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(若狭和朋氏)「誇りある日本こそ冷徹な史観を」

ブログ人 東アジア歴史文化研究会
http://e-asia.blog.ocn.ne.jp/blog/2011/12/post_c002.html
2011/12/01
第四回「真の近現代史観」懸賞論文入選 (若狭和朋氏)「誇りある日本こそ冷徹な史観を」①
東アジア歴史文化研究会で過去五回講演をしてくださった若狭和朋氏の論文が、アパグループの第4回「真の近現代史観」懸賞論文に入選(佳作) されました。タイトル「誇りある日本こそ冷徹な史観を」をご紹介いたします。第83回の東アジア歴史文化研究会で、日本に蔓延しているフランクフルト・マ ルキシズム(学派)について、その思想と系譜について講演していただきましたが、まさに以下の内容に近いものでしたので、お読みいただきたいと思います。
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「誇りある日本こそ冷徹な史観を」①
若狭和朋(前九州大学大学院客員教授・教育学博士)

(1)日本史をいくら蒸留しても大東亜戦争は析出しない。
世界史のうねりのなかに、日本の戦争がある。これが近現代史認識の前提である。私は大学法学部政治学科を卒業した。ご他聞にもれず、私の母校もピン クだった。政治学原論を担当する先生は左派社会党の論客として知られていた。経済学部には社会主義協会の大御所として高名な教授がお元気だった。少し私事 をお許しいただきたい。
私の卒業論文は『前衛党論における組織と理論の問題』というタイトルだった。要するにレーニン批判とフランクフルト・マルキシズム批判だった。ル カーチの主著『歴史と階級意識』をとりあげ、プロレタリアートは意識が疎外されているから、ブルジョワ社会に構造化されているという「構造化論」批判が前 半。ヨーロッパ革命の大敗ののち、マルキストはフランクフルト大学を拠点にしていたが、ナチスに追われてアメリカに逃れ、ニューディーラーと変態し、ルー ズベルト政権や日本の要路に潜伏し、GHQに潜入し、戦前戦後の日本を破壊したというのが後半。彼らの例がゾルゲや尾崎秀実たちである、と書いた。ゾルゲ は『フランクフルター・アルゲマイネ・ツアイトヌング』の特派員としてアメリカ経由で日本に入国した。そしてドイツ大使館出入り自由の身と造化していた。 尾崎秀実は『朝日新聞』に入社し、近衛文麿首相の顧問官として首相官邸に一室を構え、満鉄の調査部にも出入りしていた。『朝日新聞』社員の身分を利用して 上海でアグネス・スメドレーらコミンテルンの同志たちと工作活動に従った。昭和39年頃の「構造改革」論争はフランクフルト派のグラムシたちの構造論の理 解に失敗している不毛な議論だとも書いた。これらを言うと指導教官は激しく議論した。
卒業して私は通産省のドイツ研修生としてフランクフルトに駐在した。妻が23歳の短い生涯を東京で輪禍により閉じた。急ぎ帰国した私は、気がついた ら禅宗の修行僧(雲水)になっていた。そして、地元の市長の好意で高校の教師になった。定年になるまで高校生に歴史を講義し野球部の指導に熱中した。私に とってマルキシズムは生涯の敵(笑い)であり、イデオロギーとは虚偽意識なのに、日本人は虚偽意識の縛りからまだ覚めていない。イデオロギーの生存様式は 欺瞞と謀略である。共産主義は人間性を破壊し国民を不幸にする。戦後日本の解体を進め、アメリカにマッカーシズムの赤狩りが進むと、彼らは西ドイツなどに 戻った。テオドア・アドルノやマックス・ホルムハイマーたちはフランクフルト大学にまた戻った。マルクーゼはアメリカに残った。これらの経緯を振り返って みよう。
1933年(昭和8年)にルーズベルトが大統領に選出された。ドイツではヒトラーが政権に就く。ルーズベルトが手始めに着手したのがソ連との国交回 復だ。以前は無神論の国とソ連を決めつけていたカンタベリー大主教をして、マルキシズムの理想はキリスト教徒の理想と共通するところがあると放送させ、ス ターリンやソ連国民のための祝福を放送させたりした。ソ連では宗教が復活し、アメリカ共産党はコミンテルンから離脱したと擬態した(昭和12年)。民主主 義と共産主義はその理想においては同じなのだと宣伝された。
1936年(昭和11年)は日本にとって忌まわしい年である。コミンテルン第7回大会が人民戦線戦術を決定し、世界から共産党員の姿が消えた。「民 主主義組織」に潜伏したからである。「反ファシズム統一戦線(フロント)」の結成と称した。日本に向けては、同盟通信や日本電報通信を通じて連日、そのよ うな反ファシズムの民主主義運動の高まりが配信された。当時の日本のインテリたちは鼓舞された。自分の共産主義思想は背後に隠し、しかし世界は共産主義の 勝利に向かって進んでいるという確信を強めたのである。まさに「夜明けは近い」と信じられた。ソ連には革命宣伝を控えさせ、米英両国は北海経由でムルマン スクに膨大な軍事援助物資を揚陸させた。それがソ連の戦争準備を支えた。独ソ戦が始まると、ムルマンスクがインド洋に代わった。このインド洋・アラビア 海・スエズから揚陸されるアメリカの膨大な援助が英国・ソ連の継戦能力を支えた。ヒトラーは日本のインド洋制圧を望み、そして満州からの進撃を期待した。 日本はなぜシベリア進攻(北進)をしなかったのか。次は背景の一端である。
1928年(昭和3年)の3・15事件で逮捕され、転向を宣言して満鉄に入った佐藤大四郎という人物がいた。満鉄傘下の農事合作社に移り、満洲の共 産党に加わり、コミンテルンとの連絡に当たっていた。1941年(昭和16年)独ソ戦が始まった。コミンテルンは影響下の日本人に「日本の北進がないよう に、あらゆる工作をすべし」と指令した。7月7日、関東軍特別大演習(関特演)が、80万人の大軍を動員して開始された。多くの日本人が北進を信じてい た。満鉄調査部から農事合作社主事の佐藤大四郎に指示があった。シベリアの農作物、畜産物の状況を現在および過去、将来の見込みについて報告せよ、との指 示である。ちなみに、この当時の満鉄調査部にはゾルゲの同志尾崎秀実がいた。佐藤は尾崎秀実が日本軍の北進阻止の情報を欲しているのだと理解し、「シベリ アの農業事情は昔から最悪で、日本軍の食料はシベリアでの調達は絶対的に不可能である」との報告書を提出した。スターリンが最も恐れていたのは日本のシベ リア進攻であった。2年前のノモンハンの惨敗はスターリンの脳裏に刻み込まれていた。昭和16年8月から9月頃の戦況は、スターリンにはまさに最悪であっ た。ドイツは日本のシベリア進撃を催促した。関東軍も参謀本部からの進撃命令に備えていた。
関特演のさなかに開かれた御前会議において、東條英機陸軍大臣は、糧(かて)を敵地に求めるという陸軍伝統の作戦遂行はシベリアにおいては不可能で あると主張した。その根拠が満鉄調査部の「報告書」であった。この「満洲農事合作社事件」は軍首脳の沽券に関わるというので、単なる治安維持法違反として 処理された。もし謀略が追及されたならば、最高刑が死刑まである国防保安法違反事件として処理され、謀略に対する措置が厳しくなったはずである。それを治 安維持法事件として、奉天拘置所送りとして処置した。
昭和16年7月2日の御前会議は、こうしてシベリア進攻をやめ、南進に方向転換したのである。そして、9月6日の御前会議においては、「対米英蘭戦 を覚悟のもとに10月上旬をめどに戦争準備を完遂す」と決定した。昭和陛下が「四方の海 みな同胞とおもう世に など波風の立ち騒ぐらむ」という明治天皇 の御製を二度にわたって朗唱されたのは、このときの場面である。
ゾルゲの日本における任務は成功した。任務完了とモスクワに連絡し、帰国の準備に入った。しかし、10月15日、ゾルゲと尾崎秀実は逮捕された。これも治安維持法違反事件としてである。「満洲農事合作社事件」を尾崎秀実たちの謀略の一端として述べた。
先に私は昭和11年を忌まわしい年であると書いた。2・26事件などの国内の事件を言うのではない。コミンテルンの「人民戦線(フロント)戦術」と 並んで、ソ連の東部国境戦略が決定した。つまり、対日戦略である。日本と支那を全面的に咬み合わせ、そうすることによって、ソ連の安全を確保し日支を破滅 させるという謀略である。共産主義者が触れられることを嫌う言葉に、「砕氷船のテーゼ」というのがある。堅い氷は砕氷船に砕かせて、大洋に出れば砕氷船は 撃沈すればよい、という「テーゼ」である。
②につづく

2011/12/02
第四回「真の近現代史観」懸賞論文入選 (若狭和朋氏)「誇りある日本こそ冷徹な史観を」②
「誇りある日本こそ冷徹な史観を」②
(2)西安事件の意味・・砕氷船としての蒋介石
昭和11年12月12日、蒋介石が対共産党掃討戦を督戦に西安を訪れ、部下の張学良に逮捕、監禁されるという事件が発生した。毛沢東は処刑しようとした。しかし、スターリンはそれを許さなかった。監督にボロージンを急派し周恩来とともに西安に飛来させた。
日本の昭和史家たちは蘆溝橋事件を支那事変の発端とする人たちが多い。反論を簡潔に述べたい。逮捕された蒋介石は、日本との全面戦争を約束させられ たのである。七夕の盧溝橋事件は小競り合いに終わった。月末の通州事件の日本人虐殺(二百余人)の情景は人間のやることではないと、救援に駆けつけた日本 兵たちは号泣し、捕虜だけにはなるまいと決意した。そして、蒋介石は8月に日本人(男女、子供ら民間人十万余)皆殺しを企図した全面攻撃に出た(第二次上 海事変)。守る日本軍は海軍陸戦隊5千余の水兵しかいない。陸戦隊の勇戦ぶりは「しゃんりく」の愛称(?)とともに日本人を鼓舞したが、蒋介石は主力軍十 個師団余を投入してきたのである。救援に駆けつけてきた第三師団(名古屋)は壊滅的打撃を受けた。続いた二個師団も窮地に陥った。日本軍は別の支那軍を 知ったのである。支那軍を錬成、指導していたのはドイツ将校団であった。
ワイマール・ドイツは兵力の上限を10万とされ、空軍、機甲部隊の保持は禁止された。ドイツ国防軍はソ連とのラッパロ密約で、空軍と機甲部隊の再建 を進めていたのである。ソ連軍の再建、錬成もドイツが指導した。レンテン・インフレという超インフレの経済破綻に陥ったドイツはハプロ密約を蒋介石と結 ぶ。バーター貿易だ。ドイツが欲しいのはチタン(機甲弾の弾頭には必須)などのレアメタルと大豆などだ。蒋介石が欲しいのは軍事技術と兵器、工作機械など だ。だから、ドイツ将校団が蒋介石軍を錬成していたわけである。第一次大戦の経験を活用した。クリーク、鉄条網、トーチカに日本兵は苦しみ、そして 「シャーシャー」というチェコダック社製の機関銃の発射音は日本兵には恐怖の的だったという。十個師団の柳川兵団の背後上陸により蒋介石の主力は潰乱し て、そして首都南京も陥落した。陸軍参謀本部は寛大な和平を主張した。次長の多田駿は声涙ともに下って和平の必要を説いた。卓を叩いて多田を怒鳴りつけた のは海軍大臣米内光政である。戦時にあって閣内不一致は内閣を崩壊させるというのが米内光政の論理であった。多田は沈黙させられ、結果として南進が採用さ れ北進は放棄された。加えて「蒋介石政権を相手とせず」と近衛文麿首相は世紀の愚行声明を発した。スターリンの高笑いが今でも聞こえるようだ。西安事件は 張作霖謀殺(昭和3年6月)を起点にしている。この事件は関東軍の謀略によるとされてきたが、今日ではソ連の手による謀殺であることが明らかになってき た。(注1)
私自身も秦郁彦氏が謀殺は日本陸軍の手によるものであるのは「確定した史実である」との田母神批判を逆批判したことがあった。昭和14年にはアメリカはすでにハリスの締結した日米通商条約を破棄していた。そして、日本はコミンテルン製のハル・ノートに接するのである。

2011/12/03
第四回「真の近現代史観」懸賞論文入選 (若狭和朋氏)「誇りある日本こそ冷徹な史観を」③
「誇りある日本こそ冷徹な史観を」③
(3)冷徹な史観を
大正7年、東大に「新人会」が結成された。この「新人」というのは「国もなく祖もなく歴史の呪いもない者」・・・つまりコスモポリタンを信条、心情 とする者ということである。大学、高等学校などに「社会科学研究会」が組織され、13年には全国組織「学生社会科学連合会」(学連)が結成された。15年 には「京大事件」あるいは「学連事件」として有名な最初の治安維持法違反事件は37名の逮捕者を出した。その3年後には3・15事件大検挙事件となり、起 訴された者836人におよび社会に衝撃を与えた。これは日本にとって一大事であったのである。治安維持法の取り締まりの対象は「行動・運動」であって、思 想ではなかった。思想には思想をもって対処する「思想」は日本には生まれなかった。だから、思想犯は普通の犯罪者とは違うという錯倒した観念すら生まれ た。「特別高等警察」は錯倒の産物なのだ。これは日本の国家的敗北の原点を象徴している。「実相論出でて国滅ぶ」という言葉は、仏教の実相論は人間をコス モポリタンにしてしまう警告だが、これが仏教の盲目的受容のもつ亡国の根源である、という日本の伝統は忘却された。コミンテルンのフロント戦術の目的は国 家の簒奪にある。手段の第一歩が日本人の解体(コスモポリタン化)であり、謀略による国家簒奪である。億余の国民を殺したスターリンや毛沢東は、泥棒より 高等なのだろうか。私は「国家的敗北の原点」を言いたくて、やや縷説した。
敗戦の場は戦場というのは、同義反復である。日本には勝利への戦策はなかったのかと問われるならば、私は「在り得た」と答えるのが正しいと思う。昭 和16年11月15日に策定された「対米英蘭蒋戦争終末促進ニ関スル腹案」(以下、腹案)のように戦理を踏んだ戦いを日本が展開していたならば、英国と蒋 介石は脱落していた蓋然性が極めて高いと私は信じる。腹案にはハワイ攻撃などは影も形も存在しない。インド洋の制圧がエッセンスである(注述3)。インド 洋制圧とインド独立による蒋介石を脱落させ、百万の大兵の自由を回復し、戦略持久の体制に入る、というのが腹案の骨子である。インド洋経由で対英ソへのア メリカの膨大な援助物資はスエズ、ペルシャ湾へと揚陸されていた。英ソの生命線はまさにインド洋にあったのである。東條英機首相、陸軍大臣はハワイ攻撃を 知らない。ただ仄聞して、激怒し、開戦前夜には首相公邸で号泣している。ミッドウェイの敗北も彼は知らない。だから、サイパンの防衛拠点化は当然遅れた。
1996年、中国が台湾海峡に数発のミサイルを発射した。このときアメリカは日本核保有の絶好のタイミングと考え、スタンフォード大学フーバー研究 所上席研究員の片岡鉄哉氏を大統領の特使として派遣し、日本政府の要路を説得した。しかし、風は馬牛を過ぎた。日本人は考えるべきだ。日米の二雙の船が進 んでいる。米船にミサイルが飛来した。このとき日本はこれは日本への攻撃ではないので迎撃しないのである。アメリカはこうした日本の憲法解釈を歓迎してい るのだ。なぜなら日本の立場にはなんのモラルもないから、アメリカは常に日本を切る優位あるモラルに立つフリーハンドを有している。中国の哄笑が響いてい る。そして、日本はサッチャー元首相の言葉を忘れているのだ。「日本は核をもたなかったから、原爆を落とされた」という言葉である。軍事的敗北の前には、 思想的敗北が常に先行している。東條英機を首班に推薦したのは木戸幸一内府である。木戸の実弟は和田小六だが、和田の長女が都留重人の妻である。都留重人 とE.H.ノーマンはコミンテルンの同志であることに触れる史家は少ない。マッカーサーと厚木に降り立ったのがノーマンであり、彼がまっ先に探し出したの が都留重人である。木戸、都留は空襲をまぬがれた和田の家に同居していた。戦犯名簿は誰が書いたのか。ノーマンは日本問題の専門家とされていたが、彼は日 本語を書くのは得意ではなかったようだ。戦犯名簿は具体的な日本の政治過程に通じた者でなければ書くことは不可能である。これらに触れる昭和史家も少な い。そして、明治36年12月21日を日本人は研究すべきである。この日に陸軍参謀本部と海軍軍令部は対等となった。二ヶ月後には日露は開戦するのだが、 元老たちの生存という偶然により、「統一司令部」は辛うじて機能した。以後、偶然は消え、日本の慟哭が残った。処刑寸前に東條が教誨師の花山信勝氏に残し た遺言がある。5ヶ条あるのだが、最後の一項を引いておこう(注2)。
「最後に軍事問題について一言する。我が国従来の統帥権独立の思想は間違っていた。あれでは陸海軍一本の行動はとれない。」(現代表記)
注1『謎解き「張作霖爆殺事件」』加藤康男著 PHP新書
  『誰も言えない国家論』元谷外志雄著 産経新聞出版
注2『平和の発見-巣鴨の生と死の記録』花山信勝著 百華園
注述3『勝利の記録 マーシャル元帥報告書』(マンニチ社出版部21年8月15日発行)
言うまでもなくマーシャル元帥というのはアメリカの参謀総長である。彼はインド洋から日本艦隊を引き揚させるための戦略陽動の成功を誇らしげに書いてい る。ガダルカナル島戦とソロモン海戦である。陽動され日本艦隊はインド洋から姿を消した。米英ソの安堵が行間に溢れている。なおこの本は三ヶ月後には慌た だしく回収され、『欧亜作戦の戦闘報告』として全国改訳されている。理由は前者には日本の悪虐の例に奉天、上海、真珠湾、バターンがあるが、「南京」がな いからである。後書には南京がトップに出現した。溝口郁夫著『絵の具と戦争』(国書刊行会)に詳しい。
おわり
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