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朝日新聞が集団的自衛権に関してミス・リード!




朝日新聞の記事が目に付いた。
長谷部恭男氏は東大法学部と言う事で朝日新聞は権威主義で世論を
操作する試みと見える。
能天気なプチナショ さんが朝日新聞のミスリードと言うのに触発される。
マスコミ報道が権威に頼って報道するのはこれが初めての事ではない。


(寄稿)憲法、アメリカ、集団的自衛権 憲法学者・長谷部恭男
http://www.asahi.com/shimen/articles/TKY201302130558.html
不安を背景にすれば視野を狭め、「そもそも」が弱いと滑って本質を見失う。感情論を排し、そもそも憲法を変えるとはどういうことかを考えたい。長谷部恭男さんに寄稿してもらった。
 日本国憲法はアメリカの贈り物である。日本の憲法原理はアメリカのそれと等しい。個人を尊重し、多様で相対立する世界観

脳天氣なプチナショ

2013年02月16日01:18
カテゴリ
http://blog.livedoor.jp/soemon/archives/54391987.html
朝日新聞が集団的自衛権に関してミス・リード!
朝日新聞が集団的自衛権の問題でミス・リードを行っています。
朝日新聞平成25年2月14日朝刊、第7面の特集記事と第15面のオピニオン面を引用します。

(以下引用開始)
第一面記事抜粋欄より

(憲法)集団的自衛権と9条を考える
 安倍晋三首相は、憲法9条との関係で「行使できない」としてきた集団的自衛権の政府解釈の見直しに動き始めた。そもそも集団的自衛権とはどんな権利で、歴代政権がそれとどう向き合ってきたのか。論点を探った。

第15面オピニオン面

寄稿・憲法、アメリカ、集団的自衛権
憲法学者・長谷部恭男(東京大学法学部教授)

米と同じ憲法原理
あえてなぜ変える
それで何をするのか
「解釈変更」が自己目的化していないか

 不安を背景にすれば視野を狭め、「そもそも」が弱いと滑って本質を見失う。感情論を排し、そもそも憲法を変えるとはどういうことかを考えたい。長谷部恭男さんに寄稿してもらった。

 日本国憲法はアメリカの贈り物である。日本の憲法原理はアメリカのそれと等しい。個人を尊重し、多様で相対立する世界観・価値観の存在を認め、その公平 な共存を目指す立憲主義の憲法原理である。アメリカとの関係を確固たるものにしたいとき、歴史の反省を踏まえて大切にしなければならないのは、まずこの憲 法原理である。それは、南北戦争に敗れたアメリカ南部諸州が、奴隷を解放し人種の平等を求める憲法原理を、たとえ「押しつけ憲法」であっても大切にしなけ ればならないのと同様である。
 こうした問題を考えるとき、ウェットになってはいけない。アメリカも自国の利益と無関係に日本に憲法を贈ったわけではない。ドゴール大統領が喝破したよ うに、憲法で作られた国家に「友人」はいない。いるのは「同盟国 allie」だけである。憲法解釈を変え、憲法を変えることが日本の平和と安全のために なるか、そしてしかるべき国との同盟関係を深めることにつながるか、冷静な見極めが肝心である。
 昨今、先人たちが苦労して積み重ねてきた憲法解釈を変更しよう、さらには憲法全体を変えようという動きがある。問題は、こうした動きに乗る人たちが憲法 と戦争の間の根本的な関連性を理解しているかである。戦争は国家と国家が戦う。国家を形作るのが憲法である以上、戦争によって攻撃されるのは、敵対する国 家の憲法原理である。異なる憲法原理を抱く国家同士は対立する。対立が激化すれば戦争に至る。
 さて、憲法の役割の核心は、政府のできること、できないことを定めて、その行動を縛ることにある。しかし、力がむき出しになる軍の行動を憲法が縛ろうとしても簡単ではない。
 政府の行動は違憲だという見解が学界では有力だが、政府は巧みな解釈論を展開して法の拘束をすり抜けようとするし、外交・防衛問題に関わりたくない裁判 所は明確な憲法判断を示そうとしない。現実と乖離したままでは憲法の権威が低下するばかりだから、いっそのこと憲法の縛りなどなくした方がましではないか という極論まで出て来かねない―という状況に陥りがちである。

 相も変わらぬ日本の話だと思われるかも知れないが、これはアメリカの話でもある。アメリカ合衆国憲法は大統領を軍の総司令官とする一方で、「戦争の宣 言」を連邦議会の権限としている。連邦議会に戦争開始の決定権を与えて、政府による不用意な軍事行動を抑制するのが、「戦争の宣言」を議会の権限とする合 衆国憲法の趣旨である。
 ところが、敵国の急襲のような緊急時に、連邦議会の同意なしで軍を出動させる権限が大統領にあることは建国当初から疑われていなかった。さらに、自分の 手を縛られたくない政府は、「戦争 war」とまで言えない規模の武力紛争での派兵については、議会の同意は不要だと一貫して主張してきた。その結果、連 邦議会の事前の同意を得ずに兵を送り出すことが通例となっている。もちろん、正式の「宣戦布告」がなされた例もごくわずかである。建国以来、ほぼ毎年のよ うに戦争を遂行してきたアメリカだが、正式の「宣戦布告」をしたことは、5度しかない。議会の側も、発言権を強化しようといろいろと努力してきたが、大統 領の戦争権限を実効的に抑制することに成功したとは言い難い。
 それでも憲法による軍事行動の抑制には意味がある。立憲民主国家の多くは、議会の関与を通じて政府の戦争権限を抑制しようとしてきた。戦争で、まず危険 にさらされるのが国民自身である以上、国民代表の同意を要求することには十分な理由がある。哲学者のカントも、開戦にあたっては、国民を代表する議会の同 意を得るべきだと述べている。しかも、すべての国が職業軍人からなる常備軍を廃止し、人民自身が武装する国民皆兵の制度を備えるなら(徴兵制はその一種で ある)、いずれの国の議会も簡単には戦争に踏み出さなくなるはずである。かくして、戦争がより起こりにくい世界への、つまり「永遠平和」への歩みが始まる というのがカントの目論見であった。
 それでもやはり戦争に訴えるしかないと議会が判断し、開戦の決定を行うのであれば、開戦の正当性も固まり、効果的な戦争遂行を支えることにもなる。アメ リカで、憲法と現実の乖離が指摘されながらも、現実に合わせて憲法を変えようという議論が有力にならないのは、憲法を通じて政府の戦争権限を抑制する意義 が広く認識されているからでもある。そして、憲法による軍の抑制という困難な課題に悩み、試行錯誤を繰り返しているのは、アメリカだけではない。

 さて日本の話である。自民党が最近用意した改憲草案を見ると、9条を改正して「国防軍」を置くとする一方、その出動について国会の事前の同意を憲法原則 とはしておらず、具体の制度は法律に委ねることとされている。憲法の条文のうわべを見る限りでは、アメリカ以上の好戦国家だということになりかねない。
 「そんなつもりはない」ということかもしれないが、周辺の諸国民は日本の政治家が善意の固まりだとは考えていない。憲法は見かけも大事である。政治が取り扱うのはしばしば生の現実より、そのイメージである。
 憲法による政府の権限抑制は、手続きではなく内容面でなされることもある。日本国憲法9条の下では、国に自衛権はあるものの、それは個別的自衛権であ り、集団的自衛権は認められないとされてきた。国際法上認められる権利を自国の憲法で否定するのは背理だと言われることもあるが、これは背理ではない。大 福餅を食べる権利は誰にもあるが、私は自分の健康を考えて大福餅を食べるのを控えるというのが背理でないのと同じである。
 注意が必要なのは、集団的自衛権ということばもいろいろな意味で使われることである。大きく分けると第一に、ある国が武力攻撃を受けた際、その国と友好 関係にある他の諸国も共同して各国の個別的自衛権の行使する場合を指して、集団的自衛権の行使ということがある。個別的自衛権を行使する各国の安全と、武 力攻撃を受けた最初の国の安全とが密接に絡み合っている場合である。
 第二に、ある国が武力攻撃を受けた際、その国の武力が不十分であるために、友好関係にある他の諸国が援助するする場合を指して、集団的自衛権の行使とい う場合がある。この場合、援助する国自身の安全が脅かされている必要はない。国際の平和と安全という国際社会の一般公益のために、援助国は行動する。
 従来の政府見解が日本にないとしているのは、このうち第二の集団的自衛権である。たとえば、日本の領土や国民の安全とは関係のないインド洋上やアマゾン の奥地で、他国を支援するために自衛隊が実力を行使することはできない。国際の平和と安全のために命がけで行動するのは、国際救助隊サンダーバードもかく やと思われる立派な行いのように見えるが、国際社会のメンバーがお人よしばかりではないことは、誰もが承知している。命の危険も顧みずに他国のために活動 しても、美名の裏で自国の利権拡張を図っていると疑われるものであろう。自分のためにもならず、相手に感謝もされない危険な活動に踏み出す理由は、日本の ような普通の国にはなさそうである。
 逆に言うと、たとえば日本が武力攻撃を受けて、それに対処するためにアメリカ軍と自衛隊が共同行動をとっているとき、アメリカ軍への攻撃に対して自衛隊 が反撃することは、憲法で禁止されていない。従来の政府見解でも、こうした反撃は、わが国の自衛の範囲であり、その場所がたとえ公海上であったとしても、 自衛隊による反撃を否定するのは、常識的には奇妙なことだとされてきた。

 ここで問われているのは、法律の解釈とは何かである。憲法9条2項の規定は、「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」とする。平和に向けた決意表明 としては尊いが、現実問題として、何ら実力組織も備えないで領土の保全や国民の生命・財産の安全を図れるかと言えば、それは無理であろう。だから「戦力」 と言い得るほどの規模・能力の部隊を保持することはできないが、自衛のための必要最小限の実力であれば、保持は禁止されない。そうである以上、国際社会の 平和と安全という一般公益のために自衛隊が活動することはなく、あくまで、自国の安全が脅かされている場合にのみ行動する。ほどほどの知性と良識を備えて いる人であれば、納得のいく理屈ではなかろうか。
 良識に適う判断をどう支えるかが法の解釈において肝心である。条文の言葉に国語辞典を重ね合わせて答えを導く単純な作業を法解釈とは普通言わない。具体 の場面で法の制約がいかなる結論を導くかという問題への回答も、良識に適う結論を筋が通るように、条文や先例、諸外国の事例を参照しながら支えていく作業 であって、いくら非常識な結論になっても、条文に国語辞典を掛け合わせ、ガチガチの論理操作でとにかく答えを出すという作業ではない。もちろんそれで、で きることとできないことは区別することになる。
 9条に関する従来の政府の解釈、とくに集団的自衛権に関する解釈を変更すべきだという議論がある。頼まれてもいないのにオッチョコチョイで変えようとい うのではなく、本当に「解釈の変更」が必要なのか。9条の条文との関係を意識しながら良識に適った結論を具体の場面ごとに支えることではなく、「解釈の変 更」が自己目的化してはいないだろうか。かりに日本の安全とは無関係に、国際社会の平和という一般公益のために自衛隊が戦闘行動するような厄介で危ないこ とまでは想定していないというのであれば、実は「解釈の変更」は必要ないのではないか。
 戦争権限の拘束をはずすことは日本の平和と安全のためになるだろうか。「面倒だからはずしてしまおう」で済む話ではない。

はせべ・やすお
56年生まれ。東京大学法学部教授。著書に「法とは何か」「憲法のimagination」「Interactive憲法」など。

(以上引用終了)

何か尤もらしい論理が展開されているが、その実、詭弁の積み重ねに過ぎない。

まず、「日本国憲法はアメリカの贈り物である。」と云うのは、美辞麗句であって、実際は有無を云わせない、強制的な押しつけ憲法であった。
次に、「日本の憲法原理はアメリカのそれと等しい」と云うのは、読者の無知を良いことに、どうしようもない大嘘である。
アメリカ合衆国憲法に、「国の交戦権の否認」も「陸海空軍その他の戦力の不保持」も無い。
むしろ、国家どころか、国民の一人一人の個別の自衛武装さえ認めている。
アメリカで、銃の乱射による痛ましい事件が後を絶たないが、それでも銃規制がなかなか進まないのは、アメリカの独立以来、国民の自衛武装の権利が個人の権利として確固としたものがあるからである。
更に、アメリカは大統領制だが、日本は天皇陛下を戴く君主制であることである。
日本国憲法と称する文書の第一章は「天皇」である。
アメリカが作成して、無理強いしたから「アメリカ製だから日本の憲法原理はアメリカのそれと等しい」とは云えない。
そして、アメリカの機嫌を損ねないためには、アメリカ製の憲法を大切にせよ、と暗に恫喝しているが、これこそ「対米追従」の醜悪さではないか。
また、南北戦争を持ち出してきたが、南北戦争はあくまでアメリカ合衆国の国内での「内戦」であって、国家間の戦争とは云えない。意図的に糞味噌混同させてミス・リードを狙っている。
「戦争は国家と国家が戦う」と云う一節も、昨今、怪しくなってきた。
アメリカとアルカイダの戦争は、まさに「非対称」の戦争であり、テロリストのネットワークである、アルカイダに「憲法原理」など存在しない。
また、「異なる憲法原理を抱く国家同士は対立する」と云うが、近代国家の憲法は、大なり小なりフランス大革命の人権宣言の範囲内から逸脱していない。
ソ連のスターリン憲法も支那・中共の憲法も、基本的人権の尊重や信教の自由、言論の自由が明記されている。
だが、いわゆる社会主義国、共産党による一党独裁の国家では、国家の上に前衛党である、共産党が君臨して指導しているため、憲法が事実上空文化している。
そこらへんが全く考慮されていない。
また、政府の軍事的暴走を抑制する為に憲法が有ると云うが、政府、特に制服組の軍人が暴走して戦争へ至ると云うプロトタイプは疑った方が良い。
知識や情報が豊富で、現実問題、戦争になったら、確実に身内から犠牲者が出てくる可能性が高い軍人の方が、なるべく戦争を避けたいと願うのが、一般的である。
かのイラク戦争に於いて、戦闘開始に最後まで慎重だったのは元・軍人のパウエル国務長官だった。
むしろ、一般の国民や、その国民の動向に右顧左眄する議会の方が、より情緒的に開戦に踏み切る可能性が高い。
自民党の改憲草案に関して、好戦的だと断じているが、非常事態が発生した場合、カール・シュミットの「例外状況」の場合は、「大統領の独裁」がなされなくては、間に合わない。
国会への事前同意の有無の一点をもって、好戦的であると指弾するのは、非現実的ではなかろうか?
「憲法は見かけも大事である」と云うが、法律は云わばツールであり「道具」である。
ふわふわした意味不明の見かけやイメージで勝負してはいけない。あくまで、論理的整合性と現実主義で通すべきであろう。特に、シビアな安全保障については尚更である。
大福餅の話に至っては苦笑するしかなかった。
自衛権を何故、自分の健康を考えて控えるのだろうか?
自衛権行使を控えるのは、あまりに非現実的な非武装主義の条文に影響されたからではないか。
また、「命の危険も顧みずに他国のために活動しても、(略)自分のためにもならず、相手にも感謝されない」と云うのは、酷い。
そんなことを云い出したら、ODAだってそうだ。
鎖国するしかなくなる。
日本はODAなど、お金だけで事を済ませようとしたから、世界中の物笑いになったのである。
やはり、いざという時に、血と汗を流すところを示さなくては、国際的には評価されない。
さて、9条に於ける「あらゆる戦力の不保持」について、「必要最小限の実力であれば、保持は禁止されない」と云うが、では、必要最小限ってどれくらいなのだ?
「あくまで、自国の安全が脅かされている場合」と云うが、支那・中共、露西亜、そして北朝鮮が核武装している状況では、日本も核武装しても良いと云うことだろうか?
また、「日本の領土や国民の安全とは関係ないインド洋上」とあるが、日本は現在、中近東からの石油によって大きく依存している。
いわゆる「シーレーン防衛」である。
「アマゾンの奥地」はさすがに日本とは関係が薄いだろうが、インド洋は間違い無く「日本の生命線」と云わざるを得ない。
9条は、明確な非武装・非戦の条文であって、自国の自衛さえも否定しているものである。
それを「個別自衛権までは否定されていない云々」と云った拡大解釈を行って、誤魔化してきた。
しかし、膨張する支那・中共や冒険主義の北朝鮮の動向に、日本は従来のような「言葉遊び」をしている余裕が無くなったのである。
アメリカにしろ、ドイツにしろ、憲法や国家基本法の修正を重ねてきた。
それは、時代の推移と無関係ではない。
むしろ、日本のように、六十有余年も制定当初から一字一句変わっていない憲法は、異状である。
まずは、時代に合致した憲法解釈を行い、そして、憲法の条文を改正すべきであろう。
憲法は「不磨の大典」ではない。

(続く)

脳天氣なプチナショ

2013年02月16日09:11
カテゴリ
http://blog.livedoor.jp/soemon/archives/54392222.html
朝日新聞が集団的自衛権に関してミス・リード!(の続き)
朝日新聞平成25年2月14日朝刊特集面での記事。

(以下引用開始)
第7面 特集面 集団的自衛権と9条「戦争放棄」

憲法解釈見直し 再燃
政府見解「権利あるが行使できず」

 安倍内閣が集団的自衛権行使の容認に向け、憲法解釈の見直し論議を再開した。集団的自衛権は、歴代政権が憲法9条との関係で自衛の範囲を超えると解釈。 「国際法上の権利はあるが、行使はできない」とされてきた。日中は尖閣諸島をめぐり緊迫し、北朝鮮は3回目の核実験を実施。安倍晋三首相は「安全保障環境 の大きな変化」を理由に解釈変更に踏み込もうとする。実現すれば、戦後史の転換点となる。論点と現状を整理した。

 集団的自衛権は1945年に国際連合(国連)が発足した時に定めた「国連憲章」に盛り込まれた権利だ。
 国連憲章は、2条で「すべての加盟国は、武力による威嚇または武力の行使を慎まなければならない」と武力行使を原則禁じた。その一方で、51条では「国 連加盟国に対して武力攻撃が発生した場合、安全保障理事会が必要な措置をとるまでの間、個別的または集団的自衛の権利を害するものではない」とも明記し た。

 つまり、加盟国が攻撃されたら、まずは「国連安保理が必要な措置をとる」と定め、攻撃を他のすべての加盟国への挑戦と見なして安保理の決定で国連軍が制裁を加える「集団安全保障」としての対応が優先されるとした。
 現実的には常設の国連軍はなく、加盟国に自国への攻撃に反撃する「個別的自衛権」と、自国と密接な関係にある他国が攻撃された場合に共同対処する「集団的自衛権」の行使を認める格好になっている。
 憲法9条で戦争の放棄を掲げた日本政府は、個別的自衛権は「自衛のための最小限度の武力を行使することは認められている」と行使も可能というのが現在の 見解だ。しかし、集団的自衛権の行使は「必要最小限の範囲」を超えるとして、「国際法上は権利があるが、憲法9条の下で、その行使は許されない」との解釈 がこれまでとられてきた。
 日本にとって「自国と密接な関係にある国」と考えられるのは、唯一の同盟国である米国だ。日本が集団的自衛権でこうした理屈をとるのは、敗戦を経て生まれた平和憲法と、米国からの軍事力強化の働きかけのはざまで苦悩した特殊事情がある。
 47年に施行された憲法9条2項は、「(戦争放棄を定めた)前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認 めない」と軍隊の保持も禁じた。一方で、50年に朝鮮戦争が勃発すると、同年に警察予備隊が発足。51年に日米安全保障条約が締結され、その3年後に防衛 庁・自衛隊が誕生した。

 米国と自衛隊の軍事的な協力関係が深まるにつれ、日本政府は「必要最小限度の自衛の範囲」なら実力組織である自衛隊も「軍隊ではない」と主張しつつ、米 軍との連携を深め、自衛隊の装備や任務を拡大させた。憲法違反や軍拡との批判をかわそうと、政府は自衛権を認める範囲を、「個別的自衛権」と「集団的自衛 権」で線引きした。
 ただ、このように区別して、集団的自衛権の行使のみを自制する国は異例だ。攻撃された場合に互いに共同対処する相互防衛条約を結ぶ国が多いからだ。
 米国は2001年の米同時多発テロへの報復として「個別的自衛権」を発動し、タリバーンが支配するアフガニスタンを攻撃。一方、米国と同盟を結ぶ英国など北大西洋条約機構(NATO)諸国は、「集団的自衛権」を発動して米国の軍事活動に加わった。

対米協力で変遷

 集団的自衛権をめぐる政府の解釈は、はじめから定まっていたわけではない。
 国連憲章が策定された翌年の1946年、当時の吉田茂首相は「自衛権の発動としての戦争も交戦権も放棄した」と国会で答弁している。47年の日本国憲法 施行後も吉田氏は「集団的自衛権の実際的な形を見たうえでなければ、答えられない」。当時は自衛隊すらなく、集団的自衛権のイメージがわかなかったよう だ。
 だが、50年に警察予備隊が発足すると吉田氏は「自衛権は存在する」と修正。51年に日米安全保障条約が締結され、78年に日米の軍事協力を定めた日米防衛協力のための指針(ガイドライン)が策定される中、個別的自衛権と集団的自衛権が区別されていく。
 81年の政府答弁書で「日本は国際法上は集団的自衛権を有しているが、行使することは許されない」との見解を確立。自衛権の発動は①日本への急迫不正の 侵害があり②他の適当な手段がなく③必要最小限の実力行使にとどめる、との3要件を満たす場合に限るとの見解も定まった。
 国連平和維持活動(PKO)や湾岸戦争などで日本の「国際貢献」が求められるようになり、米軍などと海外で活動するには「武力行使と一体化」しない範囲 で認められるとされた。小泉内閣は2001年、「集団的自衛権について研究してもいいのではないか」としつつ、「憲法第9条は50年余にわたる国会での議 論の積み重ねがある。解釈の変更は充分に慎重でなければならない」との政府答弁書を決定している。
(山岸一生)

安倍首相「環境変わった」

 集団的自衛権の行使を認めるべきだという主張には、主に二つの理屈があった。安倍晋三首相の言葉を借りれば、「片務性の解消」であり、もう一つは「日本の言い分は世界に通用しない」という考えだ。
 「片務性」とは、米国は日米安全保障条約で日本防衛の義務を負っているのに、米国が攻撃された場合、日本がそれに応戦できないというものだ。そのため、日本政府は国内で米軍基地施設を提供し、米軍駐留経費を負担することで「片務性」を補ってきた。
 だが、安倍氏はこれに加え、「日米の双務性を高めることは、集団的自衛権の行使の問題と非常に密接にかかわる」(2004年の自民党幹事長時代の講演)と行使容認で日米の「双務」関係を築けると主張する。
 また、現行解釈についても、「財産に権利はあるが自分の自由にならないという『禁治産者』の規定に似ている」(06年の自著「美しい国へ」)と指摘。見直す必要があると訴える。

 首相に返り咲いた安倍氏は、今月8日に集団的自衛権の行使容認に向けた議論を再開。有識者会議で「我が国を取り巻く安全保障環境は大きく変化した」と強 調した。中国は海洋進出を本格化させ、北朝鮮は昨年末の弾道ミサイル発射に続き、12日に新たな核実験も実施。日米双方への脅威が増し、「同盟の強化」で 対応するには、集団的自衛権の行使容認に踏み込まざるをえないというわけだ。
 第1次安倍内閣が設けた首相の私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」が08年にまとめた報告書では、自衛隊に新たに認めるべき任務 として「4類型」を提案。そのうち集団的自衛権の行使で対応すべきものとして、①公海で共に活動する米艦に危険が及んだ時の防護②米国に向かう可能性のあ る弾道ミサイルの迎撃―の二つを挙げた。
 過去の政権では、米艦の防護は個別的自衛権で対応できるとの見解もある。しかし、安倍氏は「4類型で十分なのかも含め、もう一度議論してもらいたい」と集団的自衛権の行使の検討対象をさらに広げる考えを表明。ネット空間でのサイバー攻撃なども念頭に置く。
 集団的自衛権の行使容認には、憲法9条の改正が必要との意見もあるが、安倍氏はこれまでの政府解釈の変更で行使容認を目指す。安倍氏は有識者会議の提言 を待って、具体的ないくつかの場合に集団的自衛権の行使を認めるよう憲法解釈を変更し、行使の手続きを定める国家安全保障基本法を制定したい考えだ。

 だが、こうした動きには政府内でも懸念の声があがる。防衛省幹部は「集団的自衛権の行使を容認するには、日本がアフガン戦争のような海外の戦争に加わる覚悟と国家戦略が必要だ。議論が容認ありきになっている」と指摘する。
 国会でも、米国の傀儡と言われた南ベトナムからの要請で、米軍が1965年に集団的自衛権を発動して北ベトナムを攻撃したことや、旧ソ連のアフガン侵攻など、集団的自衛権の名で武力行使が乱用されたとの指摘がある。
(薗田耕司)

米、紛争対処に期待

 冷戦下の米国は、当時のソ連に対抗するため、最前線に位置する日本の軍事力強化が必要だった。改憲による再軍備を日本に求める意見もあった。冷戦終結後 は、米国の安全保障上の課題が多様化。米国の要求は、個別の紛争への対処を日本に求める形で、より具体的になっていった。
 1991年の湾岸戦争で、日本政府は財政支援を行ったが、米国は「小切手外交」と強く批判。日本政府が、自衛隊のPKO派遣や周辺事態法の整備など、自衛隊を海外で活動させるための枠組みづくりを進めるきっかけとなった。
 優先順位に濃淡はあっても、日本を知る米国の多くの専門家は、安保面で日本がもっと大きな役割を果たすことに期待している。
 米国内で集団的自衛権行使を求める声が大きくなったのは2000年代。アーミーテージ元国務副長官とハーバード大のナイ教授ら超党派の識者が00年にま とめた提言は「集団的自衛権の行使を日本が自ら禁止していることは同盟協力の制約となっている」と指摘。改憲をしないとしても、内閣の憲法解釈を変えるべ きだという考えを示した。
 両氏らが昨年8月に出した報告書は、東日本大震災後の自衛隊と米軍の協力に触れて「互いの能力を最大限発揮できることを証明した」と指摘。「平時に加え、危機や戦時にも、米軍と自衛隊が全面的に協力して対処する許可を与えるべきだ」と、集団的自衛権行使を求めている。
(ワシントン=伊藤宏)

安易な解釈変更、許されぬ
元内閣法制局長官 阪田雅裕さん

 憲法は国家が守るべき規範を定めたもので、時々の政権が勝手に都合よく解釈するのは問題だ。憲法9条の下で集団的自衛権を行使できるということになれば、平和主義を掲げた9条はあってもなくても同じことになり、法規範としての意味がなくなる。
 自衛隊が海外で活動することは当初想定していなかったから、集団的自衛権の議論は起きなかった。湾岸戦争を機に国際的な活動に日本も協力すべきだという 声が高まり、自衛隊のイラク派遣など新しいニーズに対応してきた。だが、集団的自衛権の行使は憲法9条に抵触するというのが、政府の一貫した考えだ。
 これまでも説明の仕方を工夫したことはあるが、言っていることは同じ。海外での武力行使が禁じられているということ。憲法9条の解釈については国会で何 十年も議論が積み重ねられてきた。ある日、突然これまでの議論を「なかったことにします」ということが、議会制民主主義の下で許されるのか。
 集団的自衛権行使を認めるなら、解釈変更ではなく、国民の十分な理解を得て憲法改正すべきだろう。
 第1次安倍政権で設けられた懇談会が示した「4類型」の中には、集団的自衛権行使を前提とするものがある。「部分的ならよい」ということかもしれないが、憲法9条の下で部分的にしろ許容される集団的自衛権があるとは考えられない。

さかた・まさひろ
1943年生まれ。66年大蔵省入省。2004年8月から06年9月まで小泉内閣で内閣法制局長官。弁護士。

(以上引用終了)
(年表など省略)

この特集面は、集団的自衛権に関しての事柄をまとめた文章なので、比較的客観的な文章になっている。
朝日新聞がミス・リードしたい論調は、オピニオン面の東大教授の寄稿と元内閣法制局長官に云わせている。
ここで、愕然とするのが、わが国の高級官僚が骨絡みの戦後レジーム信奉者であるということである。
マスコミ界や教育界が左翼偏重であることはよく知られているが、司法や行政府の相当高い地位の幹部に至るまで、「赤く」染まっているのは、暗澹たる気持ちになる。
いわゆる「村山談話」や「河野談話」は、政治家サイドの願望だけでは実現し得なかったのである。
やはり、これらを支持する、もしくは同じ価値観を共有する事務方・官僚サイドが動かなければ、かの「村山談話」も「河野談話」も誕生しなかったということである。
更に、歴代の政権が、このトンデモ談話を継承し続けたのは、事務方・官僚サイドがトンデモ談話を支持していたからである。
改めて、日本のエリート層の反日・自虐ぶりに愕然とせざるを得ない。

国会内で何十年も議論を積み重ねてきたと云うが、机上の空論を幾ら積み重ねたところで、それは自己満足な嘘偽りであって、そんなものにこだわりつづけているのは、官僚の悪癖だと思う。
わが国・日本を取り巻く安全保障上の環境は、急激に悪化したのである。
いつまでも、「一国平和主義」の惰眠を貪っている場合ではない。

また、集団的自衛権の名で武力行使が乱用されたというが、あくまで乱用であって、政権が適宜判断していけば問題が無い筈である。
集団的自衛権を容認したから、すぐにでも戦争が始まるように思うのはあまりに情緒的な短絡思考である。
もっと云えば、現在の日本は、集団的自衛権を認める認めないにかかわらず、いつ「攻め込まれる」か解らない切迫した状況である。
支那・中共の兆発は、次第に酷くなり、最早、何時、戦闘状態が偶発的に勃発しても不思議ではないのである。
いくら9条が有るからと云っても、攻め込まれたら「戦争」になるのである。
それでも猶、戦争反対を唱えるなら、それは売国奴の非国民であって、とても容認出来る訳がない。

朝日新聞のミス・リードは論旨が破綻している。
ただ、「9条カルト」の人々には、情緒的に訴える効果は有るであろうが・・・









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