ベトナム戦争 韓国軍による凄まじき「ゴダイの大虐殺」の証言
勇猛なる韓国軍人が、ベトナムでの優秀な戦記は、大虐殺の歴史であった。
そのいくつかは、知られている。
「タイヴィン虐殺」 犠牲者1200人 (1966.2.12 ~ 3.17)
「ゴダイの虐殺」 犠牲者380人 (1966.2.26)
「ハミの虐殺」 犠牲者135人 (1966.2.25)
「フォンニィ・フォンニャットの虐殺」 犠牲者79人 (1968.2.12)
ベトナム戦争 韓国軍による凄まじき「ゴダイの大虐殺」の証言
2014.03.20
http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20140320/frn1403201313001-n1.htm
ベトナム南部最大の商業都市ホーチミンから、飛行機で約1時間北上するとクイニョンに到着する。南シナ海に面したこの港町は今、静かなリゾート地として旅慣れた観光客の間で人気のスポットになりつつある。
そのクイニョンの中心地から、かつてゴダイ集落と呼ばれた農村部へと向かうと、リゾートの雰囲気は一変。そして気付かされる。ここがベトナム戦争時、韓国軍による「ゴダイの大虐殺」があった血なまぐさい戦場であったことを--。
ベトナム問題に詳しいフォトジャーナリストの村山康文氏は、先月末までベトナム戦争時の激戦地を訪れた。このゴダイ集落を訪れた時、韓国軍による大虐殺の凄まじさを知ったという。
その集落の村のひとつ、タイヴィン村があった場所には、現在、カラフルな壁画が建てられている。その鮮やかな色使いとは裏腹に、描かれている内容は悲惨そ のもの。軍服を着た兵士たちの銃口が火を吹き、銃弾が村人たちの体を貫く。火あぶりにされる裸体の女性の姿も描かれており、まさに阿鼻叫喚の地獄絵図だ。
“つり目”で表現された武装した軍人たち。彼らこそ、大虐殺の当事者である韓国軍である。右腕には、ゴダイ集落を襲撃した「猛虎部隊」の紋章である虎が描かれている。
集落全体では、1966年1月23日から2月26日にかけて、1004人の民間人が虐殺されたという。
15発もの銃弾を受けながら奇跡的に生き残ったタイヴィン村のグエン・タン・ランさん(62)が、当時を振り返る。
「韓国軍が村に来たのは朝9時ごろ。100人以上の歩兵が次々と村に入り、全25世帯、65人の村人を一か所に集合させました。韓国兵はその中から、年頃の娘を見つけると、彼女を集団から引き離し、村人の前で輪姦を始めたのです。
兵士たちに銃を突きつけられた娘はなす術なく、代わる代わる暴行されました。そして、最後の兵隊が事を済ませると、彼女を撃ち殺したのです。その一部始終 を見せつけられた村人が怒り狂い、韓国兵に襲いかかろうとしましたが、その場で射殺されました。韓国兵は私たちを1度に殺さず、数人単位で射殺していきま した。私の両親や親族も殺されました」
この壁画は、タイヴィン村での虐殺を忘れないための記念碑のようなものだという。その傍らにはゴダイ集落で虐殺された380余人の名前が刻まれた慰霊塔も建っている。そこには「韓国軍が行なった非道は忘れない」という内容の文字も書かれていた。
※週刊ポスト2014年3月28日号
韓国退役軍人 ベトナム戦争の殺戮暴いた新聞社に突撃し破壊
NEWS ポストセブン 4月4日(金)7時6分配信
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140404-00000002-pseven-kr
民間人に大量の銃弾を浴びせ、若い女性は強姦後に殺害――。ベトナムで残虐の限りを尽くした韓国兵の蛮行について、本誌は前号、前々号と2度にわたって現地からのレポートを掲載し、大きな反響を得た。
日本の読者に衝撃を与えたのも無理はない。そもそも、当の韓国社会でさえ、その事実が知られるまでには、多くの時間を要した。
きっかけは、ベトナム戦争終結から24年後の1999年5月、ハンギョレ新聞社が発行する週刊誌『ハンギョレ21』(1999年5月6日号)が行なった報道だった。
ベトナム通信員として活動していた韓国人の女性研究者が、ベトナム当局から資料を入手し現地取材と生存者への接触を重ね、韓国軍による殺戮の実態を白日の下に晒したのである。
この記事が当時、韓国社会に与えた衝撃はすさまじいものがあった。
同誌はその後も定期的に続報を打ちキャンペーンを張ったが、新聞やテレビなど大メディアによる後追い報道はほぼなかった。自国の暗部を暴いたことで保守層から大きな反発を招いたからだ。特に、ベトナム戦争に参加した退役軍人たちは同誌に対し、猛烈な抗議活動を行なった。
彼らの怒りが頂点を迎えたのが翌年(2000年)の6月だった。迷彩の戦闘服を着た約2400人もの退役軍人が、ソウル市内中心部にあるハンギョレ新聞社の前に集結した。
「ベトナム民間人虐殺の報道が、戦友たちの名誉を失墜させた」と主張し、同新聞社を糾弾するデモと集会を開いたのだ。
だが、集会後も怒りの収まらない一部の軍人たちが暴挙に出た。角材などを振り回しながら新聞社の社屋に突撃。窓ガラスを割り、デスクやパソコンなど編集部内の物を次々に破壊していったのだ。
韓国人ジャーナリストがいう。
「彼らの狙いは新聞社の制作機能停止でした。パソコンなどだけでなく、輪転機を破壊し電力供給線も切断。新聞や雑誌の印刷を停止させた。さらに新聞を運ぶ貨物車を炎上させたり、新聞代金の領収書の束を数千枚も積み上げ火をつけたりと暴徒と化していた。
彼らは“ベトコン(南ベトナム解放民族戦線の兵士のこと)を民間人だというハンギョレ新聞社は赤(共産主義者)だ!”という垂れ幕を掲げていた。殺した 相手は民間人ではなく、ベトコンだったと主張し虐殺を正当化したかったのでしょう。そこで、新聞社を自由主義の敵と見なし、暴挙に出たのです」
その場にいた新聞社の記者や従業員たちも暴行を受け、10人以上が負傷。社屋は彼らによって半日間占拠され、同社の幹部らは監禁された。
6000人余りの警察が投入されたことで、ようやく事態は沈静化。その後、暴力行為で4人が逮捕された。
この暴動の主体となった団体は、主にベトナム戦争の退役軍人で作られる『大韓民国枯葉剤後遺症戦友会』(以下、枯葉剤戦友会)だった。
この枯葉剤戦友会は朴槿恵(パク・クネ)大統領への絶対的な支持を表明している有力な政治団体だ。2011年に開かれた「枯葉剤戦友会14次定期総会」 には、与野党の多くの政治家が自ら出席を打診した。しかし枯葉剤戦友会から拒否され、唯一、招待された政治家が朴氏だった。
※週刊ポスト2014年4月18日号
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