「ルーズベルト大統領の陰謀」チャールス A. ベアード





同じサイトからの引用である。
チャールス A. ベアード氏の著書紹介は、「ルーズベルト大統領の陰謀」である。



日本再生研究会SC
海外在住の日本人からの発言
ルーズベルト大統領の陰謀(その1)ー図書の紹介
2008/11/29(土) 午前 3:17
http://blogs.yahoo.co.jp/japanrebirth/4454355.html

日本再生研究会SC ル大統領陰謀説の根拠となった著書の解説 


Charles A. Beard (チャールス A. ベアード) 著
President Roosevelt and the Coming of the War, 1941(ルーズベルト大統領と1941年の戦争の到来)
Transaction Publishers, 2003 (Originally Yale University Press, 1948)
担当:目良浩一


まえがき

ルーズベルト大統領の太平洋戦争への陰謀説は広く伝えられている。彼は、第二次世界大戦に参加 する方法として、日本を窮地に追い込み、米英側に攻撃するように図ったとするものである。このような説を唱えるのは、単にBeard だけではなく、参考 文献に示す Tansill, Russett, Heinrichs などの著書もあるが、Beardの著作が、もっとも良く知られている。

しかし、ルーズベルト大統領は、世界恐慌の時期から第二次世界大戦の時期までアメリカの指導者として、アメリカを恐慌から救い、ナチや日本などの軍国主義 を倒し、アメリカの世界における指導的地位を確立した大統領であるので、アメリカ人の中で彼を非難するものは殆どいない。

ただし、Beard のこの著書は、極めて強い説得力を持っている。全体として、ルーズベルトは、抽象的発言が多く、物的証拠を残さないように行動をして いたようで、彼の考えが何処にあったかについては、極めて捕らえ難い状況にあったのだが、彼の周辺の人々の日記などから、陰謀説を否定することが出来ない ほどの説得力のある議論を展開している。

著者の紹介

Beard (1874-1948) は、20世紀前半の米国で最も尊敬されていた歴史家の一人であった。彼は、米国の最初の植民者が、思想的な観点からよりも経済的な理由で移住してきたとす る説を発表して、著名になった。更に、彼は、南北戦争も、経済的な利害の対立から起こったとする説を発表した。彼は、ルーズベルトのNew Deal 政策の熱烈な支持者であったが、アメリカの孤立主義を信奉していた。従って、米国の世界大戦参加には反対していた。この著書は、ルーズベルトの外交政策へ の痛烈な批判である。

著書の主旨

ルーズベルト大統領は、1940年に三選を達成した後、ドイツとの戦争に加わろうとしたが、 それがならず、日本をそそのかすことによって、第二次世界大戦に参加することが出来た。その過程では、国民を欺くような行為があり、また戦争宣言の権利は 議会にあるにあるにも拘わらず、彼は戦争を引き起こしたので、彼は米国憲法に違反する行為を行なった。

2003年版への序文

この2003 年版には、Campbell Craig の序文が付いているが、彼はルーズベルトはアメリカの英雄であり、ナチスドイツと軍国日本を打倒し、戦後世界を指導する国を作った人であるから、 Beard の言うような理由で非難することは出来ないとしている。陰謀があったこと自体は認めるが、Beardの信奉していた米国の孤立主義は到底擁護できないの で、問題は、彼の決定が基本的に正しかったかどうかが問題なのであるとしている。

著書の概要

著書は三部から構成され、第一部 外観、第二部 事実の発覚、第三部 真珠湾書類の示すもの となっていて、同じ事実を三度 検証するかたちとなっている。
長さは614ページ。

第一部 外観
1940 年末に三選されたルーズベルト大統領は、1939 年にヨーロッパで起こった戦争にアメリカを参加させないという公約と掲げて、それを実行する道徳的責任を持って、1941 年を迎えた。具体的には、彼は次のように声明した
“We will not participate on foreign wars, and we will not send our Army, naval, or air forces to fight in foreign lands outside of the Americas, except in case of attack…..The direction and aim of our foreign policy has been, and will continue to be, the security and defense of our own land and the maintenance of its peace.”
戦争に参加しないという公約は、共和党の候補者からも表明された。
1941 年1月に 大統領は議会に、ヨーロッパの連合国に、武器、弾薬、戦闘用具を貸与(Lend-lease)する計画を発表した。国際法では、一国がある戦争 中の特定国に武器などを供与すれば、それは戦争行為であると解釈される。しかし、米国はこの国際法の適用に強く抗議していた。1月10日に提出された Lend-Lease Bill は、大統領だけで武器などの供給先と決め、支払い方法についてもすべて、独断で決定できるものであった。この法案は、いくらかの修正を受けた後、3月12 日に議会を通過した。しかし、武器を、例えば、英国に輸送する際に、米国海軍の軍艦が護送 (convoy) するとなると、ドイツの潜水艦に襲撃されて、戦争に巻き込まれる恐れがあることで、この法案から「護送」は削除された。法案成立後も、この議論が続いた が、ルーズベルトは、護送(convey) ではなくて、監視(patrol) であると言って、逃れた。

1941 年8月14日、ホワイトハウスは、ルーズベルト大統領と英国首相ウィンストン・チャーチルが大西洋で会見し、その会見内容と、そこで合意された大西洋憲章 を発表した。発表によれば、会見内容は、ヒットラーの支配するドイツとそれに賛同する国々が世界文明にもたらす危険性を考慮し、それぞれの国が取っている 対策について、意見の交換をした。大西洋憲章では、以下の原則を宣言した。
1.両国ともに、領土などの拡大を求めない
2.居住民の自由意志に基づかない領土の変更はしない
3.政府の形体は、居住民が選ぶべきで、その権利が奪われている場合には、それが回復されるべきである
4.経済の発展に必要な通商や原材料への取得はすべての国に保証されるべきである
5.すべての国は協力して、生活水準の向上を目指すべきである。
6.ナチスドイツの崩壊後には、すべての人が恐怖や飢餓から解放されることを望む
7.そのような平和な状況の下では、すべての人は自由に航海できる
8.すべての国は、武器を放棄し、安全が保証される恒久的体制の下で活動するようになることを望む

この会見について質問されたルーズベルト大統領は、そこでは新しい約束は何もしなかったと言明した。

その後、アメリカの軍艦は、ドイツとの交戦状態になりかけた事件があった。9月4日、米国駆逐艦 Greer がIcelandに行く途中、ドイツの潜水艦らしきものに攻撃された。Greer はそれに応戦した。ドイツ側は、Greer の方から攻撃してきたと抗議した。この件は、ルーズベルトのドイツへの警告で終了した。10月17日、海軍省はU.S.S. Kearny が魚雷攻撃を受けたと発表した。大統領は10月27日に「アメリカは攻撃された」とする演説をした。しかし、直ちに上院の海軍委員会が調査した結果、 Kearny は攻撃を受けたときには、すでに交戦状態であったことが判明した。従って、この事件は宣戦布告にはつながらならなかった。

それまでは、アメリカの指導者はヨーロッパの戦争に注目し、日本を戦争の対象とは考えていなかった。しかし、日本は1940 年9月27日に三国同盟を結び、ドイツとイタリアと結合した。多くのアメリカ人は、日本との問題は、アメリカが強く出ることによって解決できると考えてい た。1941 年7月25日、大統領は米国内の日本の資産を凍結した。彼は、それは単に米国内の資産が、アメリカの国益に逆らうように使われるのを防ぐためであると説明 した。その前日、24日には、大統領は、日本は石油の輸入が止まると、オランダの東インドに出てゆくと声明しているので、彼は、日本の外国への進出を誘っ たのかもしれない。8月初旬には、日本がABCDに包囲されているの情報が、出回った。大統領は、8月の大西洋会議で、日本についてどのような議論をした か全く説明しなかった。しかし、チャーチル首相は8月24日に、米国の日本との関係がこじれてくれば、英国は躊躇せずに、米国の側につくと声明した。

8月29日に野村大使は大統領に、近衛首相からの親書を手渡した。大統領は返答をすると声明したが、その時期や内容については明らかにしなかった。大統領 からの回答がない中、近衛内閣は10月16日に倒れた。国務長官ハルは、11月22日に英国、中国、オーストラリア、オランダの代表と協議をした。日本と の協議には、前進はなかった。11月26日に、ハルは野村大使に、後にハル・メモとして知られことになった書類を渡した。11月29日大統領は、短い声明 を発表し、その中で近く戦争が起こるかもしれないことを示唆した。12月6日の夕方に、大統領は、天皇に当てて平和を守るよう電信を発信した。

1941 年12月7日、日本軍が真珠湾の米国海軍を攻撃した。12月8日には、ルーズベルト大統領は、「昨日、12月7日に、その日の汚名は長く残るでしょうが、 米国は突然、また計画的に日本帝国の海軍と空軍に攻撃された。」と声明した。12月18日には、大統領は、5人からなる委員会を任命し、ハワイの指揮官の 責任を追及することを命じた。ロバート委員会と言う。(続く)


ルーズベルト大統領の陰謀(その2)
2008/11/30(日) 午前 10:37
http://blogs.yahoo.co.jp/japanrebirth/4546442.html

日本再生研究会SC ル大統領陰謀説の根拠となった著書の解説 (続編)


Charles A. Beard (チャールス A. ベアード) 著
President Roosevelt and the Coming of the War, 1941(ルーズベルト大統領と1941年の戦争の到来) (その2)
Transaction Publishers, 2003 (Originally Yale University Press, 1948)
担当:目良浩一

第二部  事実の発覚
日本の真珠湾攻撃はSurprise Offensive であったかどうか? 米国は、12月7日の攻撃が、平和のための協議をするという口実で交渉を続けていた最中に起こったので、ル大統領は、それは米国を欺 いた計画的攻撃であったと声明した。しかし、何人かの米国政府高官はその前に危険が近づいているということを言っていた。

米国議会の真珠湾に関する合同委員会は、1942 年1月24日に以下の調査結果を発表をした。アメリカの現地{ハワイ}の司令官は11月27日までには、警戒するように告げられていた。また、チャーチル 首相は、1942 年1月27日に8月の大西洋会議で、日本の件は議論された、そして、ルーズベルトは、戦争になれば、アメリカは英国を助けることを約束した。また、 Davis & Lindley の著書によれば、ルーズベルトはチャーチルに、「日本との戦争は3ヶ月くらいは延ばせるよ」と言ったとされている。また、国務省が1943 年1月に発表した Peace and War: United States Foreign Policy, 1939-1941には、国務長官のハルは、1941 年11月29日に「日本との外交交渉は殆ど終了した、この件は陸軍と海軍の士官にまわされるよ」と英国大使に告げたとされている。

1945 年8月29日には、陸軍と海軍の報告書が公開された。これらの報告書では、マーシャル元帥や国務長官ハルなどが責任者であるとしている。これらを根拠とし て、New York Daily News (August 31, 1945) は、ルーズベルトが、計画し、我々を戦争に送り込んだのだとする記事を掲載した。

第三部 真珠湾書類の示すもの
大統領が真珠湾における米軍の失敗の責任の所在を明らかにするために任命した Roberts Commission は、現地の司令官に責任があるとの結論を出した。その結論に、議会は疑問を持ち、1944 年6月13日に、両院が決議して、真珠湾の件について調査することになった。両議会は上院と下院からそれぞれ5人ずつ、6名の民主党議員と4名の共和党議 員で構成され、1946 年7月29日に報告書を完成した。民主党員に一人の共和党員が加わった多数意見と残りの共和党議員がまとめた、小数意見の二つの結論が提出された。それら の結論は以下の通りである。

多数意見:政府高官には、何の手落ちもなかった。ハワイの両司令官は判断を誤ったが、任務の怠慢ではなかった。
少数意見:大統領と戦闘閣議(War Cabinet) は、ハワイの司令官に警告情報を伝達することをしなかった責任がある。ハワイの防衛のために、それを警戒する十分な情報がありながら、伝達しなかった責任は下記の者にある。
FDR, President; Henry L. Stimson, Secretary of War; Frank Knox, Secretary of Navy; George C. Marshall, General, Chief of Staff of the Army; Harold R. Stark, Admiral, Chief of Naval Operations; Leonard T. Gerow, Major General, Assistant Chief of Staff of War Pans Division; and Commanders in Hawaii, Short & Kimmel. Cordell Hull not responsible.
この結論は、以下の根拠により支持されている。
1)日本政府からワシントンの大使宛の電報は、海軍の情報機関に12月7日の午前4:37に受信され、その翻訳文は9時には出来ていて、マーシャル元帥の 所に11時半には配達されていた。午後1時の攻撃開始時間にはまだ余裕があったにも拘わらず、元帥は現地の司令官に情報を伝えなかった。
2)大統領が任命したRoberts Commission は、MAGIC{日本からワシントンの大使館との交信の傍受、解読と翻訳} の情報なしに報告書を作成した。ハワイの司令官Short 大将と Kimmel 提督 に責任を押し付けるのが、この委員会の使命であったと思われる。 続く


ルーズベルト大統領の陰謀(その3)
2008/11/30(日) 午前 10:55

http://blogs.yahoo.co.jp/japanrebirth/4547545.html
日本再生研究会SC ル大統領陰謀説の根拠となった著書の解説 (続続編)


Charles A. Beard (チャールス A. ベアード) 著
President Roosevelt and the Coming of the War, 1941(ルーズベルト大統領と1941年の戦争の到来) (その3)
Transaction Publishers, 2003 (Originally Yale University Press, 1948)
担当:目良浩一

第三部 (続き)

ルーズベルト大統領は1937か1938年頃に、国のためには、戦争を避けられないと考え始め、どうやってアメリカ国民に、戦争をしなければならないと説 得するかと言う問題に取り組んできたと思われる。Franklin D. Roosevelt: An Informal Biography の著者の Alden Hatch によると、大統領が戦争をしなければならないと決心したのは、ヒットラーとスターリンが条約を結んだ 1939 年8月23日から2・3週間のうちであると言う答えが圧倒的に多かったとしている。例えば、Kimmel の前に太平洋艦隊の司令官だった Admiral James O. Richardson は、1945 年11月の議会の真珠湾委員会で、彼が1940 年10月に大統領に直接に会見したところでは、大統領は確かに日本との戦争を想定していたと述べた。
当時、戦事省の長官であったHenry L. Stimson の1941 年の日記には、以下のような記述がある。
11月6日:大統領は日本と6ヶ月の休戦を提案したが、Stimson は反対した。
11月7日:大統領は、もし米国が太平洋の東南部で日本軍を攻撃したら、アメリカ国民はその政府を支援するかどうかについて、閣議の意見を聞いた。全閣僚は、政府を支持すると答えた。
11月25日:戦事閣僚会議(War Cabinet)で、大統領は次の月曜日の12月1日にも、アメリカは日本に攻撃されるらしい(U.S. is likely attacked by the Japanese as soon as next Monday)と発言した。そして、いかにして、われわれは大して被害を受けないようにして、彼らが最初の弾丸を発射するようにするにはどうすればよいか と言う問題が提起された (How we should maneuver them into the position of firing first shot without allowing too much danger to ourselves?)
11月26日(ハル・ノートが渡された日):国務長官ハルは、Stimson に伝えた「私はもう休戦の件について決心した。日本にはもう他に提案するものは何もないと伝えるよ。」
11月27日:ハルが日本との関係についてStimson に次のように言った。「私はもう手を洗った。これからは貴方と Knox , 即ち陸軍と海軍の扱う問題なんだよ (I have washed my hands of it and it is now in the hands of you and Knox – the Army and the Navy.)
12月7日:今ではすべての問題を、日本がハワイを直接攻撃することによって解決してくれた。私の最初の気分は、決断が出来ない問題はなくなって、国民が すべて団結する形で危機が来たという安心感である (Now the Japs have solved the whole thing by attacking us directly in Hawaii…My first felling was of relief that the indecision was over and that a crisis had come in a way which would unite all our people..)

1941 年1月から9月までのChief of Naval Operations, Admiral Harold R. Stark の手紙からも、海軍が戦闘に備えて、大西洋でも、太平洋でも、十分な警戒をしていたことがわかる。1月29日には、ワシントンで米英の陸海軍の合同会議が 開催され、戦争計画が検討された。4月には、オランダも参加して、シンガポールで戦争計画が練られた。

1943 年7月に発行された国務省の Peace and War と称する公式記録によると、大西洋会議から帰還したばかりのルーズベルト大統領は、1941 年8月17日に日本の大使をホワイトハウスに呼び、次のように述べた。「米国政府は日本政府に次のように伝える必要がある。もし日本政府が隣国を武力か武 力行使を背景とした脅迫で持って、軍事的制圧の政策や計画をこれ以上に行うならば、米国政府は直ちに米国とその国民の権利と利益を守り、米国の安全を確保 するために、必要なすべての手段を直ちに取らざるを得なくなる。

その日に、野村大使は大統領に近衛首相が太平洋のどこかで大統領と会見したいことを伝えた。大統領と国務長官はこの申し出を検討すると応えて、その後で、 会見の前に、会見の成功のために首相はある原則について事前に合意する必要があるとした。9月6日、首相は米国大使 Grew にアメリカの保持している4原則を支持すると伝えた。しかし、大統領と国務長官はそれでは十分ではない、他の条項も必要であるとして、承諾しなかった。し かし、何が必要であるかについては、明らかにしなかった。Grew は、9月29日に日本は問題を外交交渉で解決する機運にあるので、ワシントンにこの機会を捉えて、決着するように迫った。そのうち、10月16日に近衛内 閣が辞職し、東条英機が総理になった。東条は来栖特使を送り、AB案を提出するように指示した。この内容は大統領にMAGICによって、伝えられていた。 A が却下され、Bが検討された。大統領は暫定協定を提案した模様であるが、ハルは、英国、オランダ、オーストラリア、中国政府と協議した後に、11月 26日にあの有名なハル・メモを大使に渡した。
その前日、25日に、War Cabinet はホワイトハウスで会合を開き、例の発言があった、”The question was how we should maneuver them into the position of firing the first short without allowing too much danger to ourselves.” 27日に戦争警戒指令がハワイの Short 陸軍大将と Kimmel 海軍大将に送られた。12月6日午後9時30分、大統領は、東京から野村大使に送られた宣戦布告に関する電信の翻訳版を受け取ったが、現地司令官に警告を 与えることはしなかった。

8月17日のル大統領の日本への警告では、日米間の和平の条件として、日本軍の中国やインドシナからの撤退は含まれていなかった。11月20日に討議され た日本のB案では、「それ以上の軍事的制圧について」は日本側は交渉によって決めることを提案していた。しかし、11月26日のハル・メモでは、日本軍が 中国とインドシナから完全撤退し、中国では、蒋介石政権しか認めないことを強く要求している。明らかな米側の要求の硬化である。それによって、日本側は、 奇襲攻撃を実行することを決定した。

ル大統領は、このような米国軍隊が攻撃を受けたという事実を作り上げて、議会に宣戦布告を要求したのである。このような事態になれば、議会としては、選択 の余地がなくなる。Beard は、このような、大統領の権力の事実上の拡大は、議会に宣戦布告の権限を与えた米国憲法に反すると大統領を攻撃した。

参考文献

Charles A. Beard, President Roosevelt and the Coming of the War, 1941 (original1948)
Charles C. Tansill, Back Door to War: The Roosevelt Foreign Policy 1933-1941 (1952)
Bruce M. Russett, No Clear and Present Danger: A Skeptical View of the United States Entry into World War II, Westview (originally 1972)
Waldo Heinrichs, Threshold of War: Franklin D. Roosevelt and American Entry into World War II, Oxford (1988)

読後感
1. 著者は、ルーズベルト大統領が、密かに戦争参加を計画し、参戦に成功した過程を、詳細に、信頼できる記録によって説得的に、記述している。ル大統領の陰謀説を疑うのは、困難であろう。
2. ドイツは、巧みにアメリカ軍が誘った攻撃の機会を避けて、米国を戦争に巻き込むことはしなかった。
3. 真珠湾事件の真相解明が、多次元で行われたことに注目すべきであろう。そして、解明の結果が、それぞれ異なった結論に落ち着いたことに注目すべきである。それらの委員会が如何に政治的な思惑に左右されたかが理解できる。
4. 著者は、英雄的な大統領を誹謗したとして、厳しい批判をうけ、出版後、間もなく失意うちに、死亡した。確かに、その後は、大統領の指導力は拡大している。それが好ましいかどうかについては、意見が分かれよう。
5. 陰謀説自体は、著者への非難にかかわらず、生き延びている。かなりの人は陰謀ではあったが、偉大な決定であったと思っているかもしれない。















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