沖縄戦の教訓


沖縄と日本を不幸にする「真逆史観」②

- 全国大会記念講演 知られざる沖縄の真実 -

鴨野 守 (ジャーナリスト)
◆極限の場で、人間の勇気が試される  

沖縄戦の教訓というと、左翼の人たちは、「戦争は悲惨だ。残酷だ。このような悲惨で残酷な戦争を二度としないこと、それが教訓だ」と言います。  

しかし、戦争から得られる本当の教訓はそういうものではありません。ドキュメンタリー作家の上原正稔さんは言っています。「戦争は最も悲惨な出来事であるけれども、そこに最も美しい人間の物語が潜んでいる」と。  

『月刊ビューポイント』8月号の46頁に「数千人を助けた米須清一氏~沖縄戦で示された人間性の気高さ」という記事が載っています。この米須さんは、上原正稔さんが取材した人です。  

沖縄住民の米須さんは米軍の捕虜になりました。そして、米軍に頼まれて、沖縄の人びとに投降を呼びかけます。米軍のなかにいた日系人が沖縄の住民に標準語 で呼びかけても、普段、方言で話している沖縄の人は、呼びかけに応じてきません。現地の言葉を使える人たちの助けがないと投降させることは難しかったので す。米須さんは、命の危険を冒して数千人の沖縄住民の命を救いました。(『歴史と教育』6月号に詳述)

また、同誌の48頁には、「重傷の兵士を背負い、救出」という記事があります。

これは、山本義中さんという人がつづった手記『沖縄戦に生きて』の中に出て来る感動的な話です。

歩兵小隊長だった山本さんは、米軍戦車に肉弾攻撃を仕掛けました。しかし、戦車の砲弾の破片を受けて左手首を負傷し、また右大腿部や頭にも傷を負いました。

その山本さんを担架に乗せて助けたのは、女子挺身隊員の金城芳子さん(当時20歳)や防衛隊員でした。山本さんは5時間の手術の末、一命を取り留めまし た。しかし、看護婦からは「山本さんは重傷で助からない」と宣告されました。そして、ここにも米軍は迫っていました。  

死を覚悟した山本さんは、金城さんに言いました。「あなたは私に十分尽くしてくれた。責任も果たしたから、あなたは女学生達と一緒に南に行きなさい」。  

しかし、金城さんは、山本さんの命令に従おうとしませんでした。それどころか、金城さんは自分の背中に山本さんを脚絆でぐるぐる巻いて縛りつけ、背負ったままで戦場の中を歩いて南に下り、山本さんを救い出したのです。  

記事の一部を読みます。

《その後、運ばれた南風原陸軍病院24番壕にも敵は迫り、南に下がるよう命令が下される。金城芳子さんは、看護婦から「山本氏は重傷で助からない」と宣告 される。しかし、「私は部隊から山本少尉に付き添って行けと命令されたのです。山本少尉が生きている限り離れる訳にはいきません。私は少尉を背負って南へ 下がります」と告げる。  

そんな彼女に、山本少尉は語りかけた。「金城芳子、貴女は私に十分尽くしてくれた。責任もこれで果たしたから、女学生達と一緒に南に下がりなさい。金城芳子、ありがとう。私もこれから頑張って自分のことを考える」。  

だが、「金城芳子は、そうは受け取らなかったようだ。また姿が見えなくなった。今度は乾パンの袋を持って帰って来た。袋の中のコンペイ糖を私の口に入れ、自分も口の中に一粒入れてニコッと笑った。その顔が観音菩薩に見えた」。  

金城さんは少尉を背負って行くと言い張り、聞かない。山本氏は泣いて説得した。

自分一人が助かりたいと逃げまどう敗戦の戦場、まして軍司令部までが主戦場を捨てて後退し、陸軍病院が数千人の重傷の患者を壕の中に残したまま後退する。 この敗戦の修羅場で、私のような重傷を受け、生ける屍となった患者を、おぶってでも南へ下がるという彼女の言葉に、感極まった私は、「その気持ちだけで沢 山。その気持ちだけで十分。芳子さん、ありがとう。私はここで十分だ」と泣きながら礼を言って、「どうか貴女は南へ下がってくれ」と説得した。しかし、金 城芳子は頑としてそれを聞き入れない。  

そこに砂山という上等兵が手伝いを申し入れると、金城さんは自分の体に山本少尉の体を巻き脚絆で背負ってしまう。少尉は驚く。  

「この女性は何と大きな女性だ」。  
山本氏は手記の中で、金城さんのことを何度も「観音菩薩」と呼ぶ。この明るく気丈でスケールの大きな沖縄の女性と数人の戦友の力を借りて、山本少尉は6月13日、部隊に合流し、奇跡の生還を果たす 。  

氏の手記には、壕に避難した住民と遭遇する場面も出てくるが、兵士が住民を追い出すような場面は一度もない。住民は兵士にきわめて親切であり、激励を忘れない。  

山本氏は戦場で誓った。

「もし生きて帰れるならば、死ぬまで戦死者の慰霊を続ける」と。  

その気持ちを失わず、昭和23年に沖縄入り。地元の人々と、名前の判明した遺体1000体、不明の遺体1万2000体を収容した。これが、国が予算をつけ て遺骨収集を始める契機となった。山本氏は48年3月から62年まで沖縄への慰霊の旅を続け、その数は85回にも及んだ。彼は『沖縄戦に生きて』で、こう 書き記している。  

「戦場の具体的な事例をあげて、真実を伝え、決して人に後ろ指をさされるような非人間的なことはなかったことを伝えたい。戦場で沖縄県民が示した人間愛の 素晴らしさ、そして、私が沢山の人びとの情けで生き残ったことも知らせておきたかった」》。  

こういう素晴らしい人たちの生き方の記録を残すべきなのか、それとも、沖縄メディアが流す、住民が日本軍によって虐殺されたという記録を残したほうがいいのか。

米須清一さん、金城芳子さんの生き方に表わされるような人間の尊厳、戦争という極限状況のなかで示される人間の気高さや高貴な人間愛を教えるのがいいのか。自ずから明らかでありましょう。


◆命を懸けた島守 島田叡知事   

また、『ビューポイント』誌の52頁に「すさまじい《同調圧力》一方的「沖縄戦」描写が背景に」という記事を書きました。そこに一枚の写真を載せていますが、その背景を紹介しましょう。  

去る6月28日、糸満市平和祈念公園内の摩文仁の丘に、沖縄最後の官選知事島田叡(あきら)さんの顕彰碑が建てられました。  

昭和20年に知事になった島田さんは46歳でした。大阪府の内政部長であった島田さんがなぜ沖縄に赴任したのか。それは当時の泉守紀沖縄県知事が沖縄から 逃げ出してしまったからです。沖縄が戦場となることを察した泉知事は、視察の名目で沖縄を離れ、二度と沖縄に帰りませんでした。そこで、後任を探さねばな らなくなりました。そのとき、大阪知事が自分の片腕だった内政部長の島田さんに「沖縄に行き知事をやってくれないか」と頼んだのです。  

1月下旬に島田さんは沖縄に赴任します。島田さんが沖縄県知事として最初にやった仕事は、台湾に行き台湾当局と折衝して米を大量に買うことでした。彼は買い付けた米を沖縄に荷揚げするところまで陣頭指揮でやり遂げました。  

戦争が始まってからのことです。沖縄県庁のある課長が部下に「この命令文書をこことあそこに持って行って伝えよ」と命じました。しかし、その部下は怖がっ て持って行こうとしません。困った課長が島田知事に事情を話しますと、島田知事は「わかった。君が持って行けばいいのだよ」と言いました。そのように島田 さんは責任感と決断力をもち、強いリーダーシップをもつ知事でした。  

島田さんは自分に対しても部下に対しても厳しい方でしたが、反面、心優しい方でした。その例を挙げます。島田さんは、多くの住民とともに壕に避難しました。  

部下が米軍の砲弾が飛んでくるなかをバケツに水を汲んできました。汲んできた水は壕にもどってきたときにはバケツの底のほうにしか残っていませんでした。 ある人がそのバケツを島田さんに「どうぞこの水で顔を洗ってください」と差し出しましたら、島田さんは「君たちが命がけで汲んできた水を私は使えません。 どうぞあなたたちで使ってください」と押し戻しました。  

狭い壕のなかでバケツを両手にもった女学生がやってきますと、島田さんは体を壁に寄せて女学生を通しました。「そういう島田さんの優しさに感動しました」と、戦争が終わってから女学生たちは語っています。  

島田さんの責任感溢れる仕事ぶりや献身的な生き方は人々の記憶に残りました。そして、63年後の今、卒業生や同窓生たちによって島田さんを顕彰する碑が「島守の塔」のそばにつくられたのです。  

沖縄から逃げた泉知事にもし子供さんがいたとしたら、その子供さんは親をどう思ったでしょうか。「あなたのお父さんは戦時中どこにいましたか」と訊かれて 「沖縄です」と答える。「沖縄は大変でしたね。よく助かりましたね」と同情されたら、子供さんはどう返答するのでしょうか。  

知事としての大事な任務を放り投げ、沖縄から逃げ出して生きのびた泉さんのような生き方を子供たちに教えるほうがいいのか。それとも、命懸けで沖縄県民の ために自分の任務を全うした島田さんのような生き方を教えるほうがいいのか。これは沖縄の将来を左右する大きな問題です。  

島田さんを顕彰する碑が63年後の今、沖縄の地に建った意味を考えなければなりません。大きな犠牲のあったあの戦争から汲み取ることのできる教訓は、そういうところにあるのではないでしょうか。


◆歴史から何を学ぶべきか  


私たちの人生のなかには、愛する家族が病気で死んだり、不慮の事故で亡くなったりすることがあります。仕事を頑張ってもうまくいかないことも、信じていた 人に裏切られることもあります。しかし、どれほど辛いことがあったとしても、日常生活のなかで砲弾が飛んでくるとか、砲弾に当たって死ぬといった63年前 の沖縄に起きたような極限状況は起きません。  

戦争を戦った人たち、戦争で死んでいった人たちの生き方から汲み取れることは何でしょうか。

今、世間を騒がせているように、「仕事をクビになったから、誰でもいいから殺したかった」とか、「相談に乗ってくれなかったから親を殺した」とか言う若い 人がいます。  もし彼らが中学生のとき高校生のときに、かつての戦争の極限状況のなかで示された日本人の誇り高い行動の一つでも教わっていたならば、そして「ああ、こ んな素晴らしい生き方を自分もしてみたい」と思っていたならば、たとえ失業したとしても、親から勘当されたとしても、恋人に振られたとしても、他人から誤 解されたり誹謗されたとしても、その鬱憤晴らしに弱い者を刺したり人を殺したりする気にはならないでしょう。  

そういう時こそ、「ああ、先輩たちは死ぬほどの苦しみのなかであれほど頑張ったのだから、自分もこの試練を乗り越えて行こう」と思うのではないでしょう か。大きな犠牲を払ったあの戦争から得ることのできる教訓は、こういうものでなければならないと私は思います。

6月23日は、沖縄戦の慰霊の日になっています。東京大空襲などの無差別爆撃で、期せずして亡くなった人たちには、慰霊が相応しいかもしれません。  

しかし、沖縄戦で亡くなった人たちには、慰霊ではなく顕彰こそが必要なのです。  
「あなたがたはよく戦った、よく頑張った」と讃えて顕彰するとともに、現在、生かしていただいている自分は一生懸命に生きますと誓わねばならないのです。

あの戦争を戦い、生き延びた中條高徳さんも言っていますが、死んでいった仲間たちに対して「私は、自分の昇進や栄耀栄華のために生きることは絶対にしな い」と誓うことが大事です。亡くなった戦友に祈り、「生き残った自分は彼らに対して恥ずかしくない生き方をしよう」と誓うことが大事です。


◆沖縄戦を戦った方々に顕彰を  

繰り返して言います。沖縄で亡くなった19万の軍人と住民のために必要なのは慰霊ではなく、顕彰です。  

「あなたがたは見事に戦った」と顕彰しなければならないのです。そうしないと、亡くなった方々の心は安まらないと思います。  

今年の7月、私は沖縄に行きました。そのとき、私がマニラでお世話になった屋良朝彦さんという方に会ったときの話です。  

彼は「私の母は戦時中じつは対馬丸に乗る予定でした」と語り始めました。  

屋良さんのお母さんは事情があって対馬丸に乗りませんでした。乗らなかったからお母さんは結婚し、屋良さんが生まれたのです。屋良さんはフィリピンで結婚 した奥さんと一緒に沖縄へ観光旅行に、今回初めて来ました。「私がこうして自由に観光旅行ができるのも、母が生き残ってくれたからです。そして、多くの尊 い犠牲があったから、このように平和な生活をすることができるのだと思います」と屋良さんは言いました。  

屋良さんだけのことではありません。沖縄戦で亡くなっていった人たち、いや大東亜戦争で亡くなっていった人たちのお陰で、私たちは、今このように平和な世に生きている。  

サイパン、硫黄島、フィリピンなどの島々で、そして沖縄や内地で国を守るために戦い亡くなった人たちのお陰で、今日私たちの命があり生活があるのだということに感謝していかねばなりません。  

国を守って戦おうという人たちを讃えないならば、わが国は滅んでいくしかありません。  

国を守ることはナンセンスだと言われ、国のために死んでも、「犬死にだ」と言われたら、いったい誰が国を守る自衛官になろうとしますか。  

国の治安を守ろうとする人たちに、国民が敬意を表さないならば、誰が警察官になりますか。誰が消防士になりますか。そこのところを正さなければいけないのです。 私はある心理学者に「なぜ文部科学省は、大切な道徳や徳育をきちんとおこなおうとしないのか」と聞いたことがありました。彼はこう答えました。

「今の国のリーダーは60代から70代である。この世代の人たちは、戦争の時せいぜい10代かそれ以下の少年だった。そういう少年時代に起こった戦争につ いての体験は被害者体験でしかない。それに対して、80代の人たちは、戦争に主体的に関わった人たちである。『俺たちは力が足りなくて負けた』と他人のせ いにせず、運命を受け入れている人たちである。しかし、その一つ後、二つ後の世代は、『父が死んだ。母も死んだ。なにか訳の分からないうちにみんな死んで しまった』と思っている。沖縄でリーダーシップをとっているのは、こういう被害者体験をもつ世代の人たちである。だから彼らは皇民化教育が悪かったとしか いわない。『国が一丸となることはよくない』と思っているこういう人たちに『道徳教育をしっかりおこなってください』と要求しても、受け入れられるのはま ず無理である」  

これでは、「国を愛するな」、「先人を信ずるな」と教えているようなものではありませんか。お前の先祖は強盗だった、悪人だった、殺人鬼だったと子供に教えていて、その子供に「立派になりなさい」などと誰がいえますか。  

日本の左翼は、今、みんな沖縄に集まっています。左翼は「南京大虐殺」問題で負けました。「従軍慰安婦の強制連行」問題で負けました。あとは、「沖縄問 題」にすがるしかないのです。それで、沖縄問題に革マルや左翼団体が照準を絞っています。左翼にとって沖縄は最後の砦です。だから、大江裁判でも、彼らが 必死で応援しています。この最後の砦を崩されてなるものかと、彼らは結束してやっています。運動家もたくさんいます。それに異を唱える我々の数はまだまだ 少ないのが現状です。そう考えますと、今後のなりゆきがどうなっていくか、楽観はできません。  

しかし、沖縄の「真逆史観」をただし、日本国民に沖縄県民への顕彰の気持ちを思い起こさせることができれば、事態は必ずや変わると信じています。(完) 。
※この記事は、平成20年度自由主義史観研究会全国大会で行われた講演に基づいています。


http://www.jiyuushikan.org/rekishi/rekishi166.html

沖縄と日本を不幸にする「真逆史観」①
- 全国大会記念講演 知られざる沖縄の真実 -


鴨野 守 (ジャーナリスト)
◆はじめに  

きょうは自由主義史観研究会の全国大会にお招きいただきまして、ありがとうございます。  

私は藤岡先生とご一緒に沖縄を訪ね宮平秀幸証言に出合って以後、沖縄には1月に世界日報の取材で行き、2月に文藝春秋の取材で行き、3月に自費で行きました。宮平証言の底の底まで見極めてみたいと願ってのことです。  

ある人の証言を聞くとき、一人で聞くのと複数の人で聞くのとでは、まとめる内容がずいぶん違ってきます。なぜならば、とかく証言を訊く人の価値観で聞いて 「ここが重要だ」というところに関心を向けてしまいがちですから。その場で出てくる証言を、複数の者で聞いてお互いにどう思ったかつきあわせを する、表からも裏からもみてみる、あらゆる角度からみてみることが大事です。その点で、藤岡先生はこの集団自決問題の全体像をよくとらえておいでですし、 証言のポイントの見極めも非常に的確です。私は私でジャーナリストとしての別の視点から、証言者にいろいろな質問を投げかけながら真実の追求をしておりま す。  

ところで、沖縄戦に関する書物は、沖縄を中心に数百冊は出ています。ほとんどが左翼の人たちの書いたものです。沖縄の言論風潮を切り替えていくためには、 こちら側の書物を最低でも数十冊くらいは出していかねばなりません。そうしない限り、沖縄の世論を変えることはできません。  

藤岡先生は、「従軍慰安婦」のデマをひっくり返すのに10年かかった。だから、沖縄戦集団自決のデマをひっくり返すのにも10年はかかるよ、とおっしゃっ ています。これから10年のあいだに、沖縄のために沖縄の世論を変えていこうと真剣に考える人たちがもっと結集しない限り、沖縄の世論は100年たっても 変 わらないだろうと私は思っています。


住民に銃を向ける日本兵(沖縄平和資料館展示)
◆沖縄と日本を不幸にする「真逆史観」  

私は沖縄の人たちの歴史観は完全に真逆(まぎゃく)だと思っています。 沖縄戦では約19万の日本人が亡くなっています。9万人は軍人で、10万人は住民です。集団自決で亡くなった住民、軍の虐殺によって亡くなった住民、スパ イ容疑で亡くなった住民は、(左翼の学者によりますと)約800人くらいだと言われています。集団自決に関していいますと、これは強制されたもので はありません。強制されて、人は死ぬことはできません。  

ところで、19万人から800人を引いた残りの18万9200人の人たちの死の原因は何だったのでしょうか。これらの人たちは、米軍の攻撃を受けて亡くなったのです。  それにもかかわらず、800人の「集団自決」や「虐殺」をさらに歪めて彼らは日本軍の"蛮行"を問題にして書いているわけです。一体、日本の敵は誰だったのか。敵は米軍だったのです。  

たとえば後述する琉球新報は日本軍が悪かったように書いていますけれど、当時の日本人のなかにあったのは「鬼畜米英」でした。日本軍や沖縄県民が戦ったのは、紛れもなく米軍でした。  

琉球新報の記事の一端を紹介します。  
《 自然壕の暗闇のなか、赤ちゃんが一人、二人泣き出した。敵が知るのを心配した日本兵が「黙らせろ」と怒鳴った次の瞬間だった。光がやっと届く暗がりで、斜 め座りし、両手で目をこすり泣いていた小学1、2年生ほどのおかっぱ頭の少女に将校が壕の奥から歩み寄った。無言で拳銃の銃口を少女の左のこめかみに当て た。大きな一発の銃声が壕内に響いた。右のこめかみから煙が上がった。少女は声もなく前方へ崩れ落ち、動かなくなった。壕内は静まりかえった。将校は平然 と暗闇の奥に消えた 》(2008年6月13日付一面)  

でも、おかしくはありませんか。だって「赤ちゃんが泣いているから静かにしなさい」と言ったら「問答無用」でドンとピストルで撃ったという。しかし、そん な大きな音を立てたら米軍に気づかれてしまうではないですか。こういうおかしな記事を平気で書いています。住民が怯えたのは米軍ではなくて日本 軍だった、怖かったのはひたすら日本軍だった、こういう記事が書かれているのです。  

琉球新報は、20万の沖縄の家庭で読まれています。一方、沖縄タイムスの購読家庭も20万あります。130万県民のうちの40万家庭で琉球新報と沖縄タイ ムスが読まれています。重複してとっている家庭が10万あるとしても、30万の家庭で読まれていることになります。一家庭に三人いるとして90万 人の県民が、こういう論調の記事を毎日読んでいるのです。赤ちゃんや寝たきりの老人は新聞を読めないでしょう。つまり、沖縄県民はこの二つの新聞を毎日、 教科書のようにして読んでいるのです。  

戦後60年間こういう記事ばかりを読まされてきたら、洗脳されないほうがおかしい。これと反対の記事を新聞・雑誌が1、2回書いたところで、沖縄の世論は全く変わりません。  

そもそも、当時の日本人の考え方は、特攻隊員への敬意に象徴されるように、自分の命以上のものを守るための死は尊いという考え方でした。日本人が守ろうと したものは何か。それは国家であり、自分の故郷であり、自分の家族でした。それらを守るために、自分の命を捧げたのです。そして、卑怯な人間で あること、どこかへ逃げたといわれることを死よりも恥じていたのです。

ところが、今の左翼の人たちは「命よりも尊いものはない」といっています。つまり、死を避けることができるならば、捕虜になってもいい、奴隷になってもい い、とにかく命がなければ何事も始まらないというわけです。これは、戦後の左翼の人たちが主張している生命観でもあります。そういう人からみれ ば、戦争で死ぬことは無駄死にでしかありません。  

私からみますと、こういう命に対する考え方は、当時と今では全く逆さまです。  


◆善人と悪人の倒錯  

宮平秀幸さんや宮城初枝さんが証言しているように、梅澤隊長や赤松隊長は住民を守るため、住民には「死ぬな。生き延びろ」といっています。また、怪我をした住民たちを助けて治療もしています。  

軍の命令について少し述べましょう。  

赤松隊長は部下に命じて大事な兵器であるマルレ(特攻艇)を沈めています。赤松隊長の命令に抵抗した兵士も確かにいました。マルレを操縦する訓練を受けて きた兵士たち、爆薬を積んでアメリカの艦船にぶつかって命を捨てる覚悟でやってきた兵士たちにとって、マルレを沈めよと言われることに納得でき なかったのです。しかし、隊長命令は絶対でしたから、兵士たちはそれに従いマルレを自沈させたのです。  

もし赤松隊長や梅澤隊長が、住民を「殺せ」と命令していたとしたら、そこにいる部下はその命令を実行しなければいけません。でも、部下は実行していませ ん。理由は簡単。隊長命令がなかったからです。部下たちが実行したことは何か。怪我をした住民たちを治療してやることでした。  

その梅澤さんや赤松さんに対して、大江健三郎は「殺人鬼だ。罪の巨塊だ。アイヒマンのようだ。公開処刑をせよ」と書いています。大江やその同調者たちが言 うすべてのことは、梅澤さんや赤松さんが言っていることと180度違います。善人と悪人が逆になっているのです。  

もう一つの例を挙げます。かつて太田昌秀という沖縄県知事がいました。彼がやった功績の一つに、摩文仁の丘の「平和の礎(いしじ)」の建立があります。そ こには、日本軍、米軍、韓国の戦死者たち全部の名前が刻まれた碑があります。実はあの「平和の礎」は、上原正稔さんという方が建立しようと考えて 村長に陳情したのが、そもそもの始まりでした。上原さんたちが太田知事のところに行き、「県も協力してください」と言いましたら、太田知事は「それは俺も 考えていたから、お前たちは止めろ。せいぜい蝋人形でもつくれ」といって、上原さんのプランを横取りしたのです。  

上原さんたちは、遺族の浄財を集めて建立しようとしていました。ところが太田知事は、全部税金で賄いました。太田昌秀氏は、沖縄を駄目にした筆頭です。ところが、彼は沖縄では今でも英雄です。これも、善人と悪人が真逆になっている一例です。


◆「戦陣訓」と敵兵の民間人虐殺   


戦陣訓に「生きて虜囚の辱めを受けず」とあります。こういう皇民化教育があったから、住民が捕虜にならないで自決したのだと左翼の人たちは言います。しか し、戦陣訓の言葉があったからといって、人はその言葉通りに行動するものではありません。その言葉には、それを生んだ背景があり、実態がありま した。  

日清戦争でシナ軍の捕虜になった日本兵は、指を切り取られ、目をくりぬかれ、内臓を引っ張り出され、男の急所を切り取られました。そうしてもがき苦しんで 死んでいった日本兵がいて出てきた言葉です。それほどに痛ましく無残な死を迎えるよりは、「生きて虜囚の辱めを受けず」ということなのです。  

当時の国民のあいだで「鬼畜米英」という言葉が使われていましたが、これにも理由がありました。サイパン島で多くの日本の民間人がバンザイクリフから飛び 降り自殺をしましたが、民間人たちは考えなしに飛び降りたのではありません。その前に、こういう事実があったのです。  

すなわち米軍は日系人を通して、「投降しなさい。捕虜になれば、安全です。食糧もあげます」と宣伝しました。それを信じて出ていった日本の民間人のうちの 老人や子供を、アメリカ兵は火のなかに放り投げ、赤ちゃんを股裂きにして投げ捨てました。多数の女性たちは素っ裸にされトラックに積み込まれ、どこかへ連 れて行かれました。  

そういう米兵の姿を山陰などから見ていたサイパン島の住民は、投降できないこと、捕虜になれないことが分かったので、彼らはバンザイクリフから飛び降りたのです。  

サイパン島にいた人たちの多くは沖縄出身の人たちでした。サイパン島で生き残った人たちからそれを伝え聞いた沖縄住民は「投降できない」と思ったのです。米兵たちは紛れもなく鬼畜でした。


◆日本軍は沖縄県民を守っていた  


沖縄戦に先立つ硫黄島での戦いでは、日本軍は従来の水際で敵を迎え撃つ作戦をとらず、敵を島のなかに誘い込んで洞窟や物陰から攻撃するゲリラ戦法をとり、 米軍に多大な損害を与えました。沖縄の日本軍も硫黄島の流儀で戦おうとしましたが、しかし、硫黄島の戦いのようにはいきませんでした。硫黄島には住民はい なかったけれども、沖縄にはたくさんの住民がいたからです。  

昭和19年に本土から10万の日本軍が入ってきたとき、「これで絶対に勝てる」と、沖縄の人たちは大喜びしました。ですから、沖縄がやがて厳しい戦場にな ることを予想していた政府や軍部が沖縄住民に九州や台湾に疎開するよう求めても、住民たちは「嫌だ」と拒みました。それを一生懸命に説得して、やっと 住民たちは疎開したのです。  

この疎開には3種類ありました。  

一つ目は島外疎開、つまり台湾や九州への疎開です。約8万の県民が島外へ疎開しました。行政が軍に頼み、住民は軍艦に乗って疎開しました。  

二つ目は島内疎開、つまり沖縄本島北部への疎開で、数万人が島内疎開をしました。  

三つ目は離島住民の疎開。昭和19年の末に南西諸島守備要項がつくられました。  

渡嘉敷とか座間味とか石垣島とかいった離島にいる人たちをどうするかという問題への対処を決めたものです。日本軍がいない島に関しては、安全なところに避 難しなさいと要項は指示しています。しかし、渡嘉敷島や座間味島には日本軍がおりマルレ(特攻艇)の基地があるような島、軍事機密を外部に知ら れてはいけない島については、その島のなかの安全なところへ避難しなさい、壕 を掘って隠れなさいと指示しています。  

つまり、沖縄本島はいうまでもなく、離島においても、行政と軍は住民保護を徹底してやっているのです。  

この住民保護に関連する当時の文書資料は、米軍が全部押収してしまっており、原文は未だに見つかりません。しかし、それを翻訳したものは国会図書館にあります。そこには、住民に「自決しろ」と命じた資料は全くありません。  

このように、国家の意思、沖縄県の意思、32軍の意思は住民保護、それしかありませんでした。左翼は軍と住民の「共生共死」が国家の意思であったといって いますが、それは違います。実際に自決をしたのは慶良間諸島の数百人の住民が主であり、沖縄本島の人々はほとんど自決していません。切羽詰 まって、何人かが自決をしたケースはありましたが、数十万という住民は全部米軍の捕虜になっているのです。皇民化教育があったために命を軽々しく投げ出し ていったということはありませんでした。捕虜になった者の数のほうが圧倒的に多いのです。左翼の人たちは、それに触れようとしません。  

昭和20年3月末、米軍は飛行機で慶良間諸島の上空からガソリンを撒き、それから爆弾を落とし、山火事を起こさせ野山や住宅を燃やしたのち、艦砲射撃を加 えました。直径20センチもある砲弾がバンバン飛んでくる。住民は、肉体的にも精神的にも想像を絶する限界状況のなかで、「もう生きていけない。米軍に陵 辱され、手足を切られ、局部を切られて死んでいくよりは、自ら死ぬほうがましだ」と思いました。より良い死、尊厳死を求めたのです。  

座間味島の住民たちは「日本軍は米軍と戦って玉砕するだろう」と思いました。そして、「後に残される我々は、日本人としての名誉や誇りを失う恥ずかしい死 よりは、良い死を選びたい。でも、ただ一人で死ぬのは嫌だ。全員が一緒に死ぬのならば、何の心残りもない」という心境になっていました。  

村の指導者である村長や助役たちは、村人の願いだから何とかそれを実現したいと思いました。指導者たちの最後の仕事は、集団自決の実行だったのです。です から、座間味島の助役が梅澤隊長のところに行き最初に言った言葉は「ダイナマイトを下さい。爆薬を下さい」でした。住民を集めて、その真ん中で ダイナマイトを爆発させれば、あっという間にみんな死ねますから。しかし、梅澤隊長は「駄目だ」といいました。  

助役がした第2のリクエストは、「小銃を下さい」でした。この要望に対しても梅澤隊長は「駄目だ」といいました。第3のリクエストの手榴弾も、4番目のリクエストの「猫いらず」も、梅澤隊長は断りました。


◆沖縄戦の教訓とは  

左翼の人たちは「日本軍は沖縄を守らなかった。それが沖縄戦から得られる教訓である」と言っていますが、それは違います。軍人は文字通り命を懸けて沖縄と日本を守ったのです。  それが政府の意思であり、軍の意思でもありました。ですから、軍部は戦艦大和を沖縄に向かわせましたし、特攻機を沖縄に出撃させたのです。現場の指揮官たちも、徹頭徹尾沖縄の住民を守ろうとしたのです。  

これが沖縄戦の真実です。  

梅澤さんは「私は裁判に負けたが、やましいことは一つもない。私は自決命令など出していないから、何の後ろめたさもない」といっています。梅澤さんは「真実は自分にある」ことを知っています。  

私がこの問題で藤岡先生と一緒に戦っていきたいと思っているのは、「そこに真実がある」からです。沖縄戦で死んでいった兵士たちも、生き残った人たちも、日本を守ろうとしました。日本軍は沖縄県民に危害を加えようとは少しも思っていません。  
それにもかかわらず、左翼の人たちは「日本軍は住民を虐殺した」とか「スパイ容疑をかけて住民を虐殺した」とか「真逆」の報道をしています。このように、沖縄の報道や主張はまったく「天動説」なのです。  

長い戦いになるでしょうが、私たちはこの「天動説」を変えていかなければなりません。
※この記事は、平成20年度自由主義史観研究会全国大会で行われた講演に基づいています。
関連記事
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

最新記事
プロフィール

tourokurad

Author:tourokurad
FC2ブログへようこそ!

最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
アクセスランキング
[ジャンルランキング]
政治・経済
394位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
政治活動
178位
アクセスランキングを見る>>
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR