ぼやきくっくり  支那人が支那人を殺す戦争!蒋介石の破壊と大虐殺





ぼやきくっくり
日本人は今、世界一、自分の国の歴史を知らない人たちになっている。自分の国の歴史を知らない人が、何で「国民」なのか。日本人の歴史を知らない人が、何で「日本人」なのか。(櫻井よしこさんの言葉)
http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid1356.html


支那人が支那人を殺す戦争!蒋介石の破壊と大虐殺
東アジア(歴史) | author : くっくり | 2013.03.30 Saturday
 先日、支那で2004年に行われた非公開アンケート(捕虜や婦女子を射殺できますか?)を拙ブログで紹介しましたが、アンケートを入手した「中国信息中心」の分析にこのような一文があったのを覚えておられるでしょうか。

 「中国人は中国人自身にも残酷で、情け容赦ない攻撃を加える。ましてや外国人に対しては説明するまでもないだろう」

支那01


 支那人は外国人に対してはもちろん、自国民をも攻撃する。

 彼らの歴史を見ればそういう事例はたくさんありますし(戦後は中国共産党による文化大革命や天安門事件が有名ですね)、資料もたくさん残されています。

 たとえば支那事変の際、当時現場にいた外国人が支那軍の残酷性について多くの記録を残していますが、中には支那人自身がそれを述べているケースもあります。
 
支那02


 中華人民共和国成立後、周恩来首相の下で副首相を務めた郭沫若(かくまつじゃく)という人がいます。

 日本との縁が深く、支那事変が起こるまで日本に長く住んでいました。
 支那事変が始まってのちは、国民党軍事委員会政治部第三庁の長官として文化宣伝に従事しました。

 その郭沫若が、昭和34年に日本で翻訳出版した『抗日戦回想録(原題『洪波曲』)』に、こう記しています。

【話だけでも胸の痛むことだ。あんなふうにわれわれは、やれ動員だ、やれ抗戦だといって、しかも毎日毎日「最後の勝利は必ずわれらのもの」などとくりかえしていたが、抗戦八年の間に、いわゆる壮丁(そうてい)から弱丁へ、弱丁から病丁へ、病丁から死丁へというふうにして踏みにじられた同胞の数は、戦死したり日本の侵略者に虐殺されたりしたものの少なくとも百倍以上はあっただろう。私はそういいきることができる】

支那03


 この記述を証明するものとして、まず、支那事変初期に起きた「黄河決壊事件」を取り上げてみます。
 蒋介石が実行した、一種の自国民大量虐殺です。

 この事件の記録を見れば、戦死したり日本軍に「虐殺」された同胞(支那人)の数よりも、自国軍に殺された同胞の数の方が100倍以上多かったという、郭沫若の主張が嘘ではないことが分かります。

支那04


[徐州作戦(隴海線方面)の戦闘経過と黄河氾濫地域。画像クリックにより新規画面で拡大されます]

 1938年6月。
 すでに河南省の開封(かいほう)を占領していた日本の北支那方面軍は、一部がさらに西の鄭州(ていしゅう)南方の平漢鉄路まで進出しました。

 慌てた蒋介石は日本軍を食い止めるため、中牟県というところで黄河の堤防を破壊しました。

 このため、濁流が東南の平原に流れ込み、周辺の村々だけでなく、安徽(あんき)省、江蘇(こうそ)省の一部を水浸しにしました。

 国民党政府は、日本軍の不意を突くため、大多数の住民に対しては事前に堤防の破壊を伝えない方針を決定していました。
 そのため住民らは逃げる時間もなく、たくさんの被害者が出ました。

 水死者は32万人とも100万人ともいわれます。この中には餓死者も含まれていると思われます。いずれにしろ、被害の程度については諸説あり、はっきりしたことは分かりません。

 また、水死は免れたものの、土地が水没したままで離郷を余儀なくされた住民も多数おり、この数も60数万人とも110万人以上ともいわれています。

 国民党は「黄河決壊事件は日本軍の砲撃で引き起こされたものである」「日本兵の被害は5000人」などと嘘の発表をしました。

 自作自演しておいて、それを敵の仕業だと内外に宣伝する、支那の伝統手法です。
 それに実際は日本側の被害も軽微なもので、水に囲まれて孤立した第十四師団でも洪水による死者は3名のみでした。

 が、国民党の説明にあまりにも無理があったため、各国メディアがそれをそのまま報道することはありませんでした。
 (Wikipedia>黄河決壊事件>各国メディアの報道を参照)

 ちなみにこの時、日本軍は住民の救助活動や堤防修理をしています。
支那05



[日本軍に救出された避難民。『支那事変画報』33号、「皇軍の慈愛/宣撫班員の活動」より(毎日新聞社、昭和13年7月11日発行)]
支那06



[被災地における日本軍の救助作業(同盟ニュース、昭和13年6月23日)]


 蒋介石軍に従軍し、黄河堤破壊現場を目撃したアメリカ人記者のジャック・ベルデンという人がいます。

 ベルデンは3年後の1941年の夏から秋にかけ、再びこの地方を訪れ、復興が進んでいるかどうか確かめようとしました。
 しかし、復興どころではありませんでした。
 
 その時のベルデンの記述です。

【来る日も来る日も、荒れ果てた土地、休閑状態の畑、朽ちて倒れかかった人の住まぬ 家が並んでいるのを、道を歩きながら見ていると、気が滅入る思いがした。まだひどい旱魃(かんばつ)が起っていないところが少なくなかったので、なぜ畑が 見捨てられているのかわからなくて困った。
 そのとき百姓たちは、国民党の徴税吏(ちょうぜいり)と蒋介石軍の徴発吏たちが収穫以上の穀物を要求するために、祖先の田地を立ち去ったのだとわたしに話してくれた。労働の果実がことごとく取り上げられてしまうだけでなく、要求された税に収穫が追いつかないために殴られたり牢屋にぶちこまれるのでは、どうして働くことができようか?】

 国民党は支援どころか、災害に苦しむ農民から苛酷な税を取り立てようとしたのです。
 そのため、農民は畑を放棄して逃げたのでした。

 しかもベルデンが立ち去った翌年、1942年には大干魃が襲いました。

支那07


 そしてその翌年、1943年の2月末から3月にかけて、今度はアメリカの雑誌『タイム』記者のセオドア・ホワイトが現地にやってきました。

 その時の様子をホワイトは後年に出した『歴史の探求』でこう述べています。

【死体があった。洛陽(らくよう)を出てから1時間も経たぬうちに、雪の中に横たわる死体があった。死後1、2日だろうか。その顔は頭蓋のまわりに萎(しぼ)んでいた。たぶん若い女性だったにちがいない。雪はその眼の上にも降り積っていた。埋葬もされぬまま、ついには鳥や犬が骨までしゃぶるだろう。
 犬どもも道端にたむろしていたが、狼の天性に戻ったか、毛並も艶やかでよく肥えていた。われわれは、砂の山から死体を掘り出している犬どもの写真を撮ろうと馬を止めた。なかには半分食べかけのもあったが、犬ははっきりそれとわかる頭蓋骨をきれいにつっつき終わっていた】

 このような残酷な場面を生んだ原因は、先にベルデンが聞き知ったのと同じでした。

【ちょうど近頃の世論調査員がやるように、毎晩私は土地の官吏と話したあと、克明に記録をつけた。そして私が得た結論は、中国政府がその人民を死にいたらしめた、あるいは愚かにも人民を餓死させたという一点に尽きた。政府は抗日戦を戦っていた。そのために情け容赦なく税を取り立てた。
 それも、政府が自国の紙幣を借用せず、戦地の政府軍は穀物などで税を取り立てて軍を維持するよう指示されていたのだ(ある将校は私にこういった。「たとえ民衆が死んでも土地は中国のものだ。だが兵士が飢え死にしたら土地は日本軍に奪われてしまう」)】

 ホワイトはこう続けています。

【河南省では、軍隊は土地の収穫高を上回る穀物税を取り立てた。文字通り田畑を空にしたのである。軍隊は、穀物が余っている地域から穀物を運んでこようとはしなかった。つまり人びとの食生活を完全に無視したのだ】

 さらにホワイトは、身の毛もよだつ恐ろしい噂を耳にしました。

【このような悲惨を私は見てきたが、耳にした最悪の話は人喰いの事実があるということだった。人 間が人間を殺して食べるなど、見たこともなかったし、まして人肉を味わったことなどない。だがこれは、論駁(ろんばく)の余地ない真実と見えた。たいてい の場合、人肉を死体からとるというのが、言い訳になっていた。われわれが記事にしようとした件はどれもこれも、それが弁解の手であった。
 ある村では、母親が2歳になる実の子を茹(ゆ)でてその肉を食べたことが発覚した。2人の息子を絞殺して食べたために告発されたという件もある。また、 貧しい子を預かるようにと軍に命令されて、ある農夫が8歳の少年を預かった。ところがいつの問にか少年の姿が見えない。調べてみると、農夫の小屋の傍の大 きなかめの中から少年の骨が出てきた。問題は、少年が死んでから食べられたのか、殺されたのちに食べられたのかという点だった】

 ホワイトの当時の推定によると、黄河堤の破壊のあと、洪水被害を受けた県には依然、800万人が生存していると思われました。
 しかし、彼の最終的な計算では、「500万人が死んだか、死につつある」と記されています。


 蒋介石の特に残虐なところは、人々をいったん安心させ、警戒心を緩めておいて騙し討ちにかける手法を繰り返し用いたことです。

 いくつもの例が記録されていますが、ここではもう一度、ベルデンの報告を見ます。

 ベルデンは実は第二次世界大戦終結後にも支那を訪れています。
 蒋介石の国民党軍と毛沢東の共産軍の間で始まった国共内戦の初期の頃のことでした。

 河南を訪れたベルデンは、蒋介石が民衆を騙し討ちにかけた事実に驚きました。

 共産軍が撤退してほとんど全県を国民党に明け渡した時、住民は地元にとどまって国民党軍を歓迎しました。

【紅軍(共産軍)から村を引き継ぐと、地主もしくは国民党の将校は民衆大会を招集し、大赦を宣告するのだった。「どの村では共産党の土地政策はとても良かった」、国民党はいつもこういうのだった。
 「われわれは何ひとつ変更しようとは思わない。われわれは、この村の村長、民兵の隊長、共産党のキャップをのぞいては、すべての人をゆるすつもりだ。だれでも、われわれをおそれる必要は少しもない。しかし、諸君のなかの一部の者は、共産党の宣伝によってまどわされている。諸君が村役場まで出頭して、悔恨(かいこん)状に署名しさえすれば、万事それでよいわけだ」。
 そこで、農民たちは出頭した。これ以上良いことはないと思ったので、かれらは村役場へ行って、自分が婦女会あるいは民兵に参加したことを認めた。そういうことをしても、何も悪いことが起こらなかったので、愚直な農民は罠(わな)にかかった。
 女房たちは亭主をときつけて、山のかくれ場所から帰ってこさせた。そして、活動的な農民がすべてふたたび村内に入ったと見たときに、国民党は悔恨状の署名者全部をしばりあげて、公然と処刑した。
 蒋介石は、抗日や反共に名をかりて、ヒトラーによるユダヤ人大量虐殺さえ顔負けの皆殺し(ホロコースト)を、自国民に対して働いていたのだ】


 話を支那事変に戻します。

 日本に戦争を仕掛けるに当たって蒋介石が採用した戦術は、いくつかの〝柱″から成り立っていました。

 まず、奥地(重慶)への退却と退却に際しての焦土作戦です。
 蒋介石は戦後、自著でこれをためらうことなく採用したと自慢しています。

 焦土作戦とは侵入してきた敵に利用させないよう、味方の人家や建物、各種施設に火を放ち破壊することです。

 したがって、住民は、家や生活手段を奪われ、焼け死んだり餓死したりし、自国民が最大の被害者になりますが、支那では伝統的な戦法でした。

 しかし、蒋介石の焦土作戦は常軌を逸し、たいていは無意味でもありました。

支那08


 1938年11月中旬、漢口を南に下った湖南省の大都市・長沙(ちょうさ)で、省長の張治中が強行したのは、無意味な放火の典型でした。

 日本軍が攻め込んでくるとの噂に怯え、事前の警告もなく、兵士を市街のあちこちに派遣してガソリンをまかせ、着火させたのです。

 この時、危うく焼死を免れたのが冒頭に紹介した郭沫若です。
 一時、長沙に滞在し、間もなく離れる準備を整えている最中に火の海に囲まれました。

 郭沫若はこの時に体験し、目撃した大火の模様、逃げ惑う群衆の哀れな様子を詳しく書き残しています。

【長沙に火をつけて焼き払ったのは、張治中とか藩公展とかいった人々の大いなる功労だった。彼らは一度奇功をたててみたい一心で、モスクワを焼いたクトゥーゾフを真似た結果が長沙市の大火になったのだ。
 だが、残念ながら、日本人は笑いものにするばかりで、ナポレオンを演じに登場してくれなかった。
 百万戸以上の人家を焼き、さらに統計にもれた傷病兵や病人や年寄りの市民を焼死させた責任は誰が負うのか?】

 この失態の責任を取らされ、警備司令の鄷悌(ほうてい)ら3人が銃殺されました。

 ちなみに、最高責任者の張治中は、周恩来が蒋介石をとりなしたので死刑を免れています。
 実は周恩来もこのとき長沙に居て火に囲まれ、間一髪で脱出し、直後は腹を立てていたのですが、自分が国民党に潜り込ませた隠れ共産党員の張治中を殺すわけにはいかなかったのです。

 (張治中は回想録の中で、周恩来に中国共産党への入党を申請したが、周恩来からは国民党にとどまり「ひそかに」中国共産党と合作することを求められた、と書き残しています)

支那09



 蒋介石は、自慢の焦土作戦を上海から南京に至るまでの戦場でも実行させました。
 しかも、支那兵は単に放火をしただけではありませんでした。

 日本軍が南京の近くまで押し寄せてから占領までの模様を、南京に居残っていたミニー・ヴォートリンという女性が記録しています。
 南京の金陵女子文理学院の教師(後に同学院校長)をしていた人です。

 彼女が『南京事件の日々』に記したところによれば、支那軍は周辺の村々から住民を連れ出したあと、村を焼き払いました。

 そして12月7日、何千人という支那人が安全区に入って来ましたが、彼らの話によれば、5時までに立ち退くよう警察から命令され、それに従わなければ家は焼き払われ、スパイとみなされるというのでした。

 ヴォートリンは家から離れざるをえなかった大勢の支那人が、空腹を抱え、寒さに震えている様子を、話を聞けた人たちの実名も挙げながら記しています。

 そして、「こうした作戦が仮に日本軍の入城を半日か1日遅らせるとしても、人々にこれほどまでの苦難を与えてまでもする価値があるのか疑問だ」と述べています。

 12月8日、日本軍の中支那方面軍は南京を包囲。
 12月9日、同軍司令官の松井石根は、支那軍に対し無血開城を勧告しました。
 しかし、支那軍が開城勧告に応じなかったため、12月10日に進撃を開始し、12月13日に南京城に入城します。

 日本軍が入城する前日、12月12日のヴォートリンの記述にはこうあります。

【防衛司令長官の唐[生智]には、麾下(きか)の部隊にたいする統率力が不足しているために、場内のほとんどの場所で掠奪がおこなわれているそうだ。(中略)
 いまや日本軍機は意のままに飛来しては爆弾をごっそり投下しているが、高射砲や中国軍機による反撃は何もない。犠牲がほとんど効果をあげていないとすれば、城壁外側のすべての家屋、それに内側の多くの家屋をも焼き払ったことは、とんでもない誤算であったと確信する。
 中国の貧しい民衆のほかにいったいだれが、このような破壊によって苦難をこうむるというのだろうか。破壊しないまま南京を引き渡したほうがよかったのではないだろうか】

【夜9時から10時にかけて陳さんと二人でキャンパスを巡回した。洗濯夫の胡さんと、彼の近所に住んでいる農民の朱さんは二人とも、まだ寝ていなかった。今夜彼らは、撤退して行く中国兵を怖がっている。というのも、家族のなかに若い娘がいるからだ】

 日本軍が入城した翌日の12月14日にはこういう記述が。

【夜明け前にふたたび城壁に激しい砲撃が浴びせられているようだった。おそらく、きょう主力部隊が進入するさいに、邪魔になる城門のバリケードを壊しているのだろう。ときおり銃声も聞こえた。たぶん、掠奪を働いている中国兵グループを日本軍衛兵が狙撃しているのだろう】

支那10


[カメラマン佐藤振寿氏が南京占領の2日後の12月15日、南京安全区にて撮影した写真。佐藤氏曰く「中国人は日本人カメラマンが行くと、積極的に子供をかかえて撮影に協力してくれる。日本兵や日本人を恐れていなかった」]

 支那兵が去ったあと、今度は支那の民間人による略奪が多発しました。

 ヴォートリンは、金陵女子文理学院理事会に提出したレポートの中でこう記しています。

【より貧しい人々は寝具や小銭さえも盗まれ、安全区にあってとても安全だった裕福な家の敷物やラジオや家具も盗まれつつある。私達は、12月17日頃から1月17日迄(この日に私は最後の火事を見た)のような大規模な焼却は見ない。
 現在の最も大きな悩み事は、「老百姓」即ち普通の人々による略奪が続いていることである。法も秩序も無いこの市のなかで、貧しい無法者は、どの家に入って欲しい物を持ってきても全く自由だと思っている。旧安全区の外では、多くの家が戸や窓や床までもすべてが盗まれている。
 ここ数日間、私は良質の戸と窓が売られているのを見たが、それは破壊が進んでいることを意味している。当然、私の中国人の友人はこの件に心を痛めているが、どうすることも出来ない】

 (ちなみにヴォートリンが教鞭を執っていた金陵女子文理学院に関しては、12月17日に日本兵が侵入して避難していた難民女性を多数強姦したと支那側が 主張しており、南京事件の映画では必ずこの描写を盛り込みますが、それが事実ではないことはヴォートリンのレポートの別の箇所に示されています)

 南京で放火、破壊、略奪、強姦を繰り広げたのは、はたして支那人か?日本人か?
 ヴォートリンの記録をご覧になった皆さんはどうお考えでしょうか。

支那11



 国民党軍による破壊行為は単に民家や建物の放火に留らず、農・工業生産施設、水運・海運、鉄道網などにも及びました。

 具体的内容が、1940年3月に南京特別市行政院宣伝局が発行した『中華民國維新政府概史』に掲載されています。
 
 それによると、蒋介石軍が南京陥落までに焦土作戦を強行した場所がわかり、主なものだけで、8つの郷村(鎮や県)が被害に遭っています。

 これにヴォートリンが述べた南京とその周辺を含めると、被害地域は上海から南京までおよそ300キロ、日本で言えば東京から豊橋までぐらいの区間に散在していました。

 日本語の『中華民國維新政府概史』は国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで誰でも見ることができます。

 たとえば、238ページにはこういう記述が見えます(現代語に改めています)。

【殊に蒋介石軍の兵車(へいしゃ)通過地域又はその駐屯地は、放火・掠奪・暴行・破壊と悪虐の限りを極められ、……農家は悉(ことごと)く被害を蒙(こうむ)り、甚だしきものは家屋農具は焼失、家畜・食料・種子は徴発され、農業生産に必要な一切のものを喪失するに至った】

支那12


[画像クリックにより新規画面で拡大されます]


 各地で狼藉を尽くした蒋介石軍が逃げ去ると、住民たちは安堵して隠れ場所から出てきました。
 そして、野蛮な蒋介石軍を退治した日本軍を歓迎したのです。

 それは南京でも同じでした。

 フリーアナウンサーの鈴木史朗さん(1938年2月生まれ)は3~4歳の頃、お父さんに連れられて南京に行った時、南京の人々が好意的に接してくれたという話を紹介しています。
 
 また、昨年、南京事件をめぐる発言で物議を醸した河村たかし名古屋市長も、南京で終戦を迎えたお父さんが南京の人々から温かいもてなしを受け、お礼に桜の木をプレゼントしたと話していました。

 どちらの体験も、「大虐殺」が虚構であり、日本軍の南京占領が住民にとっては解放だったからこそ、あり得た話ではないでしょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

※参考文献
・「WiLL」2012年12月号【誰が「南京大虐殺」を捏造したか 第9回「支那人が支那人を殺す戦争」】古荘光一氏
・日華事変と山西省>蒋介石の"以水代兵"―黄河決壊事件の人的被害
・Wikipedia>黄河決壊事件
・「正論」2012年2月号【虐殺はなかった 南京の平穏を証明するアメリカ人宣教師たちの記録(上)】松村俊夫氏
・「正論」2012年3月号【虐殺はなかった 南京の平穏を証明するアメリカ人宣教師たちの記録(下)】松村俊夫氏

※拙ブログ関連エントリー(支那の民族性)
・09/9/27付:GHQ焚書「敗走千里」より支那軍の実態
 1937年(昭和12年)、支那事変に強制徴用で駆り出された支那人青年の体験記。支那兵が自国人に掠奪や暴行を繰り返したり、便衣兵になって逃亡したりと、とにかく野蛮だったのが分かります。「督戦隊」も登場。
・10/9/27付:9月24日は国恥記念日 船長釈放でますます嵩にかかる中国
 元バレーボール日本代表の川合俊一さん曰く、「昨日まで普通だった中国の選手が、もう上か ら来るわけ。もう嵩(かさ)にかかってくるの。あ、こいつらには絶対負けちゃいけない、負けたらこんな目に遭うんだ。試合でも、えっ?そんなインチキまで 勝ちたいの?っていうぐらいのインチキしたりするんですよ」
・10/11/16付:尖閣問題を考える上での具体例を77年前の本に学ぶ
 ラルフ・タウンゼントの著書「暗黒大陸 中国の真実」より、尖閣問題をはじめとする対中問題を考える上で役立ちそうな箇所を引用しています。
・10/12/7付:支那人の民族性を考える上での具体例を77年前の本に学ぶ
 ラルフ・タウンゼントの著書「暗黒大陸 中国の真実」より、支那人の民族性そのものを理解するために役立ちそうな箇所を引用しています。
・10/12/20付:支那人にまつわる坂東忠信さんのインタビュー「正論」11月号より
 北京語の通訳捜査官として、中国人被疑者の逮捕現場や取り調べに立ち会ってきた坂東さん。 「中国人の供述は嘘が多いので、3回程度の取り調べでは終わりません」「中国人に対するに当たっての日本側の問題点は、日本人の歴史認識の不足です」「彼 らは共存よりも勝ち残ることを優先し、そのためには手段を選ばない」。
・11/2/5付:支那五千年の殺戮の歴史の集大成「三十六計」
 支那では陰謀詭計は日常茶飯事であり、伝統的な闘争文化なのです。
・11/7/25付:中国高速鉄道事故 車両隠蔽に朝日記者も驚愕!?
 中共には常識は通用しない。それを世界中に非常に分かりやすい形で教えてくれました。
・12/2/27付:河村市長頑張れ&支那軍と支那人の特徴及び南京陥落前の大混乱
 「南京大虐殺には動かぬ証拠がある」というのは中共の決まり文句。「動かぬ証拠」があるなら見せて下さいよと思うんですが、見せてくれたためしがありません。
・12/6/11付:旧日本軍軍装品から尖閣地図まで!歴史改竄のため史料を買い漁る支那人
 歴史は日本では「ヒストリー」ですが、支那では「プロパガンダ」。自国発行の古地図や日本の軍装品をなりふり構わず買い漁り、歴史を改竄することとも厭わないのです。
・12/7/23付:旧日本兵らが支那に寄贈した小学校が一般企業に払い下げられていた
 「遺骨詐欺」に遭った旧日本兵たち。「それでも支那の子供たちが喜んでくれるのなら…」。その思いすら裏切るのが支那なのです。
・12/11/5付:長崎事件をご存知ですか?支那を憂う明治天皇と沿岸防備に寄附した国民
 現在、尖閣そして沖縄に侵略の魔の手を伸ばす支那は日本にとって大きな脅威となっていますが、これと似たような状況が明治時代にもありました。
・13/2/9付:沖縄は支那の属国か?いわゆる朝貢体制の本質(付:レーダー照射問題)
 いわゆる朝貢制度とは、自国を世界の中心と仮想する支那人たちの哀れな自己満足のための妄想でしかなかったのです。
・13/3/25付:捕虜も婦女子も皆殺し!支那の非公開アンケート
 「あなたは婦女子や捕虜を射殺できますか?」…戦慄のアンケート結果です。



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