【そもそも人間学とは何か】日本の恥

転載記事です。


【そもそも人間学とは何か】日本の恥
http://www1.bbiq.jp/chikoshima.com/log/somo-somo-ningen-gaku-toha-nani-ka-nippon-no-haji.html

知古嶋芳琉です。

 連合国軍として進駐したアメリカが採用した、日本に対する占領政策が、安岡先生のお話しに出て参ります。 実に恐ろしいことですが、これを読んだら、今の日本というか、一般的な日本人というか大和民族がここまで堕落、頽廃してしまったのは、見事にこの占領政策が効を奏して、当初の狙い通り、だらしないというか卑屈というか、なよなよして一本筋の通ったところが少しもない、骨抜きの人間に変えさせられたからだと悟ることができます。 先生は、ことの発端は明治時代に遡って諄々と語っておられますが、まず先に、この切実な事実をご紹介したいと思います。

引用していますのは、私が師事した安岡正篤師の講話録、人間学講話『運命を創る』(プレジデント社)です。


---ここからが引用です---


■ 組織盛衰の原理

○ 明治・大正・昭和三代の盛衰

<アメリカの占領政策:3R・5D・3S政策>

 この欠陥が終戦後、また現れまして、占領軍の日本統治に対して対応する仕方をまったく誤りました。占領軍は、むしろ日本を非常に買いかぶっておりましたから、いかにこれを占領・支配し、かつ、いかにこれをアメリカナイズするかということにたいへん研究を積んでおります。このアメリカのGHQの対日政策というものは実に巧妙なものでありました。 この政策がどのような原理によって行われたかということはこれは皆さんご承知かと思います。非常に巧妙な解説でありますが、たとえば3R、5D、3S政策というものです。 
これについて、私に初めて説明した人の名前を今、記憶しないんですが、当時GHQにおりました参事官でガーデ
ィナーという、ちょっと東洋流の豪傑のようなところのある人物からも直接聞いたことがあります。 それによると、3Rはアメリカの対日占領行政の基本原則、5Dは重点的施策、3Sは補助政策です。 3Rの第一は復讐(Revenge)です。
アメリカ軍は生々しい戦場から日本に乗り込んだばかりで復讐心に燃えていたので無理もありませんが、復讐が第一でした。第二は改組(Reform)。日本の従来のあらゆる組織を抜本的に組み替える。第三は復活(Revive)で、改革したうえで復活、つまり独立させてやる。抹殺してしまうのは非人道的だからというわけですが、この点、日本はアメリカが占領軍で有り難かったわけです。共産国だとどうなったかしれません。

 5Dの第一は武装解除(Disarmament)、第二は軍国主義の排除

(Demilitalization)、第三は工業生産力の破壊(Disindustrialization)で、軍国主義を支えた産業力を打ち壊すというもの。第四は中心勢力の解体(Decentralizaition)で、行政的には内務省を潰してしまう。警察も国家警察と地方警察とに分解する。そして財界では、三井総元方あるいは住友、三菱の総本社を分解する、つまり財閥解体です。第五は民主化(Democratization)で、日本の歴史的・民族的な思想や教育を排除してアメリカ的に民主化する。そのためにまず日本帝国憲法を廃棄して天皇を元首から引き降ろし、新憲法を制定してこれを象徴にする。皇室、国家と緊密な関係にあった神道を国家から切り離す。
国旗の掲揚は禁止する。教育勅語も廃止する。これにはかなり反抗がありましたけれども、GHQのひとにらみで駄目になってしまった。 新憲法も、あれを受け入れるならば、「日本が独立の暁には、この憲法は効力を自然に失う」という付則をつけておくべきであったのが、そういうことも何もしていない。ドイツなどは、それをちゃんとやったのです。これをやらなかった日本は、本当に間抜けというか、意気地なしというか、そしてアメリカ流のデモクラシーに則って諸制度を急につくり上げて、これを施行したわけです。これが5D政策です。

 それを円滑あるいは活発に行わしめる補助政策として3S政策があった。
 第一のSはセックスの解放、第二のSがスクリーン、つまり映画・テレビというものを活用する。それだけでは民族のバイタリティ、活力、活気を発揮することがないからかえって危ない。そこで精力をスポーツに転ずる。これをうんとはやらせる。スポーツの奨励、これが第三のS。これらを、3Rの基本原則と、具体的な5D政策の潤滑油政策として奨励した。なるほど、これはうまい政策でありまして、非常に要を得ておる。これを3R・5D・3S政策というわけです。
 こうした占領政策を施行された時に、日本人は堂々と振る舞うと思ったのですが、案に相違して、我も我もとGHQ参りを始めました。特に公職追放が行われてから後は、表向きの人々はGHQ様様で唯々諾々(いいだくだく)として「命これに奉ずる」という有り様でした。そこへゆくと、同じ敗戦国でもドイツ人は違っていました。彼らは、なにしろ昔から勝ったり負けたりを繰り返してきているから、たまたま負けても動ずるところがない。ですから、占領軍が命令しても悪いことは堂々と拒否する。日本人は唯々諾々、直立して「イエス・サー」と言うからイエスマンと言われたが、ドイツ人はこういうふうですから、ノーマンです。占領軍は初めのうちは日本人を可愛がり、ドイツ人を憎みましたが、しばらくすると、「日本人はつまらぬ、骨がない」と軽蔑し、逆にドイツ人を「しっかりしとる」と褒めるようになったのです。        日本をまったく骨抜きにするこの3R・5D・3S政策を、日本人はむしろ喜んで、これに応じ、これに迎合した、あるいは、これに乗じて野心家が輩出してきた。日教組というものがその代表的なものであります。そのほか悪質な労働組
合、それから言論機関の頽廃、こういったものは皆、この政策から生まれたわけであります。 今日の日本の堕落、頽廃、意気地のなさ、こういう有り様は昨日今日のことではない。非常に長い由来・因縁があるということを考えないと、これを直すことはできません。 皆さんが今後起こってくる諸般の問題をお考えになるには、目先の問題をとらえた流行の皮相な理論では駄目でありまして、先ほど申したように、少なくとも明治以来の思考の三原則によって徹底した考察をなさらないと正解を得られない。今後の真剣な対策も立たないということを私は信ずるのであります。


---引用はここまでです---


ここからは知古嶋芳琉が書いています。

 日本という国がこうなってしまったというのも、原因があるわけで、そのお話しは、このお話しの前に、明治時代にまで遡って語っておられますので、順番が逆になりますが、講義録のページも溯って、以下に引用してご紹介いたします。

---ここからは明治時代に遡ってのお話になります---


■ 組織盛衰の原理


○ 明治・大正・昭和三代の盛衰


<「人間教育」を忘れた明治の失敗>


 明治の時代を考えますると、なるほど形の上においては、表現の世界においては、たいへんな成功をいたしました。これを試みに現代に徴しまして、スターリンやフルシチョフが叫びましたような「追いつけ追い越せ」、「ヨーロッパ、アメリカ文明に対して追いつけ追い越せ」も、中共の毛沢東らが呼号いたしました「大躍進」の号令も、これは皆さんご承知のとおり、とんと成功はいたしておりません。
先方の宣伝文書はえらいことを書いておりますけれども、冷静な観察者はよく知っていることで、ほとんど成功しておりません。これに対し、ひとり、それこそ嘘も偽りもない大成功をやってみせたのが明治の歴史であります。これはもう西洋の冷静な観察者が、世界の奇跡とまで手放しに褒めただけのことがあります。 

ところが、この大成功の陰に一つの大きな錯誤がありました。それは学校教育であります。教育の失敗であります。 それはどういうものかと申しますと、つまり幕末にペルリの来航を始めといたしまして、日本は西洋近代の科学技術文明に驚嘆した。その驚嘆は恐怖になり、恐怖はまた一面において畏敬になり、一面において反省になり、あるいは負け惜しみとか、今日申しますインフォリオリティ・コンプレックスというものの最も深刻な、最も大規模なものを明治の人物が体験したわけであります。 そこで、何はともあれ西洋に負けない近代文明を日本が作り上げなければならぬ。それこそスターリン、フルシチョフのように、追いつけ追い越せです。なんとかして一刻も早く追いつき追い越さなければならぬ。大躍進をしなければならぬ。それには人材が要る。けれども、そんな有能・有用な人物をいっぺんにつくるわけにはいかない。これは大学でしかつくれない。そこで急いで大学の予備校をつくった。これがいわゆる高等学校。その予備教育を中学においてやる。
その基礎教育、初歩教育を小学校でやる。つまり、上は大学から下は小学校まで、明治教育は、学校教育を主眼として、その学校教育においては、西洋近代文明の模倣・再現に役立つ知識・技術を早く修得させる。こういうことになったわけです。
 そこで、学課から目的から皆そういうことになりまして、人間を養う、徳性を磨くというようなことは付け足しになってしまいました。まあ一週間に一回、月曜の朝くらいに、校長先生が修身教科書をぼそぼそと話をするだけというようなことになったわけです。およそ、これは面白くないものでありました。我々もそういう教育を受けた。そして修身の時間というと、たいてい、あくびばかりしておったものです。
 人間には、これは人間学というものの根本問題の一つでありますが、要素ともいうべきものが、大きく分けると二つになるわけです。
 第一は、これがなければ、人間の格好をしておっても人間ではない、これあるによって人が人であるという、いわば本質的要素であります。それからもう一つは、あればあるに越したことはないが、ある、ない、というのは多少の程度の差で、しかし非常に大事なもの、これを前の本質的要素に対していうならば付属的要素というべきもの。それともう一つ付け加えれば、これは徳性という本質的要素に関連するもので、習性、習い性となる習性というものがあります。
 この本質的要素が、即ち人間の道徳性、徳性であります。それから付属的要素の代表的な二つが知能と技能であります。知識・技術であります。それから第三の、どちらかといえば徳性に準ずべきものが習性、すなわち躾(しつけ)というものです。 ところが明治教育というものは、学校教育一本ということになりまして、昔、徳川時代のような各藩における学校、郷学、そういう多様性、diversity、variety というものがなくなってしまって、非常に単一になって、そして大事な本質的要素を、人物・徳性というものを養うことは修身教育ぐらいになって、これがほとんど話しにならんことになってしまった。まだいくらか躾というものが残りましたが、全力を挙げて知能教育、技能教育、すなわち知識・技術の修得になったわけです。 私自身よくわかるのであります。私は田舎の学校で、幼少の頃から四書だの、『日本外史』だの、『太平記』、『源平盛衰記』、『平家物語』といったようなもので育ったのでありますが、中学を終えて一高に入りまして、つくづく感じましたが、もっぱらここでは知識・技術教育でありました。ほとんど人間教育と
いうものはありません。それでも高等学校時代は、ちょうど中学と大学の中間で割合に自由でありまして、いろいろな教養の書物を勝手にむさぼり読んで、道徳がどうだ、文化がどうだ、宗教・信仰がどうだというようなことを自分で考えたり、友だちと話し合ったりする余裕がありました。これがたいへん人間をつくりました。
ところが戦後は、そういうものをなくしてしまいました。非常に簡易速成式になりました。それで、つまり明治・大正・昭和にかけての学校教育というものが、残念ながら人間教育をお留守にしてしまった。もっぱら知識教育、技術教育になったのであります。 そこで、明治時代はまだ旧幕府以来の余徳で、いわば先祖の財産で暮らせたように、それほど弱点を出さなかった。馬脚を現さなかったのでありまするが、しかしその間に、残念ながら昔と違って、できた人物というようなものが非常に乏しくなりました。もっぱら功利的・知識的な機械的人物、才人、理論家などが輩出したわけであります。その弊害が、つまり人間的な深さとか、あるいは躾とか修練というもののできていない、いわゆる人物・器量というもののできていない秀才、あるいはタレント、そういうものができてきまして、それが第一次世界大戦を転機といたしまして、明治は四十五年でありまするが、時代の流動的な本質内容から言いますと、第一次世界大戦が一つの転機、ターニング・ポイントです。
大正の中期です。それから今度の敗戦後のアメリカ軍の進駐管理に至るまでが一連の時期です。


<人間学の欠如が招いた満州事変>


 大正時代、第一次大戦が始まりますまでは、割合にその先祖の遺産でなんとかできたのであります。この第一次大戦が日本の非常な反省、試練になれば、日本はあそこで大きく自己を取り返せたのですが、この世界的大戦で日本は、ほとんど犠牲らしい犠牲を払わずに、戦争に便乗して大もうけをした。このときに日本に初めて成金というようなものができて、札びらが全国に舞ったわけであります。 

そこで昭和の初めになって、俄然として「昭和維新」ということが叫ばれるようになりました。ところが、理論闘争は非常に盛んでありましたが、明治維新と違ったことは、その中心人物たちがそういう伝統的な教学と修養というものをしていないので、(これは右派も左派も同様)、理論は達者で意気は盛んであるけれども、人間は練れておらぬ。したがって見識とか器量とかいうものはできておらぬ。この短所が第一次大戦後の日本で言いますると、大正・昭和の初期の革新運動、あるいは国家社会を混乱に落とし入れた。まだ国内は秩序を割合に維持しておりましたから、それが転じて満州に反映いたしました。ここに満州事変の勃発となったわけであります。 今、ああいう歴史的記録はたくさん本になって出ておりますが、こういう根本的、人間学的な観察といったようなものが案外に少ないのは、非常に残念な、かつまた非常に惜しい、かつ危険なことであります。この満州事変で、日本人は優れた天分や能力を発揮いたしまして、一応大成功をおさめたことは皆さんご承知のとおり。あざやかに張作霖政権を打倒して、関東軍およびこれに参加した志士たちによって、見事な満州革命ができたわけです。
  しかし、このときに根本的教養の欠如というものが大きな災いをいたしました。 というのは、これだけ深い関係にありながら、日本人がいっこうに本質的、深い意味におけるシナを知らなかったということであります。これは大いに惜しむべきことであります。率直に申しまするならば、今日なお日本人はシナを知らぬ、これは実に残念なことであります。私ども幼少のみぎりから漢学で育ち、ずっとシナの興亡の歴史を学んで、多くの中国人と何十年も付き合って往来してまいりました者から言いますると、今日の日本の指導階級、あるいは友好評論家階級ぐらいシナ中国を知らざること甚だしいものはない。知るといえども浅薄であります。これは残念というよりも危険なことでさえあります。
しかしこれはもう、つとに明治時代に始まっておることで、ヨーロッパやアメリカには現(うつつ)を抜かしてこれを尊敬し、これに模倣追随してまいりましたが、その反面に、衰えてついに滅びました清朝を代表として、シナへの軽蔑がシナの一切をも軽蔑することになりました。したがって日本人はヨーロッパやアメリカのことはよく知っているけれども、シナのことは何も知らぬ。こういうことになったのであります。その弱点と言いますか、その欠点が満州事変を失敗せしめ、ついにシナ事変を惹起し、大東亜戦争の惨敗を招くということになったわけであります。 そんなお話しをしておりますと、この問題だけでも長時間にわたりますので簡単に申しますると、我々は中国、中国と大正時代から言っておるのですけれども、中国という本来の名前は、黄河から揚子江までを言ったのであります。黄河以北、少なくとも長城以北は、これは中国ではありませんでした。
これは中国漢民族から申しますると夷狄(いてき:中国の黄河中流域に住む漢民族が外辺の異民族に対してつけた蔑称)の地であります。ご承知の東夷・西戎(せいじゅう)・南蛮・北狄(ほくてき)と申しまして、特に漢、中国の歴史は、たえずこの北狄、すなわち満州民族、あるいは蒙古族・トルコ族・チベット族といったような塞外民族の侵略と闘ってきた歴史です。これはシナの歴史をずっとお調べになるとわかることであります。万里の長城というものは、その塞外民族が入ってこられないようにしたものでありまして、秦の始皇帝より前からのことです。塞外民族を征服しようとしたようなことはほとんどない。やむをえず防衛上征伐したのであります。あの民族を追い払うだけのことが精いっぱいの歴史です。
彼らから言いますならば、長城以北は夷狄(いてき)の地、蛮族の地で、中国でないのです。今日のベトナムなどもやはり南蛮の地でありまして、これは、もともと中国でなかった。漢の武帝の頃から征討しましたけれども、中国扱いはしませんでした。 それで、たとえば張作霖が満州に立て籠もって、満州に彼らの理想とする王土を造って、王道政治を布いて、中原征服ということを考えなければ、満州に立派な王国ができて、彼は帝王の位にもつけたのであります。それならば漢民族、中華民国は敢えてこれと事を構えなかったのです。張作霖があんなに成功したのは、一に満州の諸葛孔明と言われた哲人政治家がおりまして、これは王永江(おうえいこう)という人であります。この人はシナの興亡哲学を十分に学んでおった人で、さすが諸葛孔明と言われただけの人であります。この人の努力によって満州が立派に治まって、張作霖があの大勢力をつくり上げることができたのであります。
この王永江(おうえいこう)は、張作霖に説いて、絶対に中原を侵してはならぬ、兵を挙げて関内に進めてはいかん、東三省に理想の王道国家を造らなければならぬ、ということを力説いたしました。これは、私もふとした縁から親しくいたしました。敬服しておった人でありますが、本人から直接その理論も聞きました。この人と、秋田の人で岩間徳也という人が義兄弟の契りを結びまして、シナでは義兄弟の道が肉親の兄弟以上に発達しております。そういう縁で私も親しくいたしました
けれども、この人が張作霖をあそこまで立派にしたのでありまするが、だんだん力がつくに従って、張作霖はどうしても北京に出たい。これは日本の田舎者が江戸に出たい、東京に出たいというのと同じことであります。あるいは田舎の議員でもしておると、衆議院議員になったり、内閣の大臣になったりしたいというのと同じことでありまして、どうしてもいわゆる中原を征するという。そして、ついに王永江(おうえいこう)と別れて、王永江(おうえいこう)はあきらめて隠遁してしまいました。怖いものがなくなったものですから、張作霖はますます横暴になって、そして兵を関内に進め、馮玉祥(ふうぎょくしょう)に反撃をくらって敗退して、帰り道に関東軍の謀略にかかって、ご承知のとおりの悲劇的最期を遂げたのであります。そして、ついに満洲は、わが関東軍によって制圧せられ、日本は満洲国というものを擁立したわけであります。
 そこで日本が、いわゆる王道政治、理想の政治を実現して、中原、すなわち中国に野心を持たぬということを堂々と声明して、漢民族を安心させれば、歴史は違ってきたのでありますが、その関東軍や、満洲の建国に非常な野心を深めた連中、あるいは、それに参加できなかった野心家、事を好む連中が、満洲をしてやったから、今度は北京を取ろう、上海を取ろう、ベトナムに行こう、どこにも縁のない者は豪州を征服しようなんていう、当時日本に建国病というものがはやりました。これが、国内革命をはかばかしくやることのできないテロリストをしてこのほうへ血道を上げさせることになりまして、とうとうこれがシナ事変となり大東亜戦争となって、ああいう悲劇的結末をつけたのであります。孫文などは、満洲は日本にまかせてもよい、ということを言っておった。
よく歴史の真理と政治学・哲学がわかっておれば、東洋の局面はすっかり変わっておったのでありますが、まことに千載の恨事というのは、こういうものだろうと思うのです。 それは一に、ほんとうの意味の学問がなかったということです。
いわゆる知識・技術というものはあったが、「人間学」というものがなかったということが一番の原因であります。


---引用はここまでです---


ここからは知古嶋芳琉が書いています。

いかがでしょうか?

安岡先生の警告は、今もなお現実の切実な問題であることに変わりはありません。

今なお、あのGHQの占領政策は、現代の日本に脈々と生きているのです。教育者たる学校の先生が「日の丸」を国旗とは認めず、「君が代」を国歌として認めず、式典においては起立もしなければ頭も下げないという。これはもう、まさに国賊の仕業であるにもかかわらず、厳罰に処せられたという話もないという体たらくであります。世界の片隅の島国とはいえ、あの大英帝国にくらべれば、一つの国として、法治国家の一つとしての統治がなされているとは、口が裂けてもいえない状況であります。これほどだらしなくて情けない国は、他にはないでしょう。

 私が尊敬する友人の中に、日本で生まれ、日本の高校まで進学して卒業した、韓国籍の友人がいますが、彼はこの現実を見て、絶対にありえない国、とても独立国家とはいえない国、異常な国、そんな日本には絶対に帰化しないと言っています。私と同じ日本で生まれ育った人ですが、韓国人としての誇り高き人物です。
彼らはこの日本に居る限り、普通の会社では雇ってもらえない人たちです。自ずと、自分の人生は自分で切り拓いていかなければ、本当に生き残ることができない人たちです。彼らの間では、「飯を食ったか?」というセリフが、いまだに、挨拶の決まり文句だという。そして、いまだに厳しい人種差別の荒波にさらされ続けているのです。そんな厳しい現実の中でも、彼はBMWのオープンカーを乗り回すようになったし、奥さんは真っ赤なアウディを所有しています。私が知り合った若い頃は、あまり裕福ではありませんでしたが、コツコツと地道に働いて、お客さまの信頼を獲得していった人です。最近は、そこまでお金を稼げるようになりました。

私は一人の日本人として、恥ずかしい思いを拭うことができません。彼の前に立つときは、アホな日本人を代表して、生き恥をさらしているように感じます。
情けないったら、ありゃしません。あらためて、身の引き締まる思いがいたします。



関連記事
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

最新記事
プロフィール

tourokurad

Author:tourokurad
FC2ブログへようこそ!

最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
アクセスランキング
[ジャンルランキング]
政治・経済
429位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
政治活動
195位
アクセスランキングを見る>>
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR