵ニ捕へラレタル者」が交戦者としての適法の資格を欠く場合には、単なる被捕獲者に過ぎず、国際法上正当な捕虜であり得ないことは理論上明白であるが、現実の戦場でのこの点についての識別が実際上困難な場合もあり、紛糾を生ずる原因ともなり易い。
 第二次世界大戦の経験に鑑みて、一九二九年捕虜条約をさらに大幅に改善し拡大した一九四九年のジュネーブ第三条約(捕虜の待遇に関する条約)の第五条は、「本条約は、第四条に掲げる者〔捕虜の待遇を受ける資格のある者〕に対し、それらの者が 敵の権力内に陥った時から最終的に解放され、且つ送還される時までの間、適用する」、「交戦行為を行って敢の手中に陥った者が第四条に掲げる部類の一に属するか否かについて疑いが生じた場合には 、その者は、その地位が権限のある裁判所によって決定されるまでの間、本条約の保護を享有する」と規定している。
 一九四九年捕虜条約は、一九二〇~三〇年代の捕虜に関する国際法規に比較して飛躍的に進歩した内容を示していて、もちろん支那事変当時の関連諸問題に直接影響を与えるものではないが、少なくとも右の第五条に見られる「敵の手中に陥った者」のことごとくが「敵の権力内に陥った者」(捕獲国から国際法上の捕虜としての待遇を保証された者)とは限らないことを示唆している点において、注目に 値しよう。(P312)
 交戦法規中捕虜関係のすべてを詳論する余地は本稿にはないが、問題の難しさを示す実例を一つ挙げておきたい。(P312-P313)
 捕虜法規がようやく慣習法の域を脱しつつあった一九〇一年、独立を日ざすフィリピン人民の部隊とアメリカ軍とが戦っていた時、アメリカ陸軍の ジェイコブ・H・スミス准将は、史上悪名高き次の命令を発した。
「捕虜は要らない。殺せ、焼け。多ければ多いほど良い。サマル島内を荒涼たる原野にしてしまえ。武器を持って手向かう者は皆殺せ、十歳以上は殺せ」。
彼は軍法会議で裁かれたが、結局、退役に追い込まれただけであった。(P313)

四、"南京事件"関連の重要法規
 戦時国際法上、戦闘に際して、正当な資格を有する交戦者は各種交戦法規の遵守を義務づけられているが、軍隊構成員または民間人が敵国に対して交戦法規に違反する行為をすれば、それは戦争犯罪と認められて、相手方の交戦国は、当該行為者を捕えた場合に処罰できるものとされてきた。
 戦争犯罪を構成する行為としては、(1)軍隊構成員による一般的交戦法規の違反行為、(2)軍隊構成員ではない個人の武力による敵対行為、 (3)間諜(スパイ)と戦時反逆、(4)剽盗(戦場をうろついて軍隊につきまとい、略奪、窃盗、負傷者の虐待・殺害、死者の所持品の剥奪などをする行為)の四種類に伝統的に大別されてきた。
 右の諸行為のうち、間諜と戦時反逆が特殊な性格を持つものであることは、留意されなければならない。両方の行為はいずれも交戦国が実行する権利を国際法上認められており、しかも相手方の交戦国がその行為者を捕えた場合にこれを処罰する権利もまた認められているのである。
 違法ではない行為が処罰されるのは、一見法理的に矛盾しているが、それらの行為の害敵手段としての有効性とそれに基づく交戦諸国の現実的要求の前に法規が譲歩したものと考えられる。
 前記四種類の戦争犯罪のうち、戦時反逆については多少の解説をしておく必要がある。それは、交戦国の権力下にある占領地、作戦地帯、その他の場所において、当該交戦国に 害を与えその敵国を利するために、私人たる敵国国民、中立国国民、または変装した敵国軍人が行う行為を指している。
 この種の有害行為は、敵国軍人が正規の軍服を着用して行う場合には戦時反逆にならないが、民間人に変装して行えば戦時反逆となる。その具体的内容はきわめて多岐にわたるが、 敵側への情報の提供、軍・軍人に対する陰謀、軍用の交通機関・資材の破壊、諸手投による公安の妨害、敵兵の蔵匿隠避、出入禁止区域への出入、強盗なども含まれている。
 戦争犯罪は、それを実行した個人が責任を問われるというのが原則であり、軍隊構成員という国家機関の行為でも、責任は国家に帰属せずに個人責任が問われるのが常である。(P313)
 各国軍隊は、軍律を制定して、戦争犯罪(一般的交戦法規違反とは特に区別して戦時反逆を取 り上げている場合もある)を処罰の対象として規定し、軍律違反者たる戦争犯罪人を、軍の審判機関(軍律法廷)を通じて処罰するのが慣例であった。(P313-P314)
 軍律法廷は純然たる司法機関ではなく、統帥権に基づく機関であって、むしろ行政機関、あるいはせいぜい準司法機関というべきものである。その行う審判は、機能的には軍事行動と把えるのが正確であり、その本来の目的は、戦争犯罪を行った敵対者の処断を通ずる威嚇によって、究極的には(占領地・作戦地帯における)自国軍隊の安全を確保することにあった。そのため、審判の手続は簡易にされ、軍罰(たいてい死刑)の執行は迅速であった。
 軍律法廷の法的根拠は、国内法上は憲法に定める統帥権に、また国際法上は軍が行使する交戦権、わけても「敵国ノ領土ニ於ケル軍ノ権力」(ハーグ陸戦規則第三款)に存する。
 なお付言すれば、大東亜戦争中に正しい手続に従って厳格に実施されたわが国の軍律審判を、戦勝連合国軍(占領軍)の軍事法廷が犯罪視してその責任を追及したことは、将来に向けて重大な疑問と課題を残すものであった。
 第二次世界大戦後に締結された一九四九年ジュネーブ捕虜条約(前出)の第九十九条は「捕虜は、実行の時に効力があった抑留国の法令又は国際法によって禁止されていなかった行為については、これを裁判に付し、又はこれに刑罰を科してはならない」と、新機軸として「国際法」という言葉を加えた規定を行い、以下の諸条項において裁判手続を確定している。
 一九二九年ジュネーブ捕虜条約も第六十条以下において裁判手続について規定していたが、戦争犯罪事件に関与した他の幾つもの裁判所と同様に、アメリカ連邦最高裁判所が、第六十 条は戦争犯罪の責任を問われる捕虜に適用されるものではなく、捕虜となっている期間中に行われた犯罪のみを規定対象とするものだと主張していたことは、重要な意味を持つ。
 次に、ハーグ陸戦規則第二十三条(ハ)は「兵器ヲ捨テ又ハ自衛ノ手段尽キテ降ヲ乞へル敵ヲ殺傷スルコト」を禁止し、同条 (ニ)は「助命セサルコトヲ宣言スルコト」を禁止している。
 しかし、激烈な死闘が展開される戦場では、これらの規則は必ずしも常に厳守されるとは限らない。
 『オッペンハイム国際法論』第二巻の第三版一九二一年)は「戦闘に伴う憤怒の惰が個々の戦士にこれらの規則を忘却、無視させることが多い」と嘆いているが、このまったく同一の言葉が、同書の第四版(一九二六年)にも、さらには弟六版(一九四〇年)にも、第七版(一九五二年)にさえも繰り返されている。
 学説上では、助命を拒否できる若干の場合のあることが広く認められている。(P314)
 第一は、敵軍が降伏の合図として白旗を掲げた後で戦闘行為を続けるような場合である。一般に、交戦法規は交戦国相互の信頼に基づいて成立しているので、相手方の信頼を利用してそれを裏切ることは、「背信行為」として禁止されている。具体的には、休戦や降伏をよそおって相手方を突然に攻撃すること、戦闘員が民間人の服装をして攻撃すること、赤十字記章や軍使旗を不正に使用すること、などがその代表的な ものである。(P314-P315)
 なお、優勢に敵軍を攻撃している軍隊に対して、敵軍が降伏の意思を示すペき白旗を掲げた場合、攻撃軍の指揮官は、 白旗が真に敵指揮官の降伏意思を示すものであると確信できるまでは、攻撃を続行することが法的に許されており、攻撃を停止しなければならない義務はなく、戦場における自己の安全の確保のために交戦者の主体的判断が尊重される事例となっている。
 第二に、相手側の交戦法規違反に対する戦時復仇としての助命拒否であり、相手方の助命拒否に対する復仇としての助命拒否の場合もある。
 一般に戦時復仇とは、交戦国が敵国の違法な戦争行為を止めさせるために、自らも違法な戦争行為に訴えて敵国に仕返しをすることをいう。前出『オッペンハイム国際法論』第二巻(第四版・一九二六年)は「捕虜が、敵 側の行った違法な戦争行為への復仇の対象にされ得ることには、ほとんど疑いがない」と述べている。一九二九年捕虜条約は新機軸を打ち出して、捕虜を復仇の対象とすることを 禁止した。
 第三は、軍事的必要の場合である。交戦国やその軍隊は、交戦法規を遵守すれば致命的な危険にさらされたり、敵国に勝利するという戦争目的を達成できないという状況に陥るのを避ける極度の必要がある例外的場合には、交戦法規遵守の義務から解放されるという戦数(戦時非常事由)論が、とりわけドイツの学者によって伝統的に強く主張されてきたが、その主張を実践面で採用した諸国のあることが知られている。
 この「軍事的必要」原則は、第二次世界大戦後の世界においてさえも完全には否認されていない。例えば、ミネソタ大学のG・フォングラーン教授は、無制限な軍事的必要主義は認めないものの、「必要」に 関する誠実な信念や確実な証拠が存在する場合には、この原則の援用や適用を容認している。
 もっとも、同教授は、極度の緊急事態の不存在や、軍事的成功への寄与の欠如が明らかにされたならば、軍事的必要を根拠にした違法行為は、戦争犯罪を構成するものになると警告している。
 わが国の戦時国際法の権威である竹本正幸教授も「予測されなかった重大な必要が生じ、戦争法規の遵守を不可能ならしめる場合もあり得る」と認めている。
 ちなみに、オッペンハイムの前記著作第三板(一九二一年)は、「敵兵を捕獲した軍隊の安全が、捕虜の継続的存在に より、死活的な重大危険にさらされる場合には、捕虜の助命を拒否できるとの規則がある」と主張している。同書第四版以降の改訂者は、同規則の存続は「信じられない」との意見を表明している。
 学界の通説は、右のような場合には、捕虜は武装解除された後解放されるべきであるというものである。(P315)
 一般に国際武力衝突の場合に、予想もされなかった重大な軍事的必要が生起して交戦法規の遵守を不可能とする可能性は皆無とはいえず、きわめて例外的な状況において誠実にかつ慎重に援用される軍事的必要は、容認されてしかるペきであるという見解は、今日でも存在しているのである。(P315- P316)
 なお第二次世界大戦末期に連合軍が日本の六十有余の都市に無差別爆撃を加え、広島、長崎には原子爆弾を投下するという明々白々な戦争犯罪行為を、"軍事的必要″を名目にして行った事実は、日本国民がよく記憶するところである。(P316)

五、結論的所見
 これまでに概観した戦時国際法の関連法規に照らして、南京攻略戦での日本陸軍の行動の一部始終(詳述は割愛)を点検すると、きわめて厳しい軍事情勢の下にありながら、戦闘部隊が交戦法規の遵守に非常に慎重な考慮を払い、激戦中にも能う限りの努力をそのために払った事実が明らかにされ、筆者などむしろ深い感動を覚えざるを得ないのである。
 在支駐屯軍に交戦法規の尊重を求めた昭和十二年八月五日の陸軍次官通牒については既に見たが、南京攻略戦の開始にあたり、中支那方面軍司令官・松井石根大将が国際法顧問の斎藤良衛博士の意見を 徴して作成した「南京城攻略要領」(十二月七日、全軍に示達された)中の「注意事項」を見ても、交戦法規遵守への日本軍のなみなみならぬ決意が知られる。
その内容を略記すると、次のとおりである。
(1)将来ノ模範タルヘキ心組ヲモッテ、不法行為等絶対二無カラシムル、
(2)軍紀風紀ヲ特二厳粛ニスル、
(3)外国権益・外交機関二接近セス、中立地帯(安全区)ニハ必要ノ外立入ヲ禁シ所要ノ地点二歩哨ヲ配置ス、中山陵等ニモ立入ヲ禁ス、
(4)城内外国権益ノ位置等ヲ徹底セシメ絶対二過誤ナキヲ期ス、
(5)掠奪行為ヲナシ又火ヲ失スルモノハ厳罰二処ス、多数ノ憲兵ヲ入城セシメ不法行為ヲ摘発セシム。
 攻略戦展開に伴う国際法関連の問題点は幾つも指摘されているが、紙面の制約上、最も議論の喧しい二つのものに限定して考えたい。
 その一は、「安全区」に遁入・潜伏して、便衣(民間人の平服)に変装した支那兵の摘出・処断である(その具体的な人数等に関しては、『南京戦史』 三四二~三四三頁の第五表に詳しい)。
 右の安全区は、南京在住の第三国人有志が十二月初めに南京安全区国際委員会という非政府機関を設立して、南京城内の特定区域(三・八平方㌔)を難民のための中立地帯として設定し、外交ルートを通じ日本側にもその保証を求めてきたものである。(P316)
 国際法でいう中立地帯とは、交戦国間の合意に基づいて設定され、敵対行為に参加しないか、または戦闘外に置かれた非戦闘員・住民を軍隊の作戦行動の影響から保護することを目的とするものであるが、日本軍当局は、右委員会の中立性維持能力を危ぶんで、この安全区を正規の中立地帯として公式に承認することはしなかったが、軍隊の立入禁止区 域の設定という趣旨は諒として、事実上安全区の存在を尊重する-もちろん、支那軍による同様の尊重が必須の条件とされたが-ことにしたのであった。(P316-P317)
 南京城内外での激戦の結果、安全区内に遁入・潜伏する支那敗残兵の数は少なくなかった。
 一般に武器を捨てても(機会があれば自軍に合流しようとして)逃走する敵兵は、投降したとは認められないので、攻撃できるのである。安全区に逃げ込んだ支那兵は、投降して捕虜になることもで きたのに、それをしなかったのであり、残敵掃討が諸国の軍隊にとってむしろ普通の行動であることを考えると、敗残兵と確認される限り、便衣の潜伏支那兵への攻撃は合法と考えられるが、安全区の存在とその特性を考慮に入れるならば、出入を禁止されている区域である安全区に逃げ込むことは、軍律審判の対象たるに値する戦争犯罪行為(対敵有害行為)を構成すると認められ、安全区内での摘発は現行犯の逮捕に等しく、彼らに正当な捕虜の資格がないことは既に歴然としている。
 兵民分離が厳正に行われた末に、変装した支那兵と確認されれば、死刑に処せられることもやむを得ない。多人数が軍律審判の実施を不可能とし(軍事的必要)― 軍事史研究家の原剛氏は、多数の便衣兵の集団を審判することは「現実として能力的に不可能であった」と認めている―、また市街地における一般住民の 眼前での処刑も避ける必要があり、他所での執行が求められる。したがって、問題にされている潜伏敗残兵の摘発・処刑は、違法な虐殺行為ではないと考えられる。
 その二は、戦闘中に集団で捕えられた敵兵の処断である。同じように戦闘中に捕えられながらも釈放された支那兵が多数いたことを見れば(前出『南京戦史』第五表を参照)、日本軍の側に捕えた敵兵を組織的に絶滅させる計画的な意図が無かったことは明白である。具体的な 熾烈な戦闘状況を調べてみると(本稿では詳述する余地がない)、日本軍の関係部隊には緊迫した「軍事的必要」が存在した場合のあったことが知られる。
『オッペンハイム 国際法論』第二巻が、多数の敵兵を捕えたために自軍の安全が危殆に瀕する場合には、捕えた敵兵に対し助命を認めなくてもよいと断言した一九二一年は、第一次世界大戦の後、一九二九年捕虜条約の前であって、その当時の戦時国際法の状況は、一九三七年の日支間に適用されるペき戦時 国際法の状況から決して甚だしく遠いものではないことを想起すべきであろう。
 支那側の数々の違法行為(通州事件を含む)に対する復仇の可能性、和平開城の勧告を拒絶して、結果的に自国の多数の良民や兵士を悲惨な状態に陥れた支那政府首脳部の責任、右の勧告を拒絶されながら、防守都市南京に対する無差別砲撃の権利の行使を自制した日本軍の態度、など関連して検討すべき法的問題点はなお少なくない。(P317)

中韓を知りすぎた男:歴史の真実を知ろう 9月24日(水)

転載記事です。



中韓を知りすぎた男
歴史の真実を知ろう 9月24日(水)
http://kkmyo.blog70.fc2.com/blog-entry-1016.html

ピースおおさか(大阪国際平和センター)において「南京事件」映像展示
という記事が載っています(大阪府と大阪市が出資する財団法人)
(産経新聞)

当館において戦争の映像を流す際に、日本軍が南京城へ入城するシーンに
「日本軍が占領した南京で、捕虜のほか女性や子供を含む多数の住民が殺害
された」という内容のナレーションを重ねることが検討されています。

しかし市民団体や府市議らから事件そのものの虚構性を指摘されると、岡田
重信館長は「死傷者数に諸説あるものの多くの犠牲者が出ている、当館は、
事件を全体のストーリーを語る上での一つの重要な歴史的事象と捉えている」
と話しています。橋下市長も岡田館長の方針を了承したそうです。

同施設の戦争資料をめぐっては、これまでにも旧日本軍による虐殺現場と説
明した出所不明のニセ写真の展示など誤用や歪曲が指摘され、撤去や修正
を繰り返していました。2年前にも、朝鮮人労働者の「強制連行」や虐殺・虐待
などの解説文と並べて展示した写真4枚が、全く無関係のものだったことが
分かり、撤去を余儀なくされた事があります。

もういい加減に日本人は、中国が日本をおとしこめる為の事実無根のプロパ
ガンダの呪縛から脱却してください。

南京大虐殺について多くの日本人は,市民の大虐殺はなかったかもしれない
が、虐殺はあったのではないかと思っていますが、とんでもない、虐殺された
市民は限りなくゼロに近かった。

私が勝手に言っているのでなく、東中野修道教授(亜細亜大学)や北村稔教授
(立命館大学)たちが徹底的に研究した結果、そうした事実はなかったという
研究結果を発表しています。

台湾の複数の歴史書、マッカーサー回顧録、アメリカ人検事などの発言や、
蒋介石総統などは、「南京には市民の大虐殺などありはしない」と発言してい
ます。

現地から戦闘前に国外に逃げたアメリカ人記者が、日本軍が弱者の中国人を
大虐殺したというでっち上げ記事で、日本討つべしという世論を喚起させ、
アメリカの参戦を正義の戦いと見せかけたのです。

東京裁判で大虐殺を証言したマギー牧師も、単にアメリカの新聞記事のイ
メージで証言しただけで、実際に自分で目撃したのは何人だと聞かれて一人
だと話しています。その一人も民間人に化けた便衣兵が逃走したので打たれ
たのです。

戦後台湾人が真実を知るために南京大虐殺の被害者家族を20数年かけて
中国全土を探したが、被害者は447人しかいなかったそうです。その被害者は
ほとんど民間人に化けた便衣兵だと言われています。

そこで真実を知ってもらうために最近刊行した私の「近現代史の旅、真実を
求めて」の中から南京大虐殺の真実が分かる部分をコピーしました。

「南京侵攻を戦後南京大虐殺という虚偽で戦後長く日本人を苦しめてきました。
最近はいろんな資料や本が出て大虐殺はなかった、非道行為を行ったのは
むしろ中国兵たちだという真実が明らかになってきました。

中国側がでっち上げた被害者30万人というような数字は、まさに荒唐無稽で、
中国側の宣伝上の数字であることはいろんな資料から常識で分かります。

日本軍人は日清戦争、日露戦争、義和団の事件で世界中が認めたように軍記
厳正で、敵に対して寛仁であり、模範とすべき武士道的軍隊です。

南京戦で日本軍は非常に人道的で、攻撃前に南京市内にいた民間人全員を,
戦火が及ばないように、南京市内に設けられた「安全区」に集めた為に日本軍
の攻撃で、安全区の民間人は誰一人死にませんでした。

その証拠に安全区のリーダーであったドイツ人、ジョン・ラーベは「日本軍が
安全区を設けて民間人を傷つけなかったことを深く感謝いたします」という
感謝状を松井大将に手渡しています。

また南京占領後、日本軍の指揮のもとで南京の中国人団体が、死んだ中国兵
の埋葬作業を行いました。彼らは埋葬した人々のリストを残していますが、
その中に女性や子供の遺体はほとんど含まれていません。つまり民間人の
犠牲者がほとんどいなかったことをこの資料は証拠づけています。

ところが南京占領が確定すると多くの中国兵は軍服を脱ぎ捨て、中国市民を
殺して服を奪い 、民間人に化けて南京の安全区に逃げ込み、安全区内で強
姦や略奪、殺人などを行いました。

そして民間人の服装で日本軍人を背後から攻撃(便衣隊)しました。その数
数千人も居り、日本軍から多くの犠牲が出ました。そのために日本軍は彼ら
を見つけ出すために掃討作戦を行わなければなりませんでした。

民間人の格好をした中国兵を見つけ出すために、数万にも及ぶ安全区の住民
の手を検査しました。もし兵士ならば度重なる銃の発射でタコが出来ていま
す。それだけでは間違いもありますので、南京市内に家族がいるかどうかを
調べました。もし兵士ならば南京市内に家族はいません。

このようにして日本軍は兵士と市民を区別し、逮捕しました。もちろん人間
のやることだから誤認逮捕もあったとしても、その数はわずかだと思われます。
このように南京占領において日本軍によって殺された民間人はほとんどゼロ
に近いと言っても過言ではありません。

それでは何故南京大虐殺というオドロオドロシイ言葉が一人歩きしたのか?
アメリカのジャーナリストであるベイツが「日本軍による南京での市民虐殺」と
いう虚偽を世界に広めたのです。

彼はアメリカの命令で蒋介石率いる中国国民党の顧問をしていました。彼の
使命は「中国市民の悲惨」と「日本軍の残虐」を世界に広め、アメリカ世論
を喚起させてアメリカが日本と戦争するための正義の旗を立てることでした。

しかしその他の良心あるジャーナリストたちは中国兵らの残虐な悪事の数々
を記述しています。ティルマン・ダーディン記者は南京で日本軍を迎える
中国軍の様子を「中国軍による焼き払いの狂宴」としてほとんどすべての建
物に火が付けられ、多くの中国人が死んだと記述しています。

また南京のアメリカ領事館のジェームズ・エスビーが「日本軍入城前の最後
の数日間に中国兵は略奪、強姦、殺人と狂わんばかりの狂態であった」と
報告しています。

南京大虐殺が中国の捏造であることを証拠付ける資料を書き出せばきりがあ
りません。そこで最後に確定的な証拠を書いてみます。

南京市の人口は、日本軍の南京への攻撃開始前に約20万人でした。20万人
しかいない所で、どうやって30万人を殺せるのですか?しかも日本軍の南京
占領後、南京市民の多くは平和が回復した南京に戻ってきて、1ヶ月後に
人口は25万人に増えています。もし虐殺があったのなら、人々は日本占領下
の南京に戻ってきたりするはずもありません。

当時の中国市民は自国民である中国兵を恐れ嫌っていました。日本兵のいる
ところが一番安全であると信頼していたのです。敗戦後日本軍が惜しまれな
がら去った、日本軍の後にどんな軍閥、野党軍団が来るかも知れず、日本軍
が去るのを不安な気持ちで見送った中国市民の気持ちがわかります。

このように日本人の伝統は中国には100%もない遵法精神と規律があり、
武士道が日本軍隊の精神的支えとなっていました。

ところが絶対許せないことに戦後の教育で、日本軍が中国で、暴虐、非道の
限りを尽くしたという虚偽を左翼先生たちは子供たちに教えてきたのです。
この先生たちは本当に日本人だろうか?

まだ中国や韓国のように自国を良く見せるために、数々の悪事を隠し、歴史
を捏造するのは少しは理解できますが、日本のように良いことを隠し、全く
してもいない悪事の罪を着せるなど私には信じられないことです。

日本人でありながら何故反日になるのか?何故歴史を捻じ曲げて日本を非難
し攻撃できるのか?また学校の先生だけでなく捏造歴史の言立てを持って、
自分の言論活動の基本方針として生計を維持している左翼学者たちは恥ずか
しくないのだろうか?

戦後60年我が国の論壇を占拠し、日本の世論を間違った方向へ誘導してき
た学者、評論家たちの国を売る人々の大罪は果てしなく重い」

以上、私の本の一部を抜粋しましたが、私が「近現代史の旅、真実を求めて」で
一貫して主張したことは「日本は侵略国家ではない、日本が戦争に入った
のは自衛のためである」ということを証明する為の旅でした。

東京裁判では日本に対して中国への開戦責任を問うことはできなかったし、
マッカーサー自身も上院で、ある議員の質問に答え「日本の侵略戦争を
否定し、日本が戦争に入ったのは主として自衛のためである」と答弁して
います。

日本人が言ったのではない敵の大将が証言したのです。日本の左巻きの
おバカさんたち、この言葉をよく噛みしめてください。

ヘンリー・ストークス「南京大虐殺はなかった。この内容に自分の存在をかけている」 共同通信の報道を否定

話は変わるが、ご隠居さんのブログが書籍になると言う話を急に思い出した。
韓国の話になると、追従を許さない点に敬意を感じていました。

天国のミケ姫も御満足でしょうと、御祝いを申し上げます。

さて、本エントリーの動機も何かにせかされての事で、あまり乗り気ではないのであるが、
本田勝一氏の南京大虐殺写真が偽造転載と言う話で、またも、虐殺は有った派の粘着を感じている。
歴史上の事なので、真実は、日本悪玉説に立つ限り重箱の隅を突くしか能が無くなる。

「南京大虐殺はなかった。」と言えば、松井石根陸軍大将の名誉回復が望まれる。
習近平が政治プロバガンダで南京大虐殺を指摘する事情はほぼ理解済みである。



2014年05月25日14:00
  ヘンリー・ストークス「南京大虐殺はなかった。この内容に自分の存在をかけている」 共同通信の報道を否定

http://www.kimasoku.com/archives/7695602.html
転載元:http://uni.open2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1400932169/
1: ばぐたZφ捏造通信◆FdDsU0B5ivx5 2014/05/24(土)20:49:29 ID:bTpZX8DYD
【GoHooインタビュー】「南京大虐殺」否定説の真相/ベストセラー著者ヘンリー・ストークス氏に聞く(ショートバージョン)
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=HSkj18t__zE

日 本軍が1937年に南京で中国人を虐殺した事実はないと論じた「英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄」の著書ヘンリー・ストークス氏(75)は、その内 容は正しいとあらためて強調した。この著書をめぐっては、翻訳・編集したチームがストークス氏の許可なく内容に加筆したのではないかとの疑問が報道がされ ている。。

ストークス氏はニューヨーク・タイムズやフィナンシャル・タイムズの東京支局長を務めた在日50年のベテラン英国人記者。同氏は今週ユーチューブに投稿された動画のインタビューで、日本でベストセラーとなったこの著書の内容を「全面的に把握」していると述べた。

こ の著書(英語のタイトルは「Falsehoods of the Allied Nations’ Victorious View of History as Seen by a British Journalist」と訳されている)は2013年末に出版されて以来10万部を売り上げており、中国や韓国との緊張が高まるなか、日本におけるナショ ナリズム的な色彩の強い書籍のミニブームに乗って人気を集めている。

ストークス氏は日本語での執筆能力に限界があるため、1人の翻訳者と協力して執筆した。共同通信によると、この翻訳者がストークス氏が自称「中道右派」の政治的見解を語った170時間のインタビューをもとに編集されている。

ストークス氏は動画で「私は、日本軍によるいわゆる南京虐殺は起こらなかったと言っているのだ」とし、「これについて私は強い主張を持っている。この件について誰からも嘘つき呼ばわりされたくない。この内容については自分の存在をかけている」と述べた。

南 京で1937年に起きた出来事についてストークス氏は「あちこちで散発的に起きた暴力行為」であり、「虐殺」というより「事件」と呼ばれるべきだと指摘し た。パーキンソン病を患うストークス氏は6分のインタビューの間、椅子に前屈みに座り、カメラを直視せず、下を向いていた。言葉はゆっくりだが明快だっ た。

この本をめぐる議論は、共同通信が今月、日本語に不自由なストークス氏が自分の本に書かれていることを認識していなかったと報じたこ とで注目を浴びた。共同との一連の取材で、ストークス氏は、中国政府が南京虐殺をでっち上げたというこの本の結論に「ショックを受け震え上がった」と述 べ、そうした主張は「紛れもなく右翼のプロパガンダだ」と語った。共同通信はストークス氏がこの翻訳者に内容の訂正を要求したと報じた。

しかし、ストークス氏はその直後、著書の出版社である祥伝社を通じて声明を発表し、共同の報道を否定。「いわゆる南京虐殺は起こらなかった」という一節を含め、本の内容を支持すると明言した。



2: ばぐたZφ捏造通信◆FdDsU0B5ivx5 2014/05/24(土)20:49:43 ID:bTpZX8DYD
本の編集にあたった祥伝社の角田勉氏は、ストークス氏とは何年もの知己で、 ストークス氏の戦争問題に対する見方は「一貫している」と述べた。角田氏によると、そうした見解が本に記され、共同の記事が出た後に、著者自身によってコ メントや動画を通じて表明されていると指摘した。

動画のインタビューは、産経新聞の元記者が運営している日本報道検証機構によって行われた。

ストークス氏の否定に対して、共同通信は声明で「当社の記事が正確であると確信」しているとし、ストークス氏と著書の翻訳者である藤田裕行氏のインタビューの録音記録を持っていると述べた。

あ るフリーランスの女性記者が書いた記事も、この本をめぐる疑問を高めている。ストークス氏の著書の英語版に向け、インタービューの会話録を作成する仕事を していたこの記者は、藤田氏が自分の見解に合わせるためインタビューを操作していると感じたため、その仕事から身を退いたという。

このフリーランス記者であるアンジェラ久保氏は藤田氏に書簡を送り、「インタビューの収録内容の一部についてますます不快になった。ストークス氏は言ってもいないことを言ったと言われているようで、このインタビューは彼の本当の意見や考えを反映していない」と述べた。

翻訳者がインタビューを操作したとの久保氏の主張について、角田氏は久保氏が自分が辞める前に、ストークス氏のインタビュー記録の「わずか一部」を聞いただけだと指摘。それだけではストークス氏の発言の意図を完全に反映しているか判断をするのに十分でないと述べた。

共同に記事の訂正を求めるかの問いに、ストークス氏は「私と同じ会社に勤めていない人たちの訂正を求めるのには、かなり気が乗らない」と答えた。

ストークス氏は、WSJとの個別の取材の要請には応じなかった。

原文(英語):Veteran Japan Scribe Defends Denial of Nanjing Massacre
http://blogs.wsj.com/japanrealtime/2014/05/23/veteran-japan-scribe-defends-denia...
http://realtime.wsj.com/japan/2014/05/23/%E3%8C%E5%8D%E4%BA%AC%E8%90%E6...


▽関連スレ
南京虐殺加筆報道、共同通信の捏造だったと判明








【悲報】バトミントン「風問題」で日本JOCの甘さと馬鹿加減が隙を生み、韓国が開き直る事態発生!JOC「抗議しない」


2014年09月23日17:00
【悲報】バトミントン「風問題」で日本JOCの甘さと馬鹿加減が隙を生み、韓国が開き直る事態発生!JOC「抗議しない」その結果⇒韓国
http://crx7601.com/archives/40979905.html

1: エクスプロイダー(奈良県)@\(^o^)/ 2014/09/23(火) 11:25:20.69 ID:G61L+mVY0.net BE:565421181-PLT(12000) ポイント特典
sssp://img.2ch.sc/ico/u_puni.gif
“風”問題、韓国紙「事実無根」と主張 アジア大会バドミントン
デイリースポーツ 9月23日(火)9時24分配信

韓国、仁川で開催されているアジア大会のバドミントン男子団体戦の21日の日本‐韓国戦で、ホームの韓国が空調を操作して、日本に不利な向かい風を吹かせたという疑惑が持たれている問題で、韓国紙「中央日報」は23日、日本側の抗議に対して「事実無根」と主張した。

大会の種目調整官の「冷房は固定されており、風速、風向きは調整できない」、「もし事実なら日本は正式に抗議したはずだが、抗議はなかった」というコメントを掲載した。

以下略、全文はソースへ
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140923-00000026-dal-spo

▽関連記事
【アジア大会】バドミントン会場「風」 日本協会「JOCに一任する」⇒韓国「遺憾表明」⇒JOC「抗議する考えなし」専門家「学ぶよい機会になった、選手ドンマイ」

▽オススメ速報
ネットで話題になった「TOKIO力」に山口達也は苦笑wwww

10: ドラゴンスープレックス(神奈川県)@\(^o^)/ 2014/09/23(火) 11:30:48.04 ID:xikinDTM0.net
>>1
まぁ公式に事実無根ということなんだよね
なぜか韓国で国際試合やると似たようなことが高確率で起こる気がするけど
たぶん気のせいだろう


19: 足4の字固め(内モンゴル自治区)@\(^o^)/ 2014/09/23(火) 11:32:33.37 ID:CK4tIqnAO.net
>>1
じゃあなんで戦後すぐに慰安婦問題の抗議しなかったの?


165: ストレッチプラム(東京都)@\(^o^)/ 2014/09/23(火) 12:22:16.49 ID:tzWxCoWq0.net
>>1
要は、選手の事は何も考えて無いって事だな


172: 男色ドライバー(東京都)@\(^o^)/ 2014/09/23(火) 12:23:38.09 ID:FJXXTh2n0.net
>>165
協会なんて金が入ればそれでいいって思ってるからな。
選手のことなんて考えてないよ。
そんなものに踊らされてる観戦者の方が哀れ。

田母神氏が近く新党設立へ!

田母神氏が近く新党設立へ!
2014.9.23 14:40
http://amaebi.net/archives/2196146.html
田母神

元航空幕僚長の田母神俊雄氏が近く新党を設立する意向であることが
22日、分かった。西村真悟衆院議員(無所属)も参加する考え。
10月1日発売の雑誌「正論11月号」(産経新聞社)に掲載される
対談で両氏が明らかにした。     

田母神氏は対談で、新党設立について「近いうちに必ず動き出す」と明言。
「自民党の右側にしっかりと柱を立てる政党、健全野党が必要だ」としている。
西村氏も「一緒にやる」と応じた。

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田母神氏は今年2月の東京都知事選に立候補したが落選し、
国政進出に意欲を示していた。西村氏は平成24年の衆院選で
旧日本維新の会から出馬し当選を果たしたが、昨年5月に
慰安婦をめぐる発言で除名されていた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140923-00000500-san-pol


自民の右に立つ政党が必要なのは明々白々。
是非頑張ってほしい。応援したい。

頑張ってください

面白いと思いますよ
是非頑張っていただきたい

偏った物の見方をすることも多々あるけど、都知事選挙の時に
都の防災のことを他の候補より多く語っていたのは好印象だった。
それには自衛隊の活用も含まれてたけど。w

やはり田母神さんは国政でこそ力が発揮できるんじゃないのかな
今のままブレない発言続ければ理解者も増えると思うよ

頑張ってください


緊急拡散希望《本多勝一氏が『週刊新潮』に「南京大虐殺」派が使っていた象徴的写真を捏造写真と認めました》

南京大虐殺について、本田勝一氏が、捏造写真と認めたと言う事で、急に4月中のブログ記事にコメントが入った。
肯定派からすれば青天の霹靂であり、太陽が西から昇るような出来事である。
自分で資料や検分をすれば、無いに凱歌が上がる。

南京大虐殺が注目されるのは、ナチスのプロバガンダでドイツに嫌がられた習近平が、
政治ネタに持出した事による。河村名古屋市長の発言で、南京大虐殺は無かった、がネットでは既にケリの付いた問題だが、中国と言う独裁国家は、数百万人規模で世界中に拡散宣伝するので負けてはならないとしたものである。

韓国朴槿恵政権が従軍慰安婦問題で日本批判を続けて、日韓首脳会談の前提として日本、安倍晋三首相に
謝罪を迫るのは、不埒な考えである。
朝日慰安婦誤報の存在を無視する韓国外務省の態度は不遜である。
これには、断固経済制裁を与えて反省の材料とするべきである。

日本外務省は南京事件の日本側の意見を代表せずに謝罪に明け暮れしたのはけしからんと思う。
日本国内の反日勢力と外務省が中国の宣伝を推進してきた。

朝日慰安婦誤報が単に事実の不明と言うよりは捏造で国外に流布して日本を毀損してきた。
32年の長い捏造には魂胆があると睨んでいる。有識者がそこはかとなく、朝日新聞擁護に動くのも
目障りである。朝日新聞が浄化する意志が無いなら、政治の舞台(国会審議)で、朝日新聞の意図を挫くべきである。





【水間条項ー国益最前線ジャーナリスト水間政憲のブログです。】

緊急拡散希望《本多勝一氏が『週刊新潮』に「南京大虐殺」派が使っていた象徴的写真を捏造写真と認めました》
2014年09月18日 10:46
http://mizumajyoukou.blog57.fc2.com/blog-entry-1813.html
●緊急拡散希望《本多勝一氏が『週刊新潮』に「南京大虐殺」派が使っていた象徴的写真を捏造写真と認めました》


■「南京大虐殺」 派の象徴的な人物で国際的にも著名な元朝日新聞のスター記者だった本多勝一氏が、アイリス・チャンの『レイプ・オブ・チャイナ』や反日左翼が「南京大虐 殺」の象徴と使っていた、あの橋の上を中国人老若男女が歩いていた写真を捏造写真と認めたコメントを、今日発売の『週刊新潮』のグラビアページに寄せてい ます。


これは、「南京大虐殺」派の象徴的な人物のコメントとして歴史的な意味があり、「南京大虐殺派」にとっても歴史的な事件なのです。

この『週刊新潮』は、「南京問題論争」の歴史的な資料になりますので、永久保存版として所蔵する価値があります。


これを起点に朝日新聞の「慰安婦検証」から「南京問題検証」へのスタートにするためにも、『週刊新潮』編集部へ、南京問題の写真を継続して取り上げることをお願いしてください。


資 料の価値を一般国民に知らしめることは、同写真の背景を『ひと目でわかる「日中戦争」時代の武士道精神』で写真とともに解説していても1万人の読者諸賢だ けが覚醒していても世論になるには程遠いのが現状です。しかし、『週刊新潮』に取り上げられれば、発行部数から銀行や医院などの待合室に置かれることで数 百万人が見ることになり、その影響力は絶大です。


すでに覚醒されていらっしゃる皆様方が、『週刊新潮』を激励していただけば、朝日新聞「南京問題記事の検証」へ一気呵成に追いつめることも可能になります。

週刊新潮公式サイト
http://www.shinchosha.co.jp/shukanshincho/

週刊新潮に関するお問い合わせ
shuukan@shinchosha.co.jp

この記事に関して、今日(9月18日)チャンネル桜でも検証報道しますので、視聴していただければ幸いです。

http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=9y4JOIYhbfk



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