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「国家の輪郭」としての靖国神社 — 首相の靖国参拝に求められる「論理」について

>「真実を見つめ、明日を正しく読み取る」言論ポータルサイト

と言う表題が付いている。言論の内容は記事を見るとして、他の論文も目を通してみたが、
何かしら不満足な結果であった。それでも、この川端祐一郎氏の手になる論文の評価は価値が下がるものではない。

社会学者としての筆者の見方には、様々に啓発させられる面がある。
一面のみを見ないと言う事には科学する者の当然の立ち位置であろう。

12月26日の安倍晋三首相の靖国神社参拝は、何かしらのインパクトで日本人の心を打った。
そして、筆者は指摘しないが、「A級戦犯は日本国にはいない」と言う共通認識が生まれた事は特筆に値する。

米国政府の反応に、日本人が何を見たかが、大きな政治問題である。
韓国外相がアメリカを訪問したが、アメリカの対応は見物である。その点で、外交問題と政治問題の
趣旨は、国民意志と乖離すると判断する。

すべては、政治家も国民意志の上に行動する事が、民主主義国家の責務である。
安倍晋三首相とて、例外ではない。

そうして、良く見れば、筆者の立ち位置は、一歩踏み出した日本人の説明には及んでは居ない。

旧来のしがらみに存在する墓碑銘のような朦朧さを兼ね備えている。

ネットで、首相の靖国神社参拝を歴史的と呼称するのは、この日本人の新たな意識とも言うべき事象に
注目すべき事なのである。

9.「国家の輪郭」としての靖国神社
>1. 靖国神社に祀られている英霊は、国民の生命を守ろうとして散った兵士たちであるが、その一方で彼らは国家によって死を強要された人たちでもある。


兵士たちを死に追いやったのは、アメリカ軍兵士であろう。当然の事をさも別のことのように言うのは、
沖縄の悲劇と同等である。では、国家の強制がなかったら、生存を全うできたのか、知りたい。
中共が近隣諸国を圧迫し、日本国を恐喝しなければ、日本国は国防を強化する原因は無かった。

しかも、靖国神社は戦争を遂行する機関ではない。
文章に記されている戦争と言うものに画一的な思考が存在しないか、注意が必要である。
靖国神社を参拝する事で、過去の戦争の反省は為しえない。これもまた、自然な感情の発露である。

>10.特攻隊はなぜ我々の心を打つのか

現在の自衛隊員は志願兵である。それでは、全ての自衛隊員は戦争を欲求しているとの証明にはならない。
人殺しがしたいから、自衛隊員になったと言う流説は、自衛隊員を貶める事です。

11.靖国神社は「ナショナリズム」を理解するための鍵である

>文化寄りの象徴が天皇で、政治寄りの象徴が靖国神社だと理解できる

そんな、現実離れした話は存在しない。
日本国憲法の悪い点が、前文に始まる。条項の薄い順が都合の悪い点ではないでしょうか?
憲法9条が現実と衝突する機会が多いために注目を浴びていると言うのが、真実ではないでしょうか。

東大卒の憲法学者が憲法解釈を垂れるために、憲法の姿が、素人に暴露されて来たと言うのが、
憲法論議の真実では?

同じ様に、歴史問題の解明も、学者よりも素人が疑問に駆られて表明して来たと言うのが実態ではないのかと思う。
「逆説の日本史」が面白いのは、筆者の力量にもよるが、専門の歴史家が為せない想像によるからでは、
と、感じる。



asread
http://asread.info/archives/332
「国家の輪郭」としての靖国神社 — 首相の靖国参拝に求められる「論理」について
2014-1-2
政治
コメント:5件
川端祐一郎

 安倍首相が、就任1周年を迎えるタイミングで靖国神社に参拝していたことが明らかになりました。政権発足から1年が経ったから参拝するとい うのは意味がよく分かりませんし、首相談話に言われるような「不戦の誓い」が靖国神社という場に相応しいのかという疑問はありますが、せっかくなのでここ で、首相が靖国神社に参拝するということの意味について考えてみたいと思います。
 長いので、もともと靖国問題に詳しい方は「7.靖国神社は『政治的』な施設である」あたりからお読み頂ければと思います。
1.いつも通りの反応
 毎度のことですが、中国政府は「強烈な抗議と厳しい非難」を表明し、韓国政府は「嘆かわしく怒りを禁じ得ない」との声明を発表しました。そればか りか今回はアメリカ政府も「近隣諸国との緊張を悪化させるような行動を取ったことに米国政府は失望している」と言い、国連も「過去から生じる緊張がいまだ に(北東アジア)地域を悩ませていることを非常に遺憾に思う」と批判しています。ついでにロシアや台湾やシンガポールも、憂慮の声を上げているようです。
 国内のメディアが、産経新聞を除いてほぼ「安倍叩き」一色となっているのも毎度のことで、目新しい内容のものはありません。
 批判の代表例としては、靖国神社の存在そのものを忌み嫌う朝日新聞が「戦前の靖国神社は、亡くなった軍人らを『神』としてまつる国家神道の中心だった。 (中略)その存在は一宗教法人というにとどまらない。あの歴史を正当化する政治性を帯びた神社であることは明らかだ)」(記事リンク)と書き、経済が大事だから外国と揉めるのはやめてくれと叫ぶ日経新聞が「いまの日本は経済再生が最重要課題だ。(中略)アベノミクスでも掲げた『アジアの成長力を取り込む』という方針に自ら逆行するのか。経済界には首相への失望の声がある」(記事リンク)と書いているのを挙げておけば良いでしょうか。
 産経新聞が首相の参拝を高く評価するのもお決まりのパターンで、要点をまとめると、
国のために戦死した人の霊に哀悼の意をささげるのは、ごく普通の自然な行為であり、世界各国の指導者に共通する責務である。
国や故郷を守るために戦った兵士たちが祀られる靖国神社を参拝することは、国を守る観点からも、首相の責務である。
靖国神社で戦没者の霊に祈りをささげるのは、日本の伝統文化であり心のあり方であって、外国から文句を言われる筋合いはないし、軍国主義とも関係はない。
かつては天皇や首相などの公式参拝がごく普通に行われていた。中国が文句を言うようになったのは80年代以降で、彼らの批判は後付けに過ぎず、単なる外交カードである。
靖国神社は、旧連合国や日本の旧植民地をはじめ、外国の要人も多数参拝してきた。リットン調査団やGHQからも参拝者があった。この歴史を見れば、靖国神社が日本における戦没者慰霊の中心施設であることは間違いない。
アメリカのアーリントン国立墓地には、南北戦争における南軍の将校も埋葬されているが、この墓地にアメリカの大統領や日本の首相がお参りしたからと言って「奴隷制度を肯定するのか」となじる者はいない。
 といったところです[*1]。
 [*1]「首相、靖国参拝 失望、抗議、怒り 厳しく」, 産経新聞, 2013年12月27日付./「主張 首相靖国参拝 国民との約束果たした 平和の維持に必要な行為だ」, 同./大原康男, 「正論 首相は今後も堂々と参拝重ねよ」, 同./百地章, 「正論 首相は英霊の加護信じて参拝を」, 産経新聞、2013年12月25日付.
2.「慰霊」という「国内問題」なのか?
 私自身は昔から、天皇も首相も定期的に靖国神社へ公式参拝すべきだと思っているので、産経新聞の参拝推進論のほうが正しいと思いますし、未だにA級戦犯を「犯罪者」だと思っているような連中に対しては、小林よしのり氏のマンガ『靖国論』や『いわゆるA級戦犯』でも読んで勉強しろと言いたいところです。
 しかし以前から、保守派の靖国参拝推進論には気になるところもありました。一つは、靖国神社に参拝することの意義として、戦没者の「慰霊」や「鎮魂」という穏やかな面ばかりが強調される傾向にある点。もう一つは、靖国問題を「純然たる国内問題」であるとし、中国や韓国からの批判を「内政干渉である」という言い方で退けようとしている点です。
 たとえば今年の11月に産経新聞に掲載された櫻田淳氏の論説では、「靖国神社参拝は本来、純然たる『鎮魂の行為』でしかないという説明を徹底させる」ことが、首相の靖国参拝に必要な前提条件の一つであるとされていました[*1]。
 また、9月には同じく産経新聞に、大原康男氏の「もともと首相の靖国参拝は国内問題だ。中国は外交問題化させているが、内政干渉というほかない。韓国で は毎年、伊藤博文を暗殺した安重根の追悼式を行っている。日本の初代首相の暗殺者を敬うことは日本人にとっては面白くないことだが、別に干渉したりはしな い。韓国内の問題だからだ」というコメントが掲載されていました[*2]。
 こうした言い方は、保守派の靖国参拝論の中では定番と化しているものです。首相が靖国神社を参拝するのは、戦没者を「慰霊」し、彼らへ「哀悼」の意を捧 げるためであって、これは軍国主義とは無関係な、人間としての自然な感情に発するものである。戦没者の慰霊は世界のリーダー共通の責務であり、その方式に ついては各国各様の文化に従うべきものである。したがって、靖国参拝は純然たる国内問題なのであり、外国がとやかく言うのは「内政干渉」に他ならないとい うわけです。
 もちろん参拝推進派は他にも色々なことを指摘しているのですが、ここ十数年の議論をみると、「自然な感情」論と「純然たる国内問題」論をもって、「中韓の批判を気にする必要はなし」と主張するパターンが多かったように思います。
 たしかに、靖国神社が「慰霊」(霊魂をなぐさめる)、「哀悼」(死を悲しみ悼む)、「鎮魂」(魂の動揺を鎮める)の場であるということ自体は間違いない でしょうし、もともと国内問題であったというのも正しい。60年代・70年代には靖国問題といえば主に政教分離問題だったのが、80年代になり、とくに中 曽根首相が「公式参拝」を宣言した頃に、突如として中国から批判されるようになったのでした。
[*1] 櫻田淳, 「首相靖国参拝への『3つの条件』, 産経新聞, 2013年11月19日付.
[*2] 大原康男, 「中国の批判はご都合主義」, 産経新聞, 2013年9月7日付.
3.慰霊や追悼には誰も反対していない
 ただ私は、「自然な感情」論や「純然たる国内問題」論では、首相の靖国参拝推進の根拠としては弱いように感じています。その理屈だけでは、「なぜ武道館の全国戦没者追悼式ではダメで、わざわざ諸外国に批判される靖国神社に参拝するのか」という指摘や、「一般の戦争犠牲者も合わせて慰霊できる、無宗教の国立追悼施設を新たに建設すべきだ」といった主張に反論するのが難しいと思うからです。
 今回の騒動でも、たとえば読売新聞はA級戦犯の合祀を問題視し、「今の靖国神社には、天皇陛下も外国の要人も参拝しづらい。無宗教の国立追悼施設の建立案を軸に誰もがわだかまりなく参拝できる方策を検討すべきである」(記事リンク)と主張しています。
 朝日新聞の主張をもう一度見直すと、「あの戦争に巻き込まれ、理不尽な死を余儀なくされた人たちを悼む気持ちに異論はない」としながらも、首相の靖国参 拝は政教分離の原則に反していると指摘しています。また、A級戦犯が神として祀られていることを考えると「あの歴史を正当化する政治性を帯びた神社である ことは明らか」だから、「首相がどんな理由を挙げようとも、この参拝を正当化することはできない」と言います。そして、「それならば、軍人だけでなく、空 襲や原爆や地上戦に巻き込まれて亡くなった民間人を含むすべての死者をひとしく悼むための施設を、新たにつくってはどうか。どんな宗教を持つ人も、外国か らの賓客も、わだかまりなく参拝できる追悼施設だ。」という話になっていくわけです(記事リンク)。
 日経新聞も、「赤紙で戦地に送られた多くの戦没者を悼むのは日本人として当然の感情だ。問題は靖国がそれにふさわしい場所かどうかだ」(記事リンク)という書き方をしていて、つまるところ、首相が戦没者の死を悼むのは良いのだが、だったら靖国神社ではなく別の場所でやってくれと言っています。
 毎日新聞にしても、「私たちは、国の指導者が戦没者を追悼するのは本来は自然な行為であり、誰もがわだかまりなく戦没者を追悼できるような解決策を見い だすべきだと主張してきた。しかし靖国は首相が戦没者を追悼する場としてふさわしくない。先の大戦の指導者たちがまつられているからだ」(記事リンク)という主張になっています。
 つまり、政治家が先頭に立って戦没者の死を悼むことには、べつに誰も反対していないわけです。「ただ、戦争の犠牲者に対する哀悼の意を捧げたいのであれば、わざわざ揉め事が起きる靖国神社でやるのはやめるべき」というのが靖国参拝反対派の論理なのです。
4.靖国参拝の積極的な意義
 靖国参拝推進派の「自然な感情」論や「純然たる国内問題」論は、反対派の批判に対して、「これは人間としての自然な感情に基づいてやっている平和 主義的な祈りであって、摩擦を生むのは本意ではない」という理屈で反論していることになります。小泉首相の参拝が問題化したときも同じでした。
 首相の談話については外交的配慮が求められるので、平和主義的な言葉が選択されるのも分かるのですが(それにしても、小泉首相の談話は最悪でしたが。)、一般の議論においてもそれでいいのかは疑問です。「摩擦を生みたくないのであれば、やり方を変えればいいじゃないですか」と言われてしまうと、反論しづらくないでしょうか。
 靖国参拝をめぐって生まれる「摩擦」としては、以下のようなものが代表的です。
1. 首相が靖国神社に公式参拝をすることは、憲法に定める政教分離の原則に反している。
2. 靖国神社にはA級戦犯が合祀されているが、彼らは戦争の惨禍をもたらした加害者なのであり、日本国民として彼らを神として祀ることは容認できない。
3. A級戦犯は日本軍国主義・帝国主義の指導者であったことから、彼らを祀る行為はアジア諸国民の感情をも傷つける。
4. 靖国神社には、主として軍人を祀る施設であり、戦争で犠牲になった一般市民を慰霊することができないから、戦没者慰霊の中心施設としては不適切である。
 これらの摩擦を理由に靖国参拝を批判する勢力に対して、「いや、我々は単に自然な気持ちから戦没者を追悼したいだけであって、摩擦を起こすのは本 意ではないから気にしないでくれ」と言うだけでは、説得になりません。また、今の20代・30代以下の世代の場合、ほとんどの人は靖国参拝を「自然な気持 ち」と言われてもピンと来ないでしょう。もっと積極的な形で「靖国参拝の意義」を語り、論理を組み立てていく必要があると思うのです。
 私はむしろ、「慰霊」や「追悼」という「自然な感情」に加えて、
1. 国家的行事において神道の儀式を担ぐこともある程度まで必要なことなのであり、
2. A級戦犯は我々日本国民にとっては犯罪者ではないのであり、
3. アジア諸国民に傷つくところがあったとしても日本には日本の正義があったと言わざるを得ないのであり、
4. 戦死した軍人は一般の戦争犠牲者とは異なる特別な存在なのだ
 ということを、首相の靖国参拝を通じて表現することに意義があるのだと理解すべきだと思います。もちろん政治家は言葉を慎重に選ぶべきですが、これらのことをある程度明確にしておかないと、議論がかみ合わないのではないでしょうか。
 さらに言えば、「こうした価値観は必ず誰かの癇に障るはずだが、それでもなお擁護すべき理由が我々にはある」と主張しなければならないはずです。靖国神 社は、後述するように日本のナショナリズムの象徴と理解すべきものなので、「哀悼の意」のような万人が理解できる普遍的価値観では説明し切れないのです。
 政治家やメディアがこのことを明確に主張できる環境にないのであれば、まず議論を積み重ねてその環境を構築するのが先決であって、首相が焦って靖国神社に参拝してもあまり意味はないでしょう。
5.靖国神社は「英雄」を讃えるための施設である
 数年前にベストセラーになった高橋哲哉氏の『靖国問題』と いう本は、靖国神社というのは戦死した兵士を「英雄として顕彰する」ための施設であると繰り返し強調していました。この本全体の趣旨はめちゃくちゃで、い わゆるトンデモ本の一種なのですが、靖国神社が戦没兵士を「顕彰」(功績を明らかにし、広く知らしめる)する役割を担っているというのは事実でしょう。そ して、このことがあまり強調されていない点が、保守派の靖国参拝推進論の一つの弱点であると私は思います。
 靖国神社に祀られているのは「英霊」、つまり「英雄たちの霊魂」です。戦争で死んだ兵士を「英霊」として祀るという行為は、「国家として讃えるに値する“特別な死に方”をした人たち」を選抜し、他の人たちとは差別化して記憶に留めるということを意味するはずです。単に、戦争の犠牲になったことが気の毒だから、その霊を慰めるというだけではあり得ません。
 その意味では今回の安倍首相の談話はけっこう正確で、「本日、靖国神社に参拝し、国のために戦い、尊い命を犠牲にされた御英霊に対して、哀悼の誠を捧げ るとともに、尊崇の念を表し、御霊安らかなれとこご冥福をお祈りしました。」と述べられています。国のために戦った人たちへの「哀悼の意」とともに、「尊 崇の念」が表明されているわけです。ここで「尊び崇め」られているのは、「国を守るために命を惜しまず敵と戦って死ぬ」という特筆すべき人生であり、それ に「名誉」を与えるというのが靖国神社の主要な役割の一つなのです。
 なお似たような意味合いで、前出の産経新聞の社説にも「国を守るという観点から」首相の靖国参拝は大事なのだと書かれていました[*1]。櫻田淳氏も昔、靖国神社は「兵士の士気」を支えるという意味で「安全保障装置」の一つであると論じていました[*2]。戦死には特別な価値があるとしなければ、戦えないというわけです。
 このように考えておかないと、「なぜ戦争では一般市民もたくさん殺されるのに、兵士ばかりを祀った神社を特別視しなければならないのか」という、参拝反対派の批判に答えられなくなるはずです。
 安倍首相の参拝の直前に産経新聞に掲載された百地章氏の論評には、「いうまでもなく、靖国神社はわが国における戦没者慰霊の中心施設である。それ故、首 相が国民を代表して靖国神社に参拝し、国のために殉じられた戦没者に対し感謝と慰霊の誠を尽くすのは当然のことであって、本来、政治的配慮などとは無縁な はずだ」と書かれていました[*3]。この言い方は保守派の決まり文句ですが、果たして靖国参拝という行為がそんなにヒューマニスティックで、「政治的配慮などとは無縁」と言い切れるものであるかは疑問です。
[*1] 「主張 首相靖国参拝 国民との約束果たした 平和の維持に必要な行為だ」, 産経新聞, 2013年12月27日付.
[*2] 櫻田淳, 「安全保障装置としての靖国神社」, 産経新聞, 2002年4月23日付.
[*3] 百地章, 「正論 首相は英霊の加護信じて参拝を」, 産経新聞, 2013年12月25日付.
→ 次ページ:「『外交問題』化するのは当然のこと」を読む
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6.「外交問題」化するのは当然のこと
 靖国神社が戦死者を「英雄」として祀る施設であることを考えると、その本質からして諸外国との間にわだかまりを生み出しやすい存在であるということがよく分かります。
 「中国・韓国による靖国参拝批判は、“内政干渉”に他ならない」と靖国参拝推進派は言うのですが、そもそも戦争というのは外国と戦うことなわけで、戦争 で死んだ兵士の魂に思いを馳せることを「純然たる内政問題」と理解するのは無理があります。靖国神社には、中国軍と戦って死んだ兵士が祀られていたり、大 日本帝国臣民として戦った韓国・朝鮮人の兵士も祀られているわけですから、諸外国(旧敵国と旧植民地)が「靖国神社においてどのような趣旨の儀式が執り行 われているのか」について関心を持つのも、自然なことであると考えるべきでしょう。
 もちろん人間には、済んだことは仕方がないものとして受け入れる寛容さが備わっており、この「寛容」の精神は国際社会のみならず我々の日常生活を安定的に営む上でも必須のものです。
 重要なのは、この寛容さというのは、「戦没者の慰霊は、相手国の国内問題だから気にしない」のではなく、「文句を言いたいことも色々あるが、殺し合った のはお互い様だし、今さら大騒ぎしても仕方ないからここは黙っておく」という性質のものだと理解することです。我々日本人も、原爆投下等についてアメリカ に言いたいことは色々ありますし、場面によっては文句を言って良いわけです。
 私は何も、首相の靖国参拝に抗議する中国や韓国の側にこそ正義があると言いたいのではありません。国家間には正義をめぐる衝突があるのが普通の状態だと いうことです。そして、戦没者の慰霊や顕彰というような行為は、もともと「正義」をめぐる対立を生みやすい話題だと考えるべきなのです。
 元外交官で京都産業大学の東郷和彦教授がインタビューに答えて、「自前の歴史認識を作る代わりに、日本は中国製の歴史認識を受け入れたと言われても仕方 のない行動をとりました。(中略)国際社会では反論しなければ受け入れたとみなされます。A級戦犯は国際的に日本軍国主義の象徴とされてしまった以上、反 論するにはよほどの覚悟が必要です」と指摘していましたが、その通りだと思います[*1]。
 寛容さというものは微妙なコミュニケーションの積み重ねの上に成り立つものなので、いったん問題化してしまったら単に「忘れましょう」といって解決でき るわけではない。現実問題として、1980年代以降「靖国参拝」は完全に外交問題化しており、外交問題としての歴史がすでに30年もあるのです。時計の針 を戻すことはできないのですから、「内政に干渉するな」の一言で片付けることはできないはずです。先にも述べましたが、たとえば大東亜戦争の「大義」を 堂々と主張できる状況にないのであれば、まずその状況の改善が先でしょう。
[*1] 「耕論 靖国参拝、信念の向こう側 東郷和彦さん、小田嶋隆さん」, 朝日新聞, 12月29日付.
7.靖国神社は「政治的」な施設である
 靖国神社が「戦死者を英雄として顕彰する」施設であることを考えると、靖国神社というのはその本質からして、純粋な宗教施設ではあり得ず「政治性」を帯びたものであることもよく分かります。
 神道の儀式を執り行っているわけですから、日本人の自然な宗教感覚と習俗に基づく文化であるという面もたしかにあると思いますが、靖国神社における戦没者の祭祀は、単なる「伝統文化」や「死を悼む感情」では説明できない性質を持っています。
 靖国神社における戦没者の合祀は、戦前は陸海軍省、戦後は厚生省が作成した名簿に基づいて行われてきました。じつは終戦後も、まだ合祀されていなかった 戦没者が数百万人いたので、厚生省がその事務を引き継いで「合祀されるべき戦没者」のリストアップを行っていたのです(A級戦犯についても同様で、国会図 書館が資料を公開しています。)。
 この名簿の作成に当たっては、たとえば戦病死や自決の場合のように、合祀に値するか否か判断が必要な場合もありました。いわば政府が、靖国神社に合祀すべきか否か、言い換えると「英雄」と呼ぶに値するかどうかを、特定の価値観に基づいて選別していたわけです。
 アリストテレスは「人間はポリス的(国家的≒政治的)動物である」と言い(『政治学』)、政治学者のカール・シュミットは、政治性とは「友と敵」の区別に関わるものだと言いました(『政治的なものの概念』)。 人間がつねに誰かと戦っていなければならないというわけではありませんが、特定の価値観を共有する者同士で団結し、異なる価値観を持つ者との間に距離を置 くという程度の意味での「政治性」は、人間社会の普遍的な性質です。首相の靖国神社参拝という行為は、「敵」と戦って死んだ英霊を顕彰しているわけですか ら、この意味での政治性を多かれ少なかれ帯びざるを得ないはずです。
 私は、首相の靖国参拝というのは、「戦没者の鎮魂」に加えて以下のような政治的含意を表現する行為であると考えています。
国家は、時として国民に、(友たるものの義務として)死を強要するものであるということ
国家は、自国の生存のために外国と戦火を交えることがあるということ
国家は、国家にとって特別に有意義な死に方と、そうでない死に方を区別するということ
国家が戦没者を顕彰する行為には、彼らの戦った戦争には「大義」があるということが含意されるということ
国家的行事には、国家にとって最も正統的と考えられる宗派の儀式が採用されるのであり、これは国民一人一人の信教の自由とは別問題であるということ
 なお「国家」には、文化的共同体としての「ネイション」という側面と、統治機構としての「ステイト」という側面があって、両方を合わせてネイショ ン=ステイト(国民国家)ということもありますが、ここでは簡単に両者をひっくるめて「国家」と呼んでおきます。国民という集団のことを指しているだけで も、政府機構を指しているだけでもない点に注意してください。
 首相の靖国神社参拝という行為は、慰霊や追悼という意味ももちろん込められているでしょうが、同時に上記のような政治的メッセージを、強かれ弱かれ体現するものだと理解すべきなのです。「同胞の死を悼む」という穏やかな側面を一方で持ちながら、他方では「政治的動物」としての人間社会の穏やかならぬ一面を表現しているわけです。
8.国家が持つさまざまな「二面性」
 上に挙げたような靖国神社の「政治性」を、おぞましいと感じる人もいるでしょう。しかしこの政治性は、我々が「国家」というものを形成して生きる動物である以上、引き受けざるを得ない「人間社会の本性」であると理解することが重要です。
 ところで、国家というものは、以下のように様々な意味で二面性をもった存在です。少し抽象的な議論になりますがお付き合い下さい。
1. 「生命の保護」と「死の強要」:我々は国家を形成することにより、共同で生命を保護する努力をしている。しかし一方で、国家は危機に臨んで国民に「死」を強要する存在でもある。
2. 「多様性」と「統一性」:国家は、国内文化の多様性を保護するための様々な制度を持っている。しかし一方で我々は、文化的な一体感をナショナリティとして共有してもいる。
3. 「国民の権利」と「国民の義務」:国家という共同体は数多くの法律的・慣習的ルールを有しており、我々はそのルール体系に従うことで、互いの権利 を尊重し合い様々な自由を享受している。しかし一方でその法律と慣習の体系は、我々の権利に一定の制限をかけ、義務を課すものでもある。
4. 「他国への依存」と「他国からの独立」:国家は他国との間で相互依存関係にあって、たとえば日本はエネルギー資源や食料の多くを輸入に頼っている。しかし一方で、あくまで国家は自らの独立した地位を保たんとするものでもある。
5. 「現実性」と「物語性」:我々の国家は、国土や文化的遺産や軍事力など現実的な実体を有している。しかし一方で国家は、「想像の共同体」(B.アンダーソン『想像の共同体』)とも言われるように、我々のイマジネーションや物語の共有によって成り立っている面も多分にある。
6. 「世俗性」と「宗教性」:我々は国家という共同体を、政治や経済などの世俗的な問題を解決するための枠組みとして活用している。しかしその一方で国家は、宗教感覚の共有と伝承を通じて、我々に「聖なる世界」への関わり方を教えてくれる存在でもある。
7. 「過去志向」と「未来志向」:国家という共同体は、過去の歴史を共有することで成り立っている。しかし一方で国家は、未来へ向かって共同で事業を行うプロジェクトチームとしての側面も持っている。
8. 「意思」と「運命」:国家が取る行動は、基本的には国民が意思を持って選択したものであると言える。しかし一方で国家の行動は、歴史の積み重ねや国際関係上の理由から、国民の意思を超えた「運命」のようなものに流されるようにして決まることも多い。
 我々が理解しなければならないのは、こうした様々な二面性の両面をきちんと捉えなければ、国家というものの本質を見誤ってしまうということです。人間が国家を形成し、国家の中で生き、国家を運営するとは、このような二面性の境界に立って、妥協点を見つけたりバランスを取ったりする努力を続けるということでもあるのです。
9.「国家の輪郭」としての靖国神社
 ところで、このように考えてくると、靖国神社というものが上述のような「国家の二面性」をきわめて明瞭な形で象徴している施設であるということに気づきます。
1. 靖国神社に祀られている英霊は、国民の生命を守ろうとして散った兵士たちであるが、その一方で彼らは国家によって死を強要された人たちでもある。
2. 国家が神道形式で戦没者の慰霊を行うからといって、国内から他の宗教を閉め出すということにはならないし、靖国神社にはキリスト教徒であった首相 や外国の要人も参拝している。しかし儀式を執り行うのである以上、特定の宗派を選択する必要があり(宗派の混合や無宗教という選択は、容易に「無意味化」 や「カルト化」につながります)、歴史の長さと民間習俗への浸透度合いから、神道が選択されていると考えることができる。
3. 靖国神社は戦争に関わる神社だが、戦争というのは「権利を守るために義務を果たさなければならない」局面の最たるものである。戦争に負ければ国民全体が様々な権利を失う可能性があり、それを避けるために国民は、義務を背負って全力を挙げて戦争に協力するのである。
4. 戦争というのは、他国との関係における「依存」と「独立」の折り合いが付かなくなる事態であり、またその折り合いを回復するための荒療治であるということもできる。靖国神社を通じて我々は、「依存」と「独立」のせめぎ合いの歴史を思い起こすのである。
5. 靖国神社という場で、我々は「戦争」という生々しい現実の出来事に思いを致すわけだが、一方で靖国神社は、兵士たちが「靖国で会おう」と言い残して戦場に散ったように、国民が共有する「物語」の大事な舞台でもある。
6. 靖国神社は戦争に関わる施設であり、戦争とは、政治や経済上の利害対立を契機として人間同士が殺し合うという、きわめて世俗的な出来事である。しかし同時に靖国神社は宗教施設でもあって、世俗の哀しみや怒りを聖なる世界へと昇華させる場でもある。
7. 靖国神社で我々は、過去の戦争について振り返るわけだが、そこに祀られている兵士たちは皆、日本国家の「未来」に希望があると信じて戦場に散っていったのである。
8. 日本が戦った近代の戦争は、もちろん日本人自身の意思決定の連続ではあった。しかし振り返ってみれば、グローバル化や帝国主義といった19世紀から20世紀の世界史の流れのなかで、運命としか言いようのない力学に突き動かされて推移した面もある。
 つまり靖国神社を通じて我々は、先に述べたような「国家」の持つ二面性を、ありありと認識することができるのです。靖国神社とは、国家にまつわるこうした二面性を、その境界において象徴する存在なのだと理解すべきでしょう。しかもそれは、比肩するものがなかなか思い当たらないぐらい、存在感のある象徴です。
 私はこの意味において、靖国神社は「国家の輪郭」を指し示すものであると言えると思います。首相が靖国神社に参拝することの意義とは、その「輪郭」をなぞることで、国家のありようを国民とともに再確認するという点にあるのです。
10.特攻隊はなぜ我々の心を打つのか
 ここで、少し参考になると思うので「特攻隊」に触れておきたいと思います。
 靖国神社は『英霊の言之葉』という、戦没兵士の遺書や遺詠をまとめた冊子を発行しています。私は19歳か20歳ぐらいの頃に、当時刊行されていたものには一通り目を通しましたが、どうしても「特攻」で死んだ兵隊の遺書には特別な重みを感じてしまいます。
 特攻で死んだ兵隊が、たとえば満州で戦病死した兵隊よりも偉いかというと、単純にそうは言えないでしょう。ではなぜ特攻隊はこれほどまでに強い印象を我々に与えるのでしょうか?
 ここで私は、靖国神社が「国家の輪郭」をその二面性の境界において鋭く表現しているように、特攻隊というものは、「国家を形成して生きる動物」としての人間を引き裂くさまざまな「葛藤」を、その境界において最も鮮やかに象徴する存在なのではないかと思うのです。
 たとえば、特攻隊が「志願」によって組織されたのか「強制」によって組織されたのかは、二者択一的に解釈できるものではありません。人間の精神はもっと 複雑にできていて、自発性と強制性はそう簡単に区別できないのです。「あれは志願制とは言っていたけど、実質的には強制だった」とよく言われますが、「単 純に強制することもできたはずなのに、一応は志願制という建前を取らなければならなかった」という点に重みがあるとも言えるわけです。特攻という出来事が 特筆に値するのは、そこに「個人の自由意思」と「国家による強制」の葛藤が最も激しい形で顕れ、衝突して火花を散らしながらも、最後には一つの決意として 昇華されたからではないでしょうか。
 また、特攻隊は「非合理的」な精神主義の産物だったと思われていますが、考えてみれば、人間が操縦して敵艦に爆弾を当てるというのは、当時の手持ちの兵 器の範囲内でいえば極めて「合理的」な発想であったと言うこともできます。特攻は、「精神主義」と「合理主義」の衝突を鮮やかに描き出す出来事でもあった のです。
 さらに言うと、特攻機に乗って出撃したパイロットは「人間」的であると同時に「機械」のようでもあるし、「勇敢な決意」とともに「センチメンタルな感 情」を書き残してもいるし、「私的」な感情としては死にたいわけがないのに「公的」な使命に身を捧げて死んで行った人たちなのでした。
 「特攻」とは、人間精神が持つこうした「二面性」が、最も過酷な形で顕れた瞬間だったのであり、だからこそ我々はいつまで経っても、特攻隊のことが気になって仕方がないのだと思います。
11.靖国神社は「ナショナリズム」を理解するための鍵である
 我々人間が、アリストテレスの言ったように本質的に「ポリス的(国家的≒政治的)動物」なのであり、国家(ネイション=ステイト)という枠組みか ら離れて生きることはできないのだとすれば、その本質を深く理解し確認するためにこそ、靖国神社のような「象徴」的存在が必要とされるのでしょう。靖国神 社は、ナショナリティやナショナリズムを理解するための重要な鍵であるという認識の上に、「靖国参拝の論理」を組み立てていかなければならないと思いま す。
 「象徴」とは、何か別のものを替わりに表現する「媒体」という意味であり、「記号」と言っても構いません。我々は象徴や記号を媒体として用いることで、 様々な物事を表現したり、理解したり、記憶したり、人に伝えたりしています。これと同じで、靖国神社という存在や、そこに首相が参拝するという行為には、 それを「媒体」として経由することで、我々がポリス的動物としての自らの本性を表現したり確認したりできるという役割があるわけです。
 なお憲法が定めるとおり、天皇も我が国の象徴です。天皇を「媒体だ」などと言うと右翼の人に怒られそうですが、天皇についても似たような解釈ができる可 能性があります。私はまだ詳しく考えていませんが、文化寄りの象徴が天皇で、政治寄りの象徴が靖国神社だと理解できるかも知れません。
 靖国神社を「国家の二面性を象徴する存在」として理解しておくと、これまでに行われた様々な論争が不毛に思えてきます。
 たとえば「政教分離」という問題があって、保守派は津地鎮祭訴訟の判決を引いて「憲法の政教分離規定に違反はしていない」と言い、左翼は愛媛県玉串訴訟の判決を引いて「違反している」と言います。しかしその前に我々は、国家というものがもともと世俗性と宗教性を併せ持つ存在であることや、信教の自由とともに国教的な儀式も大事なのだということを理解すべきなのです。
 また、首相の参拝が「公的」か「私的」かという議論もありますが、首相が参拝することの意義が、「国家の二面性」を表現し国民に確認させる点にあること を考えると、「公的」な参拝にしか意味はないということになります。首相個人が私的な感情として何を思っているかは、あまり重要ではありません。
 靖国神社が国家の「二面性」をその境界において象徴する存在なのだということは、どちらか一方の面を強調する勢力と、他方の面を強調する勢力との間で、 争いが絶えないのも当然です。保守派は、首相が「当たり前のこと」として「自然に」参拝できた時代はよかったと言いますが、国家というものがさまざまな 「二面性」の間で絶えず揺れ動く存在であることと、靖国神社がその象徴であることを考えれば、多少のわだかまりを抱えながら参拝するぐらいで丁度いいので はないかとも思います。むしろそうやって、境界の両側から言い争いを続けることで、国家のあり方に関するバランス感覚が身についていくということだってあ るかも知れません。
 そしてもし、こういう二面性を捉えるだけの思想の力や言論の環境を日本人がまだ持ち得ていないのだとすれば、焦って靖国神社に参拝してもあまり意味はないでしょう。参拝するしないで揉める前に、まず靖国神社に参拝するということの意味を深く考えることから始めるべきです。


川端祐一郎会社員
1981年生。筑波大学社会学類卒業。現在、京都大学大学院工学研究科博士後期課程に在籍。
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