【安藤慶太が斬る】


【安藤慶太が斬る】
(上)平和を守るためにこそ新憲法が不可欠だ
2013.1.5 12:00 (1/4ページ)[安藤慶太が斬る] 産経新聞
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130105/plc13010512010010-n1.htm
 みなさんあけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。
 安倍政権が発足していよいよ今年は憲法が大き く注目される一年となるだろう。まずは今年行われる参院選で改憲勢力が勝利を収められるか否か。ここが焦点となる。昨年の衆院選のよりもどしのようなこと もあるかもしれない。結果によっては立ち往生することもあるかもしれない。
 何より大切なことは一人でも多くの国民が日本を取り巻く深刻な危機に目を向けて憲法の欠陥を直視することだ。多くのメディアは改憲を危険な動きだと決めつけて、様々なキャンペーンを張り、いろいろな落とし穴を用意してくるに違いない。その予兆はすでに始まっている。
 しかし、どうか注意深く見てほしい。彼らは声高に「危険だ」「危険だ」と騒ぐ。しかし、憲法改正にどういう意義があって、この危機を回避するために憲法改正が如何なる意味があるのかといった建設的な視点を読者に提示することは決してしないのである。
 「戦争できる国にしたいのがタカ派である安倍政権の狙いです」などと勝手に仕立て上げられたシナリオを持ち出して、それを真顔で騒ぐメディアもある。
 逆である。平和のために新憲法が必要なのだ。私たちが外敵に脅かされずに安心して暮らしていけるために国防軍が必要なのである。
 改憲と聞いただけで反射的に「戦争」と結びつける人は多い。国防軍といっただけで、それを問題にする輩が出てきて、それがまた騒ぎのネタになっていくというおきまりの構図だ。
 読者のなかにも、こうしたメディアによって繰り返されてきた光景を苦々しく、飽き飽きしながら眺めている人も多いはずだ。
メディアのお粗末
 一例を挙げよう。選挙前に行われた日本記者クラブの党首討論での出来事だ。尖閣諸島を購入しようとした石原慎太郎氏にこう質問した記者がいたのだ。
  「尖閣問題が起きたときにフィナンシャルタイムズが石原さんのことを『火付け知事』だと書いた。石原さんが一連の事態の発端を作ったことは間違いがない。 無論、石原さんにも意図はあったのだろうと思いますが、これだけの混乱と経済的な損害、いろんな事態が起きたことについてどうお考えか。その後の野田政権 が悪いのか。それとも中国が全て悪いのか。石原さんには責任の一端があるとお考えなのか、それとも全く責任はないとお考えなのか。その点、みんなが聞きた いと思っているので、うかがいます」
 質問自体に違和感を覚えた人もいただろう。そもそも尖閣は中国側が仕掛けてきている話ではないか。責 任って何の責任なのか。その後起こった反日デモや暴徒化した中国人の数々の破壊行為の責任が石原氏になぜあるのか?「愛国無罪」などといった見て見ぬふり をしている中国に非があることをなぜこの記者は不問にするのだろうか。
 メディアや民主党のいう「中国を刺激したから悪い」という言論は結 局は何もしないというに等しい。なぜ、このことを直視しないのだろうか。何をすれば良かったのか。話し合いだろうか?。話しあっても解決してこなかったで はないか。完全に嘗められてしまっているではないか。
 具体的にどうすれば尖閣を守れるのか。そのためには日本に下手なことができないと一目置かれる以外ない。迂闊に手を出せば、痛い目にあうと相手国に脅威を覚えてもらう以外にないのである。
そうした簡単なことを直視せずに、石原氏の責任追及など筋違いも甚だしい話だ。石原氏が答えようとすると「尖閣ではなく、むしろ実効していない竹島と北方領土になんでやらなかったのか」とたたみかけた記者もいた。
 石原氏は気色ばんでこう言った。「私はやるべきことをやった。私は責任を取ったし、責任があるというなら責任は取る。でも責任を取るってどういう責任か。
 これは国がやるべきことだ。あなたがたがいうべきことだ。責任を取っていないのはそっちではないのか。メディアにだって責任がある。しっかりしてくれよ!」。
 全く同感である。日本記者クラブを代表する面々による選りすぐりの質問がこの程度で、「もっとましなことを聞けよ」「どこの国の新聞なのか」と思った人も多いはずだ。
 メディアの方こそ国民から取り残され、あるいは見放されてしまうのではないか。そういうことが心配になる光景だった。
創造力の欠如
 元旦付け産経新聞に田久保忠衛杏林大学名誉教授と市田ひろみさんの対談が掲載されている。今年は産経新聞が創刊80周年を迎えるのを機に企画された対談である。
  対談を通じて印象的だったのは敗戦直後、一面焼け野原となった東京の変貌ぶりに田久保氏がショックを受けたときの話だ。闇市が開かれていた船橋では、日本 人に傍若無人に振る舞う在日の外国人を目の当たりにして「戦争に負けることってこういう惨めなことなのか」と子供心に悔しさを覚えたという話だった。
 「国破れて山河在り」という。しかし、戦争に負けることをそういう抽象的な言葉でかたづけるべきではない、と市田さんは警鐘を鳴らしておられた。
 とにかく全てを失って路頭に迷い、蹂躙されても甘受する以外になく、悔しさやみじめさを徹底的に味わいながらも、まずこれから食べていくことから困ってしまう、という深刻かつ具体的な話だ。
  この対談は戦後の平和教育にどっぷり浸かった世代の創造力の欠如を指摘してくれているように思えてならない。平和憲法のもとで平和を念じていれば、平和が 得られる。相手と話しあえば必ず解決が得られるといった信仰は社会の至ることに横たわっている。先ほど述べた記者クラブの質問もその典型かもしれない。
 しかし、この平和憲法では平和は得られない。戦争なり紛争というのはこちらに何の落ち度がなくったって、相手国から一方的に仕掛けられたり、巻き込まれることがあるからだ。相手からもたらされ得るということを忘れてはならないのだ。
  この憲法では平和を愛する周辺国の信義と公正を信じることでわが国の安全を守ると宣言してしまっている。いろいろこの憲法に問題点はあるが、この一点に根 本的欠陥が凝縮されている。この憲法は空想を描いているのであって、現実の国際社会に立脚してわが国が生きていくうえでの羅針盤とはいえないのである。
 私たちの穏やかな暮らしを守って、平和を守るためには新憲法、憲法改正は必要なのである。日本国憲法では私たちの平和な暮らしは守れない。護憲勢力の言辞は亡国に手を貸すものにほかならない。
(安藤慶太 社会部編集委員)


【一筆多論】
安藤慶太 尖閣に見る「憲法の欠陥」
2012.10.8 08:33 (1/2ページ)[一筆多論] 産経新聞
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/121008/plc12100808340006-n1.htm
 日本の領土をめぐるさまざまな出来事は一体、何を物語っているのだろうか。警備を万全にすることは急務だし、毅然(きぜん)とした外交も重要である。主権や国家への国民意識という意味でも数々の課題や宿題が一気に浮き彫りになった気がする。
 そしてそのいずれもが、もとをたどれば、現行憲法が抱える多くの矛盾や虚構と無縁ではない。根本的な問題は結局、ここにある。ところが、国民もこと憲法の欠陥を正すとなると及び腰で、政治家も正面からここを正す動きを躊躇(ちゅうちょ)しがちだ。
  尖閣諸島周辺のわが国の領海には連日、台湾や中国から次々と漁船・公船が押し寄せてくる。船舶の数は増え続け、侵犯は常態化しつつある。しばらくこうした 動きは収まらないだろう。海上保安庁がそのたびに駆り出されてはいるが、やることといえば、退去警告を粘り強く出し続け、お引き取りを願うこと。原則これ に尽きている。自衛隊の出番が論じられる機会は限りなくゼロに近いといってよい。
 憲法前文は「日本国民は…平和を愛する諸国民の公正と信 義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」となっているが、どう見ても今は「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼」できる状態ではな い。周囲には周辺国の悪意と脅威が満ちているのだ。日本の退去の求めに「邪魔するな」と返してきた公船もあったそうだ。こうした相手を信頼し「われらの安 全と生存を保持」することなど虚構にほかならない。
国の羅針盤である憲法のエッセンスともいうべきものが前文である。前文がこのありさまならば、国の至るところに狂いが生じるのは避けられない。現行 憲法は世界に先駆けた普遍的かつ誇るべきもので、いつまでも守っていかなければならない-といった学校教育が何十年も続けば、眼前の危機を国民が適切に認 識できなくなるのも無理からぬ話だ。
 憲法9条第1項には「武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」とあ る。わが国が領土的野心を抱いての武力行使を禁じる話ならまだわかる。だが、こちらに何の落ち度がなくても、一方的に紛争に巻き込まれる場合だって現実に は起こりうる。尖閣の例を見れば明らかだが、一口に紛争といってもいろいろあるのだ。
 盛んに「冷静な対応が大切」と強調する論調もある。 だが、対岸の国こそ冷静さに欠けており、その無軌道ぶりをどうするかにはあまり目が向かない。財界などからは「政府はなぜこのタイミングで尖閣諸島を国有 化したのか」と矛先を政府に向けることすらある。これでは、もはや八つ当たりに近い。
 尖閣問題が突き付けているのは、私たちが国家としていかに無警戒かつ無防備であり、そのことがいかに国の致命的な弱点となっているかを正しく認識することである。
 日々刻々変わる局面にぬかりなく備えることも大事だが、欠陥だらけの憲法を抜本的に正すことを忘れてはならないと思う。(論説委員)



【安藤慶太が斬る】
(中)“冷温停止”した民主党に
2013.1.6 07:00 (1/4ページ)[安藤慶太が斬る] 産経新聞
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130106/stt13010607000000-n1.htm
(上)平和を守るためにこそ新憲法が不可欠だ
  安倍政権が発足して組閣のさいに感じたことがひとつある。安定感である。目新しい顔ぶれでは決してない。見慣れた顔が並び、誰もが神妙な面持ちで仕事への 抱負を手堅く述べている会見だった。その口ぶりも新鮮というわけではない。退屈といえば退屈だし、奇抜さなどはなかった。
 だが、決定的に 民主党政権の時と異なること、それは危なかしさがほとんどないということだ。厳密に言えば菅義偉官房長官の発言にカチンと来る場面はあった。しかし、それ も民主党政権の時とは比較にならない。何をしゃべり出すのか、何をしでかすのか、さっぱりわからない。ハラハラしながら見守らなければならなかった、あの 思いからは解放されたのである。
 そうなのだ。別に政治は新しさを競うショーではないのである。民主党政治を「お子様サッカー」と評する向 きもあった。ゲーム中、グラウンドをさまようボールに自分のポジションや課せられた役割を忘れ、全員が群がる。そして勝手なことをしながら時間ばかりが過 ぎていったという意味である。リーダーの統率にも耳を傾けない。リーダーの方針を身を張って支える人もいない。
 国防の素人が堂々と防衛大臣になって案の定、問題を起こしたケースもあった。これではゲームになるはずもない。
 衆院選が終わり、民主党議員は激減した。普通は現職議員が落選すればニュースになるものだが、誰が消えたかすらわからないくらいの大量落選だった。
自己分析に?
 別に自民党に風が吹いたわけではないと私も思う。民主党が沈んでいっただけの話である。
  民主党議員の反応をいくつか耳にしたが、彼らが「民主党がやってきたこと自体は正しかった」とか「やったことに間違いはないが、やり方がお粗末で国民の信 頼を得られなかった」「マニフェストを実現できなかったことに敗因があった」などと分析していることには首をかしげた。自分たちには国政を担ううえで必要 な力量が足りなかったと潔く認める分析はあまり聞こえてこなかったからだ。
 小選挙区で敗退し、比例による復活当選を果たした菅直人氏に至っては「反原発の人たちの応援が私を引き揚げてくれた」と分析していた。
 ギリギリで議席を守り、最後まで事務所で吉報を待ってくれた支持者を前にした発言ではあるが、やはり「?」である。
 有権者は菅氏の“再稼働”にNOを示したのであって、菅氏に「少しは黙っていなさい!」と言いたかったのではないだろうか。
 そのように謙虚に自分を省みずに、あれだけ危うい局面に立たされてもなお、自分の主張の正しさが認められたかのように口走ってしまう。そういう反応が民主党議員には多すぎるのである。
 言葉を弄して大風呂敷を広げてはみたものの、結局は挫折する。ところがそこから山のような言い訳が並べられるのだ。民主党政治を振り返ると、そうした光景の連続だった。実は、それこそが有権者が民主党を敬遠した最大の理由のひとつではないのだろうか。
何を信じていいのかわからない
 大風呂敷を広げる際、彼らはよく新しい言葉を好んで持ち出してくるのだが、言葉自体の意味となると曖昧で、詰められてないことがしばしばだった。
 例えば地域主権がその代表例だ。いうまでもなく地域に主権などない。地域が日本国から独立して主権を主張するならいざ知らず、彼らはこういう言葉を使いたがる。国民を惑わしていることに全く無自覚なのである。
 反原発もそうだった。
  「原発をゼロにする」と「原発ゼロを目指す」というのは全く意味が違う。「脱原発」と「脱原発依存」も全く意味が違う。こういう煙幕を至るところに張って おいて、反原発の方々には「私たちは反原発です」といい、反原発に懐疑的な人たちの前では「いえいえ、私たちが反対しているのはあくまで原発に依存するこ とです。国民生活は守っていきます」ともいえるのである。
 これって基本的に鳩山由紀夫元首相が米軍基地をめぐってその場その場でいいこと言い尽くして結局は信頼をなくしていった過程と極めてよく似た構図だ。
 民主党の議員のなかにも信頼できる人物はいる。しかし、全体としては万事うやむやで何を信じればいいんですか、となってしまう。
選挙互助会ではダメである
 右から左までありとあらゆる人たちが反自民という一 点で集まった選挙互助会、それが民主党である。政党には必須であるはずの綱領すらない。だから基本政策はもちろん、個別政策でも内紛が絶えない。そういう ときに、さきほど述べた「反原発」を「反原発依存」とするやり方で、どうにでも解釈できるようにしておくのだ。肝心な点は詰めない。詰めたが最後、瓦解し てしまうからだ。だから彼らは国家の基本法である憲法にすら定見が示せなかったのである。
 彼らの「決められない政治」の原因は何か。無論、参院選での敗退によって衆参でねじれが生じたことも大きな理由だが、こうした党体質が一因となっていることも見逃してはならない。
  民主党が再生できるか否か。これも今年の注目点である。ただ、現状、それは気の遠くなるような話といわざるを得ない。少なくとも公党の綱領は欲しいところ だが、あればいいというものでもない。健全な国家観を備え、現実に立脚したまともな政策を掲げること。今までの延長戦のような考えでいるならば、国民が安 心して任せられる政党に生まれ変わることなどできないだろう。
 (安藤慶太 社会部編集委員)



【安藤慶太が斬る】
(下)政党は果たして公的な機関といえるのか
2013.1.6 18:00 (1/4ページ)[安藤慶太が斬る] 産経新聞
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130106/stt13010618010004-n1.htm
(中)「お子様サッカー」だった民主党政治
 政党助成金に対して根本的な疑問を抱かざるを得ない。日本未来の党の分裂劇は、そうしたことを考えさせられる出来事だ。
  日本未来の党は分党し、森裕子参院議員が代表を務める「生活の党」に党名変更した。メンバーは小沢一郎氏と同氏に近い議員の計15人。代表だった嘉田由紀 子・滋賀県知事は離脱、新たな政治団体「日本未来の党」をいったん立ち上げた。会見には嘉田、森両氏の新旧代表と、小沢氏が出席。最後は3氏で握手するな ど“円満離婚”をアピールした。
 その後、嘉田氏は「日本未来の党」の代表を辞任し、知事の職を全うすると表明。代表には阿部知子衆院議員を充てることを明かした。
 こうした動きは、各政党に支払われる政党交付金が決まる1月1日を目前にした「駆け込み」分党に他ならない。旧日本未来の党が受け取るはずだった平成25年分の約8億6000万円(産経新聞試算)の大半は生活の党が受け取ることになった。
 つくづく今回の衆院選で驚かされたのは小沢氏についてであった。前から言われていたことではあるが、反原発だろうと、左翼だろうと自分が議員であり続けるのであれば、彼は何でもいいんじゃないか、と改めて感じた有権者は多かったはずだ。
 もともと、日本未来の党の結成劇自体が唐突なものだったと思う。選挙公示日の直前になって突如、滋賀県庁で嘉田氏が会見し、衆院選への参戦を表明。乱立気味になっていた三極は整理され、「国民の生活が第一」なども加わり「卒原発」を掲げて戦うことになった。
ただ、この結成劇の裏で小沢氏が暗躍していたことが明らかになると、世論は急速に冷めていく。表看板は嘉田氏だが、実権は小沢氏が握って最前線には出てこないという実態が浮かんできたのだ。
 小沢氏は民主党を離党して国民の生活が第一を結成したが、支持率は伸び悩んでいた。そこで党の顔、党の看板役として嘉田氏ら反原発グループを前面に出し、選挙戦突破を試みたのだろう。
 本来、環境社会学者出身の嘉田氏と永田町で生きてきた小沢氏とは接点が乏しいはずだが、彼らもまた小沢氏を利用する形で選挙戦に臨んだのだった。
 そういう両者の打算が有権者にも透けて見えたのではないか。結果は惨敗。反原発は(未来に限らず)国民の共感を生まずに終わった。選挙が終わると、嘉田氏と小沢氏の対立は共同代表人事をめぐって激化し、結党からわずか1カ月での分裂劇となったわけである。
  こうしたやり方が詐欺的だという批判もある。厳密な違法性を問うとなると、難しい面はあるのかもしれないが、とにかく合点のいかない話だと思う。こういう 離合集散について当事者達は「政党助成金ほしさでやっているのではない」と口を揃えるのだろうが、漫然と許していていいとは思えないのだ。
 政党助成金というのは、議会制民主主義が成り立つ上で、政党の果たす役割が大きい、だから、健全な政党政治が根付くよう公的に助成しますよ、ということだ。選挙のさい、比例代表で有権者が政党名を記すことだって、政党を公的な機関として取り扱うことになった証しだ。
ところが政党の実態を見ると、こうした目指すところと隔たりが大きいのが現実だ。
 例えば無党派層。選挙のたびに無党派層の動向がモノをいう流れが定着しつつある。既成の政党に対する不信感は根強い。政党はむしろ見放されつつある存在だ。
 今回の衆院選では10を超える政党が次々と産声を上げた。設立するのも声を枯らして戦うのも結構だが、政党という存在がどんどん軽い存在になっていることは否めない。
 わが国の命運を最後まで面倒みますよ、なんて固い決意が伝わってくる政党はどれだけあるか。大半はダメならまた作ればいいじゃん、てなノリだ。選挙互助会でも何でもいい。わずか3日で解党した党もあった。これまたおかしなことだ。
 一度作ったら未来永劫、どんなことがあっても「崩してはならない!」などというつもりはない。「政治なんだから政党や政治家の離合集散はつきものだ」といわれれば、それも間違ってはいない。
 政党に代わる国政運営を支える機関が今さし当たって存在しているわけではないことも確かだ。世界中見渡して、政党に代わるそのような担い手が存在する国があるわけでもない。
 だが、今回のような出来事を見ると、政党が議会制民主主義を支えるという公的な役割を担える機関なのか、大変怪しく思えてくる。
「補助金の病」という言葉があるが、今の政党乱立劇を眺めていると、一度受け取ったが最後、補助金を受け取り続けなければ、成り立たなくなる病に 陥っているのではないだろうか。助成金を受け取って何を為すか、ではなく、助成金を受け取るために政党の“スクラップアンドビルド”を繰り返しているにし か見えないのだ。
 それは堕落である。政党の公的責任を忘れ「政党」「政党助成金」を食い物にしている、政治家の都合で政党を弄んでいるのではないか。こういう根本的疑念を抱かざるを得ないのだ。
  嘉田氏にも同じ思いだ。彼女は今後、知事の職務を全うするのだそうだ。産経新聞が伝えたところによれば、嘉田氏は周辺に「政党助成金は(小沢氏との)手切 れ金のようなもの」と漏らしたという。トンでもない発言である。二人の「手切れ金」なら、二人の間で精算してくれよ、といいたい。何で国民が税金で面倒見 なくてはいけないんだよ、とウンザリするような発言だ。
 政党という機関を作る以上、当然責任が伴うはずだ。そのことを政治家は忘れていな いか。あまりにお粗末な光景が多すぎる。心ある政党関係者に問いたい。政党は議会制民主主義を支えるという公的な役割を担える機関なのか。政党助成金は制 度として見直す必要はないのか。もはや過去の存在となった未来の党を通じて大いに考えてほしいものである。(社会部編集委員)
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