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いまなぜ憲法改正なのか

いまなぜ憲法改正なのか
2012.09.15  *Edit 
  
日本国憲法誕生から65年、安倍普三・衆議院議員による憲法改正について。
http://desler.blog136.fc2.com/blog-entry-114.html

【寄稿】古い首飾りをはずすときが来た

 
         安倍普三

忘 れもしない、私が大学を卒業した年の1977年9月のことだ。フランスのド・ゴール空港を飛び立ち羽田に向かっていた日本航空機が、乗客を装った日本赤軍 のメンバー5人にハイジャックされ、バングラデシュのダッカ空港に強制着陸させられるという事件が起きた。彼らは、殺人犯2人を含む獄中の仲間9人の釈放 と身代金600万ドル(16億円)を要求し、拒否すれば人質を一人ひとり殺す、と日本政府を脅した。福田赳夫首相は、悩みぬいた末に、「一人の生命は地球 より重い」といって、身代金の支払いと囚人らの釈放に応じた。超法規の措置だった。

 人命を尊重した措置だったにもかかわらず、このとき 日本は、テロリストの要求に屈したばかりかテロリストを野に放ったとして、国際社会の非難を浴びることになってしまったのだ。いま私たちが当時の政権の判 断を批判するのはたやすい。しかし、他に選択肢があっただろうか。日本国憲法の第9条には、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国 際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と明記されている。人質の救出作戦を立案する以前の問題として、わが国では憲法の制約上、武装した 警察や自衛隊を他国に派遣することすらできなかったのだ。

 その約2週間後、今度は西ドイツのルフトハンザ機がPFLP(パレスチナ人民 解放戦線)によってハイジャックされた。彼らの要求も獄中の仲間の釈放だった。しかし、当時のヘルムート・シュミット首相は、日本とは正反対の決断を下し た。警察の特殊部隊(GSG-9)をソマリアへ派遣して救出作戦を敢行、犯人のテロリスト全員を射殺し、人質全員を救出した。このとき世界は、その決断を 賞賛したのである。

 なぜ西ドイツが果敢な対応ができ、日本はできなかったのか。西ドイツも日本と同じ第2次世界大戦の敗戦国である。だ が、西ドイツは1990年の東西ドイツ統一までに35回も憲法(基本法)を改正しているのだ。東西に分断され、ソ連の脅威にさらされるという状況下にあっ たにせよ、56年には再軍備のための改正を、68年には緊急事態条項の追加と、国民の軍隊アレルギーをはねのけて、独立国としての再出発を目指していたの だった。

 日本国憲法の成り立ちをよく体現しているのが、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しよう と決意した」と謳った憲法前文である。訳文だけに日本語として意味がわかりにくいが、要は、諸外国を信用して日本国民の安全と生存を彼らに委ねなさい、と いう意味だ。

 日本国憲法の草案は、占領軍(連合国軍総司令部=GHQ)の最高司令官、マッカーサーの指示の下、25名の若手スタッフに よって、10日間そこそこという短い期間で書き上げられたものだ。とりわけ「戦力の保持」を禁じ、「交戦権」も認めないとする9条は、日本が二度と欧米の 主導する世界秩序に挑戦することのないよう、手足をもいでおくことがその眼目だった。たとえ自国の安全を守るための戦争であっても、けっして手を出しては ならない――前文がこの9条の"枕詞"になっているといわれるゆえんである。

 9条があったおかげで、戦後の日本は、軍事費の支出が抑えられ、復興と経済成長に邁進することができた、という人がいる。だとすれば、戦後、相当の軍事費を費やしながら、世界に冠たる経済発展を成し遂げた西ドイツをどう考えればよいのか。

  1977年9月にはもうひとつ、国家の主権にかかわる大きな事件が起きている。石川県の宇出津(うしつ)海岸で、日本人男性が北朝鮮に拉致されたのだ。日 本政府が拉致と認定したもっとも古い事件である。警察は、拉致の手引きをした在日朝鮮人を一度は逮捕したものの、主犯の工作員の特定ができなかったため、 起訴猶予で釈放してしまった。新潟市で横田めぐみさんが拉致されたのは、この事件の2カ月後のことである。

 どこの国の憲法にも、国家の主権は断固として守るという強い決意が表れているものだ。ひるがえって現憲法はどうか。「諸国民の公正と信義」を信じるほかは何もできないというのが実態だ。この憲法が、13歳の少女の人生を狂わせてしまったといって、けっして過言ではない。

  自民党はこの4月、憲法改正草案をまとめたが、消費税増税や原発再稼働の是非など、はっきりさせなければならない課題が山積するなか、なぜいま憲法改正な のか、という声をよく聞く。しかし、他国によって日本国民の生命が危険にさらされるとき、ミサイルや核の脅威が現実化するとき、領土・領海が侵されようと しているとき、原発事故のような緊急事態が生じたとき、現憲法は、これらのケースに対応する条項をまったく備えていない。世界の多くの憲法のなかで緊急事 態条項のないのは日本国憲法ぐらいなのである。

 GHQによる日本国憲法草案の作成が「真珠の首飾り」というコードネームで呼ばれたのをご存じだろうか。それは民主主義の国アメリカが日本に贈った美しいプレゼントだったという人もいる。

  だが世界の安全保障環境は大きく変わった。国のかたちを具体的に構想すべきときがやって来ているというのに、私たちは占領時代のこの首飾りを取り替えるこ となく、まだ首にかけ続けているのだ。65年もたつ古い首飾りは、もうそろそろはずして、日本人らしい気概とスピリッツを漲らせ、私たちの理想の国のかた ちを描こうではないか。

【基礎知識1】世界で14番目に古い日本国憲法
 日本国憲法は、第2次世界大戦が終わって2年後 (1947年)に施行されて以後、一度も改正されることなく、65年を迎えた。戦後日本では、この憲法を明治憲法(大日本帝国憲法)と区別する意味で、" 新憲法"と呼んできた。だが、憲法学者の西修・駒沢大学名誉教授によれば、現憲法は、成文憲法を持つ世界の国々(178カ国)のなかでも14番目に古く、 それより古い憲法は、どれも改正されている。ということは、日本国憲法は世界でもっとも古い、改正されていない憲法ということになる。現憲法が明治憲法同 様、「不磨の大典」(不磨は不朽の意、旧憲法は1890年の施行以後、一度も改正されなかった)といわれるゆえんである。

 なぜいままで日本国憲法は、改正されないのか。

 現憲法は、明治憲法第73条の改正手続きにしたがって改正されたものだ。ただし、その改正草案は、第2次世界大戦の勝者である連合国、とりわけアメリカの意向が色濃く反映されていた。

  占領軍(連合国軍総司令部=GHQ)の最高司令官・マッカーサー元帥は、敗戦国日本の憲法をつくり変えるにあたって、草案を作成するGHQの若手スタッフ に、(1)天皇に戦争責任を負わせないかわりに、政治的実権を与えないこと、(2)国家の主権的権利としての戦争を永久に放棄させること、(3)封建的な 社会制度を廃止すること、という3つの原則を貫くよう指示した。目的は、欧米が主導する世界秩序に、日本が二度と逆らうことのないよう、国の骨組みと国民 の意識を変えることだった。

 その意図がもっとも明確に表れているのが憲法第9条の「戦争の放棄」である。マッカーサー元帥は、「国権の 発動」としての戦争や「紛争を解決する手段」としての戦争だけでなく、「自衛のための」戦争を、さらには「戦力の保持」と「交戦権」さえ否定した。狙いは まさに、それまでの日本という国家を解体することにあった。

 改正案は、1946年6月に昭和天皇の臨席のもとに枢密院で可決され、第 90回帝国議会(衆議院と貴族院で構成)に上程された。衆議院では、第9条第2項に「前項の目的を達成するため」という文言を挿入し、自衛権の発動に道を 開いた「芦田修正」など、わずかな修正が加えられたものの、8月にほぼ政府の改正案(=GHQ草案)どおりに可決された。さらに10月の貴族院の可決を もって帝国憲法の改正手続きを終了し、11月3日に新憲法として公布された。

【基礎知識2】敗戦後35回も憲法改正した西ドイツ
  1907年に結ばれたハーグ陸戦条約(日本は1911年に批准、翌年12年に「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」として公布)は、第43条で「占領地の法律の 尊重」を掲げている。占領地の権力を掌握した占領者が、自らの意に沿う法律を被占領国に押しつけることを戒める条項だ。この条約にしたがえば、かりに他国 軍の占領下で一時的に憲法が制定されたとしても、主権の回復がなされれば、国民の意思で新しい憲法がつくられるのが当然ということになる。

  日本と同じように敗戦国となったドイツでは、連合軍の占領下に、州ごとに憲法がつくられた。しかし、1949年、英・米・仏軍の占領地域にドイツ連邦共和 国(西ドイツ)臨時政府が樹立されると、西ドイツ政府は各州憲法を破棄し、ドイツ連邦基本法(憲法)を制定した。基本法と名付けたのは、占領下のドイツが 東西に分断されていて(東ドイツにソ連軍が、西ドイツに英・米・仏軍が駐留し、ベルリンも壁で分断されていた)、西ドイツ政府首脳の頭の中に「ドイツが一 つになる前の、まだ暫定的なもの」という思いがあったからだ。

 だが、自由主義陣営に占領された西ドイツは、完全に主権を回復した 1955年以降も、基本法を廃棄して新憲法を制定することをしなかった。かわりに1956年に基本法を改正し、徴兵制を導入、ドイツ連邦軍を編成して本格 的な再軍備をおこなった。社会主義国、ソビエト連邦の傘下にある東ドイツを置き去りにできなかったのと、東西冷戦(米・ソ対立)を背景に、ソ連の軍事的脅 威にさらされていたからである。同じ年、西ドイツは北大西洋条約機構(NATO)に加盟した。1990年、ようやく東西ドイツが統一されるが、その後も新 憲法を制定せず、基本法を順次改正して今日にいたっている。

 ドイツ基本法は、1956年に再軍備を明記して以後、緊急事態条項の追加 (1968年)、予算・財政改革のための改正(1969年)など、西ドイツ時代だけでも35回、東西ドイツの統一のときと、その後を合わせると、改正は今 日までじつに58回に及ぶ。新憲法を制定せずに、改正を積み重ねることで自前の憲法につくりかえたのである。

 そのほかの国では、アメリカ合衆国憲法(1787年制定)が今日までに6回、カナダ(1867年憲法・1982年憲法定)が18回、フランス憲法(第4共和国憲法と第5共和国憲法)が26回、イタリア憲法(1947年制定)は15回の改正を経験している。

【基礎知識3】日本が主権回復と同時に憲法改正をしなかった理由
  1951年、日本は戦後処理を決める講和会議で単独講和を選択し、自由主義陣営に属すことになった。1952年4月にサンフランシスコ講和条約の発効によ り主権を回復。米軍の駐留継続を認める日米安保条約を結んだ。このときが自主憲法制定のチャンスだったが、吉田茂首相は頑としてこれを受けつけなかった。 戦後復興の眼目を経済復興に定めていたからである。

 当時の世界は、米国(自由主義)ソ連(共産主義)の対立を背景に、米ソどちらの陣営 に属すかの色分けができていた。朝鮮半島では韓国と北朝鮮が衝突、米軍と中国・ソ連軍を巻き込んで、朝鮮戦争が勃発した(1950年)。共産主義勢力の進 出を警戒した米国は、このとき終戦直後の日本を弱体化する政策を変更し、反共(反ソ連、反中国)の砦として育成する方針を決めた。日本に講和条約締結をす すめるいっぽう、再軍備を強く要請したのである。しかし、吉田茂首相は、警察力強化のための警察予備隊隊(のち保安隊、自衛隊に発展)の創設こそ認めた が、本格的な再軍備は「やせ馬に重い荷物を負わせるようなもの。日本は国力を養うことが先決」として反対した。

 これが、のちに国防より経済を優先する「軽武装国家」論(吉田ドクトリン)として流布することになったが、じつは再軍備について吉田は、自著『世界と日本』(中公文庫)のなかで、次のように省みた。

「そ れ(再軍備の拒否)は私の内閣在職時代のことだった。その後の事態にかんがみるにつれて、私は日本防衛の現状に対して多くの疑問を抱くようになった。(中 略)経済的にも、技術的にも、はたまた学問的にも、世界の一流に伍するようになった独立国日本が、自己防衛の面において、いつまでも他国依存のまま改まら ないことは、いわば国家として未熟の状態にあるといってよい」

 吉田が危惧したのは、後に続く保守政権が経済成長路線に傾斜するあまり、 独立国としての自立心を喪失してしまうことだった。1955年、自由党と民主党の保守合同により、自由民主党が誕生したが、このとき結党の精神である「党 の使命」に、「自主憲法の制定をはじめとする独立体制の整備」が謳われた。いっぽう、社会主義政党もこれに対抗、左右緒派が統一して日本社会党を結成し、 スローガンに「護憲と再軍備反対」を掲げた。保革二大政党による「55年体制」の成立である。

【基礎知識4】国会で固定化した「2対1」の対立
  この両政党が激突した最初の国政選挙が、1958年、第一次岸信介内閣のもとで実施された第28回衆院選挙である。76.99%という異常に高い投票率の なか、公約に「自主憲法の制定」を掲げた自民党が、定数467のうち287議席(議席率61.5%)を獲得。これに対して、「護憲」の社会党は166議席 (議席率35.5%)。自民党は圧勝したとはいえ、憲法改正発議に必要な3分の2を超える議席獲得にはいたらなかった。日本国憲法は、その草案の段階か ら、容易に改正ができないよう、占領軍に高いハードルを設定されていたのである。

 その2年後(1960年)、国論を二分した日米安保条 約の改定が終わり、経済成長が軌道に乗ると、日本社会は急速に安定志向に向かうようになり、国政選挙では、政権与党の自民党(「総資本」の代表)対社会党 (「総労働」の代表)+野党の議席率は、つねに2対1で推移するようになった。言い換えれば、政権が安定するかわりに、自民党は憲法改正を発議できる国会 議席の3分の2以上を獲得できないまま、「55年体制」が固定してしまったのである。

 さらに日本国憲法の改定を念頭に1956年に発足 した政府の憲法調査会(会長:高柳賢三・東大名誉教授)が、8年に及ぶ長い調査期間を経て、1964年、改憲についての特段の結論を出さないまま最終報告 書を提出すると、政府・自民党の自主憲法制定への情熱も急速に冷め、政権運営の軸足を、社会インフラの整備など高度経済成長路線へと移すようになった。

 もうひとつ、終戦後から高度成長期にかけて、国民のなかに護憲=反戦平和という考え方が浸透していたことも見逃せない。その中心を担ったのが、GHQの民主化政策で奨励され、民間企業だけでなく、教育現場ほか現業公務員に対しても組織された労働組合の力だった。

  日本の雇用者数は、終戦後は1100万~1200万人で推移していたが、経済成長、人口増加とともに増大した。1957年には2000万人を超え、 1966年には3000万人を突破した(その後も増加して1978年に4000万人、1986年に5000万人を超え、1997年から5400万人台で横 ばいに)。このうち労働組合の組合員数は、1947年に569万人だったのが、1954年には609万人、1961年836万人、1965年1015万人 と右肩上がりで上昇し、1973年には1200万人台を突破した(その後は横ばいから減少に転じ、現在は1000万人を割り込む寸前といわれる)。

  これらの労働組合を糾合して労働運動のナショナルセンターとなったのが総評(日本労働組合総評議会)だ。総評は、1950年に365万の労働者が加盟して 発足。春の賃上げ時期には、全労働者の代表として経団連や日経連などの経営者団体と中央交渉をおこない、総資本対総労働の闘いを演出した。政治的には、日 本社会党支持を運動方針に明記し、反戦平和の活動に力を入れた。賃上げ交渉の場では「昔陸軍、いま総評」と恐れられ、政治の場では「憲法改正反対、第9条 を守れ」を主張する有力な勢力となった。

【基礎知識5】立憲主義を金科玉条とする憲法観
 さらに、憲法改正の大きな壁となったも のに、アカデミズムやジャーナリズムにおける進歩主義勢力の存在があげられる。この頃、リベラル思想や社会主義的な思想が、学生や市民の間に広い支持を得 ていた。憲法学では、東大教授の宮沢俊義氏が「8月革命説」(日本は1945年8月にポツダム宣言を受諾した段階で、主権は天皇から国民に移った。日本国 憲法は、国民の代表による議会で審議され可決されたのだから、GHQの押しつけではなく、国民自ら選びとった、とする説)を唱えたのをきっかけに、戦前の 国家、軍隊に対するアレルギーと戦争に対する深刻な反省とあいまって、アカデミズムのメインストリームを形成していった。

 彼らの憲法解 釈に共通しているのは、憲法の根幹は立憲主義、つまり憲法は公権力を規制する道具であるとする憲法観だ。この憲法観は、「人権は天与の自然権」とする「社 会契約説」に通じ、いまも憲法学の主流といってよい。比較憲法学者の樋口陽一・東大名誉教授は、今年の憲法記念日に当たって、自民党ほか保守政党(民主党 を除く)が提案した憲法改正案を批判して、次のように述べている。

「近代国家における憲法とは、国民が権力の側を縛るものです。権力の側 が国民に行動や価値観を指示するものではありません。数年前に与野党の政治家たちが盛んに言っていた、憲法で国民に行動や価値観を指示するものではありま せん。憲法で国民に生き方を教えるとか、憲法にもっと国民の義務を書き込むべきだ、などというのはお門違いです」(朝日新聞5月3日付)

  他方、最近では、ごく一部だがドイツ国法学の「国家法人説」や「国家有機体説」に立つ学者の間で、憲法はコンスティテューション(政治的統一体としての国 家の構造や組織)の訳語であって、その国の国柄に沿った統治の基本レールと解釈すべき、と主張する人たちも出てきた。その根底には、近代西欧で生まれた 「普遍的な人権」と「社会契約による国家の成立」というジャン・ジャック・ルソーの思想と、それに基づく設計主義的な憲法観に対する疑念がある。

【基礎知識6】高すぎる憲法改正のハードル
  1991年、ソビエト社会主義が崩壊し、東西冷戦が終結する(日本ではまだバブルの絶頂だった)と、日本社会も、いわゆる左右(進歩主義対保守主義、ある いは社会民主主義対自由民主主義)の分水嶺が取り払われ、アメリカ型の自由主義が横溢するかに見えたが、そうはならなかった。バブル経済が崩壊すると、価 値観がいっきに多様化していき、イデオロギーによる峻別は通用しなくなっていた。とりわけ保守派に混乱を生み出したのが、アメリカ型市場原理=グローバル スタンダードだった。市場主義は、かつての日本型の成長システムを根底から壊すものだった。

 これにともなって親米保守、反米保守、民族 保守と、保守の側に亀裂ができ、憲法改正の考え方も、日米同盟を深化させるための憲法改正、対米従属から脱却するための自主憲法制定と、それぞれ軸足の置 き方に違いが生じることになった。しかしグローバリズムの到来が、日本に対して国際社会の一員としての自立を迫っていたことは間違いなく、この頃には、憲 法改正はすでにタブーではなくなっていた。

 世論調査でも、憲法改正を是とする声が、反対を上回るようになった。ちなみに、読売新聞が1980年代から実施している「憲法」世論調査では、1993年の調査から憲法改正派が過半数を超えるようになった(2008年だけは例外的に反対派が僅差で上回った)。

  各新聞社や学者、民間団体から独自の憲法改正試案があいついで発表され、2000年には衆参両院に憲法調査会が設置された。学識経験者を参考人として招 き、現行憲法の制定の経緯や各条文の問題点の洗い出し、世界の憲法についての研究・視察がおこなわれ、半世紀を経た憲法が時代にそぐわなくなった側面が明 らかにされた。

【基礎知識7】安全保障環境の激変が変えた憲法観
 憲法第9条をめぐっても、湾岸戦争をきっかけに国連平和協力法 (PKO法)が成立(1992年)、1990年代なかばには日米安保再定義により日米同盟の深化が議論されるようになるなど、長い間、政府解釈で封印され てきた集団的自衛権の行使についても見直しすべきだという声が高まってきた。その背景には、冷戦時代に押さえ込まれていた部族・民族対立が噴出し、地域紛 争が多発したという安全保障環境の変化がある。

 国内だけが活動の舞台だった自衛隊も、PKO法の成立以来、アンゴラ、カンボジア、モザ ンビーク、コソボなど世界各地の国連平和維持活動に参加するようになった。こうしたなか、世界各国の安全保障観を変えた事件が起きた。2001年9月11 日のアメリカの中枢都市を襲った反米イスラム勢力による同時多発テロである。

 アメリカはその元凶が、イスラム原理主義を信奉するアルカ イダ勢力と、これを支援するイラクにあるとして、翌10月、国連安保理の決議を待たずに、まずアフガン攻撃を開始。2003年3月にはイギリスやオースト ラリアなど有志連合を募り、イラク戦争に踏み切った。世界の国土防衛における仮想敵は、敵対国からテロ集団に移ったのである。

 2001 年のアフガン作戦の実行にあたっては、自衛隊がテロ特措法に基づいてインド洋で各国戦艦への給油作業を展開。自衛隊の海外派遣部隊は、派遣地ではジャパ ニーズ・アーミーとして、れっきとした軍隊の扱いを受けることになった。自衛隊は憲法第9条が禁じた戦力であり、もはや"解釈改憲"では整合のとれない違 憲状態が明らかになった。

 こうした内外の変化を背景に、2007年、安倍晋三内閣が成立させたのが、「日本国憲法の改正手続きに関する法律」(国民投票法)である。

  憲法第96条では、憲法改正の発議には「衆・参各議院の総議員の3分の2以上」が賛成しなければならないとしている。ということは、国会議員の3分の1が 反対ないし棄権すれば、発議すらできないことになる。憲法改正に高い壁が存在するといわれるのはこのためだ。言い換えれば、国民が改正を望んでも、国会が その道を閉ざしているというわけだ。

 安倍内閣が国民投票法案を提出したのは、まずは国民の間に憲法のあり方について広く議論を喚起する という狙いがあった。憲法第96条には、国会で発議された改正案を国民が承認するには「投票において過半数の賛成が必要」と規定されているが、投票総数の 過半数なのか、有効投票の過半数なのかといった細則までは明記されていない。国民投票法はその細則を定めたもので、国民投票に参加できる年齢を18歳以上 とした。同法の施行までに3年間の凍結・準備期間を設定したのは、成人を20歳以上としている民法や公職選挙法の変更を待つためだった。

  今年4月28日、自民党は憲法改正草案を発表、「憲法改正の発議」について衆参各議院の総議員の「3分の2以上」を「過半数」とした。改正のハードルを低 く設定したのである。さらに、天皇を国家元首として明記、国旗は日章旗、国歌は「君が代」、国防軍の保持、集団的自衛権の行使、緊急事態条項を追加するな ど、改正案は、これまでの憲法論議を踏まえたものとなった。しかし安全保障については異論が続出した。

 森英樹・名古屋大学教授は、緊急事態の章を新設したことにとくに注目し、次のように述べている。

「『大 規模自然災害』などのときは、政府に権限を集中させ、基本的人権を停止し、法律を制定しなくても政令で国民を国の指示に従わせたりする規定が盛り込まれて いる。震災があり、不安定な朝鮮半島情勢や中国との尖閣諸島問題など東アジアの『軍事的緊張』も高められてきた。これらを『緊急事態』で一括しても、国民 の支持を得られると考えたに違いない。その陰で、この草案は自衛隊を『国防軍』に変え、非常権限を政府に集中させる方向を打ち出した。自民以外の改憲主張 も同じだ。震災を奇貨とした『震災便乗型』『惨事便乗型』とでもいうべき新手の改憲論だ」(東京新聞5月3日付)

 一時的に国家権力が強大になることについて、立憲主義の立場からの批判である。

  反対に、西修・駒沢大学名誉教授は、自民党の改憲草案発表に先立って、「私が1990年初頭から2011年末までに新しく制定された98カ国の憲法を調べ たところ、緊急事態対処規定を設けていない憲法は皆無であった。(中略)一時的に権力を執行府に集中させ、人権を必要最小限、制約して、憲法秩序の維持を 優先させることは、立憲主義の原則にてらしても何ら矛盾しない」(産経新聞3月5日付)と、「緊急事態条項」の創設を擁護した。

 いっぽう肝心の政権与党の民主党では、憲法調査会で議論しているものの、まだ党内をまとめ切れていない。国会では、国民投票法成立後に設けられた衆参両院の憲法審査会が、やっと動き始めたばかり。憲法改正までの道のりは遠い。

   msn『日本の論点』ウェブ議論より
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