「この命、義に捧ぐ 台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡」


「この命、義に捧ぐ 台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡」
 門田隆将 著
作成日時 : 2011/05/07 17:25  
http://mirakudokuraku.at.webry.info/201105/article_2.html



「戦略将軍 根本博」より
○陸大の入学試験のとき、兵術の試験官はのちに大将となった蓮沼蕃。試問は一つの山の攻撃法であった。
 示された状況では、右翼からの攻撃が唯一、最善の作戦とみた根本は、黒板に詳細な図面をひいて説明を加えた。
「大バカ野郎、そんなことじゃダメだ。左翼からの攻撃をなぜ考えんのだ!」
「いや、私は自分の考えが正しいと思います。これが最善の作戦であります。」
「わからん奴だ。それでは負け戦だ。なんという強情な奴だ。」
蓮沼教官は机を叩いて作戦の変更を促す。根本は最後まで自分の考えが正しいと主張し、頑として自説をまげない。
「貴様のような強情なやつははじめてじゃ。」と席を立ってしまった。

次の日、受験生は一室に集められ、名前を呼ばれた。ところがいつまでたっても根本の名前は呼ばれない。
「終わり」といわれ、根本も「やっぱり不合格か」と思ったとたん、
「名前を呼ばれなかった者が合格。これから入校式を行う」と言われた。

陸大に合格した後、蓮沼教官は
「あのとき、お前の意志の強弱を試験したのだ。だからお前が、はじめの意見をひるがえすよういろいろしかけてみたのじゃ。答えはあれでよかった。」

なるほど、後に北支方面軍司令官大本営の命令に逆らってロシア軍との戦闘を指示したのもこうした意志の強さが本性だったからである。それはしっかりした状況判断に基いていた。



張家口独立混成部隊第二旅団(響兵団)参謀辻田新太郎氏は、「祖国はるか」に次の一文を寄せた。

「なんといっても、その人の偉大さが張家口に集っていた同胞4万人の生命を救ったと断言できます。

 将官級の中には、ソ連軍を普通のヨーロッパの軍隊のように甘く見ていた人もいたようですが、根本軍司令官の状況判断には、いささかの狂いもなかったといまでも頭がさがります。

1、ソ連は話のできる相手ではない。だから、相手が要求するように、第一戦の抵抗をやめておれば、将兵は捕虜となってシベリアに拉致され、集結していた4万人の同胞は、思うままの仕打ちをうける結果となりかもしれない。

2、ソ連は国策遂行のためなら、いかなる非道なことでもする。

3、強いものに対しては攻撃しないが、弱い者にはトコトン残虐なことでもする。

このような判断によって、『8月15日以後なお抗戦を命ずる指揮官を、ソ連としては銃殺刑に処す』というソ連の呼びかけを、司令官は敢然として無視した。
 そして、ソ連侵入を予想し、昭和20年春から奥地の居留民を主として張家口鉄路局と協議し、引き揚げに万全を期したのである。
 なお、これらを実施するための決意の現われであるが、大本営、支那派遣軍、北支方面軍司令官より、『停戦し武装解除をうけよ』というたびたびの重なる厳命にもかかわらず、
『もしその決心が国家の大方針に反するならば、直ちに本職を免ぜられたく至急何分の指示を待つ』と返電されております。
 これが第一線の兵士たちに、
『軍司令官は、たとい逆賊の汚名を受けても、4万人の同胞を救うため、断固ソ連軍を阻止して、指一本触れさせまい、と決意を固めておられる』
と伝わってきました。
 日ごろの司令官の言動から、その決定は極めて自然であり、兵団の将兵は、みずから進んでソ連軍の阻止に全力を注ぎました。
 昭和20年の春以来、奥地の同胞家族を大同、張家口に集結させるため、自動車、列車を動員し、形勢の悪化に伴い、奥地を放棄して、大同との鉄道輸送が途絶すると、大同警備隊を、北支那に移管して、みずから張家口と北京を通ずる鉄道沿線の警備に重点を置きました。
 根本将軍のように先を見通した指導者は、各戦線を通じてきわめて少なかったのではないでしょうか。」

○大正11年(1922)12月、根本は陸軍大学校を卒業して旭川の第27連帯第一中隊長として赴任した。
 根本は着任した日、第一中隊全員の閲兵、分列式を行い、次の第一声を放った。
『私はただいまから君たちの中隊長である。中隊は軍隊の家庭であるから、私は君たちのおやじというわけだ。楽しい円満な家庭は繁栄する。第一中隊も中隊長、隊員が心を合わせ、大きな和をもっていかさかも隠し事のない、清らかな心で毎日ご奉公するようにしたい。

 ついては私的制裁について厳命する。本日ただいまより私的制裁は禁止する。軍隊生活になれていない初年兵は、地方の習慣を兵舎内に持ち込むこともあろう。軍務を怠るつもりはなくとも古年次兵の目には軍務怠慢と映る場合もあるであろう。
 かかる場合、古年次兵は教育に名を借りて初年兵に暴力を振るうことがある。初年兵の恐怖はつもりつもって怨念に変っていく。こうなれば、軍隊教育の目的を逸脱する恐れが大である。
 古年次兵は『陛下の御命令によりお前たちを教育する』と称し、打ち、ちゅうちゃくするようであるが、陛下は決してそのような暴力を命じてはいない。陛下の御名を借りて暴力などもってのほかである。今後かかる野蛮な行動をとる者あらば断じて放置しない。

 どんな些細なことでも、中隊長は君たちの相談に乗り、中隊員全員と苦楽をともにするつもりだ。数日後には君たちの弟ともいえる初年兵が入隊する。どうか 温かい心で迎え、苦楽をともにしてほしい。君たちも初年兵のとき、古年次にいじめられたことがあるだろう。自分たちがうけた不愉快な出来事を弟たちに味わ わせてはならぬ。

 新しい伝統をつくろうじゃないか。初年兵いじめのない、さわやかな中隊をつくり、後世に伝えよう。以上』

 ああ、着任時にまずこのような訓示をした中隊長がいたであろうか。いじめは日本社会の通病であり、現在も新聞紙等をにぎわす。中根チエさんのいわれるいわゆる「タテ社会」のマイナス要因というべきか。特にそれは戦前の軍隊において蔓延していたという。

「初年兵いじめの先導者は、下士官候補生あがりの伍長、兵長、上等兵あたりでその実態は創造を絶するものがあった」と小松茂朗氏はいう。
 衣服整頓不良、銃の手入れを怠ったなどの理由でリンチ(私的制裁)が行われた。たとえ精魂込めて整頓していても、留守時古年次兵がこれを崩し、銃も一生懸命整備しておいても、わざわざゴミをつけて手入れ不良と因縁をつけてリンチすることがしばしばあったという。
 将校はこうした いじめを見ても見ぬ振りをしていたから、古年次兵はますます増長する。それはまた自分たちが受けてきたいじめを上官に絶対服従の中でやり返すことでもあった。

 根本中隊長はこの私的制裁を絶対的に禁止するにあたって諄々と説諭した。そして「初年兵いじめのない、さわやかな中隊をつくり、後世に伝えよう。」と 言った。「中隊は軍隊の家庭である。楽しい円満な家庭は繁栄する。」と説いた。それはおそらくは自らの育った家庭環境を反映している。

 翌年、秋季大演習のさい、大隊長は第一中隊の突撃を命令した。ところが根本中隊長は
「今、突撃してもやられるだけです。右に機関銃、前方に相当な兵力が待機しています。」と作戦変更を具申している。演習は強行軍で落伍者が続出し、永田連隊長は激怒し、声をあらげて叱責した。
 ところが、根本中隊長は「わが第一中隊の兵はよくやった」と褒めた。
そして「2日間の慰労休暇を与える。その間、充分に英気を養え」と申し渡した。

 まことに名参謀は人間心理を読む達人でもある。このような隊長に仕えれば「この人のためなら」と自ら思うことであろう。身を殺して奮戦するに違いない。 根本という人はどんな時でも兵の士気を養うことを重視したのであった。強制され嫌々行うものはおうおうにして成功しない。英気をもって自ら進んでとことん やりぬくところに事は成就するのであろうか。

 昭和12年5月、旭川から根本連隊長が釧路市青年学校の教練の査察に来た。かつて部下だった杉浦正信は、根本連隊長の宿泊先の旅館を訪ね、中隊長時代の ことを語り、飲み明かした。その年の8月1日杉浦は充員召集を受け、第27連隊に入営することになり、前日、官舎に根本連隊長を訪ねた。根本連隊長は2時 間ほど戦場の心得を教えこう語った。
「いいか、戦いは最後まで捨ててはいけない。もうダメだと感じたら、深呼吸をして、それからおもむろに立ち小便をしてみろ。小便が出るようなら大丈夫。かならず道が開ける。」

 杉浦は華北の部隊に派遣され、4年目の春、敵に包囲され小隊は全滅の危機にさらされた。そのとき杉浦の脳裏に尊敬する根本連隊長の教訓が浮かんだ。杉浦 は大きく深呼吸し、立小便を始めた。小便は前に勢いよくとんだ。部下たちは杉浦の身を案じて「危ない危ない」という。しかし敵は悠揚せまらざる杉浦の態度 にあきれたのか攻撃をしかけてこなかった。そして無事小隊は本体に合流できた。

○「日本陸軍英傑伝」265~268 ページより抜粋

 蒋介石は、昭和24年12月までに、その一党をひきいて台湾に移駐し、その2か月前、10月1日に毛沢東は、北京に『中華人民共和国中央人民政府』を成立させていた。

 李機源という男が、蒋介石の密使として、蒋の親書をもってはるばる鶴川村(町田市)の根本邸をおとずれた。
 根本は、吉村虎雄ひとりを随員とし、昭和24年3月末、自宅を釣り姿で出発、宮崎県日向細川湾から、38トンの発動機船に乗って台湾めざして、日向灘を乗り出した。

 根本の乗った船は、沖縄付近で、台風の襲来を受けて、岩礁にぶつかり沈没のうきめにあった。根本以下船中に浸水する水を必死でかいだした。

 沖縄はアメリカ軍の占領下にあり、沈没寸前アメリカ軍軍艦に救助され、厳重な尋問を受けた。

「いまや中国は、ソ連と中共の共産化のため、必然的に共産化されようとしつつある一大危機にある。蒋介石の台湾も、中国共産党の手におちいろうとしてい る。自分はかつて蒋介石と戦った日本の軍人であるが、自分個人としては、日支戦争には反対であった。むしろ蒋介石を援助して、中共軍を撃滅するため、国府 軍に手をかそうとしていたのだが、いまからでもおそくない。これから台湾に、たった2人で乗り込んで、日本政府の力も借りず、独力で蒋介石をたすけて反共 の戦略体制を確立する覚悟である。米国もこれに異存があるか。」

根本の弁舌にアメリカ軍も困惑し、歓待し、軍艦で根本を台湾のキールンに送り届けた。

ところが、キールンの国府軍は「根本将軍が台湾へ密航するわけがない。ニセモノであろう」と2か月も監禁した。
しばらくすると不思議な噂がたった。

「根本博(ケンポンパオ)来了(らいら)」

台北にいた蒋介石の耳にも達し、真偽を確認するため、張群が派遣された。
張群も根本博本人であることに驚いて、台北にむかい入れた。

吉村の手記によれば
まず厚く迎えたのは、台湾の警備司令彰中将、副司令兼参謀長釼少将で、つづいて陳副総統、蒋介石総統に直接面談した。

蒋介石は、第五管区の司令湯恩伯に「根本と吉村を草山に連れよ」と命じた。
蒋介石が台湾ではじめて日本人と会見した第一回目であった。
会見は厳然たるなかに温情がにじんでいた。
湯将軍は「根本将軍をわが第五管区司令部に迎え入れたい」と申し出があり、本人が承諾すればと許可された。根本は「犬馬の労を尽くそう」と即座に答え、湯将軍は「粛何が韓信を得たごとく」喜んだという。

根本は陸軍中将に任命され、林保源と改名した。吉村は陸軍大佐林良村と改名した。

その後、根本の作戦指導によって、中共軍との厦門の戦闘で、湯将軍の部隊を手際よく撤退を完了させ、ついで小金門、大金門における中共3万の部隊の正面衝 突は、3晩4日、死闘をくりひろげた。根本の作戦によって中共軍3万を金門海峡に壊滅し、8,500人の捕虜を得て大勝した。

根本はそれから3年間、台湾防衛のために、金門、馬祖湾の戦略的防備を完成させ、さらに3年間台湾本島の国府軍の編制、装備、訓練にあたった。

○この頃台湾にいた根本博、中国名林保源を訪問した韓国軍人がいて、ウェブにその模様が搭載されている。

1957年、士官学校を卒業した錫元は陸軍少尉に任官した。
 当時参謀総長は白である。錫元については朝鮮戦争中にわずかながら接したこともあって、なにごとかをみぬいていたらしい。情報局に配属したのもそのあらわれであっただろう。
(略)
 白の許可を得て、朝鮮戦争の戦跡をもとめて国内を旅行するだけでなく、他国の戦跡をもとめて海外にもとんだ。そのなかでも日本と台湾にはかよいつめたといっていい。
 両国とも近く、かれにとっては言葉にもそう不自由しないことにくわえて、日本には戦史資料が多く、台湾は戦時中であったからである。

 台湾は、金門島にたびたび中共軍による攻撃があるなど、いまだに戦塵がくすぶっていた。むろん戒厳令はまだしかれている。
 金門島は、台湾島からかなりはなれたアモイ沖合いの島であり、中共軍にとっては喉もとにつきつけられた針のようなものであった。

 1949年10月、中共軍は兵2万をもって金門島上陸をこころみ、ほぼ無抵抗で成功した。その間、島内の国府軍はずっと息をひそめている。
 中共軍が上陸しおえたときだった。にわかに国府軍の舟艇があらわれ、中共軍の背後に逆上陸を敢行したのである。 さらにそれに呼応して、島内にひそんでいた国府軍がいっせいに攻撃を開始した。挟撃された中共軍は二日間の戦闘で多数の戦死者を出して潰滅した。
 また、1955年と58年には海峡をはさんで国共両軍による大規模な砲撃戦が展開された。とくに1958年のそれはすさまじく、中共軍は44日間にわたって、合計47万発もの砲弾を金門島に送りこんだといわれる。

「これらの戦いについて研究したい」
 と、錫元は台湾訪問を申請し、みとめられた。仁川や江華島などに北朝鮮軍が上陸した場合を想定してのことである。むろん北に加勢してくるはずの中国軍の力量を知るためでもある。

 錫元が台北をおとずれたのは1959年の7月のことである。
 台北の夏は暑い。汗だくになりながら国府軍の兵舎についた錫元は、軍事顧問の林保源中将という人物をたずねた。
 錫元がけっしてうまいとはいえない北京官話であいさつすると、
「陸士二十七期の金錫源将軍(しょうぐん)と同名か。よい名前ですね」
 と林はいった。
「将軍(しょうぐん)をご存知なのですか」
 かつてふれたように錫元は金を「将軍」と日本語発音でよぶ。それをきいて、林は日本語に切りかえた。
「私は陸士二十三期です。りっぱな後輩を忘れてはなりません」
 といって笑った。林の本名は根本博といい、れっきとした日本人であり日本陸軍の中将であった。

 太平洋戦争の終戦後、国府軍は中共軍との内戦にやぶれて台湾に逃げこんだ。蒋介石は軍の立て直しのために日本軍人をまねくことをおもいついた。
(略)

錫元は作戦についてたずねた。
「敵を上陸させておいて背後から逆上陸というのはさほど目新しいものではありません」
 林はていねいに答えた。
「日本史のなかにお手本があるのです。厳島の戦いをご存知でしょうか」
 さすがに錫元は知らない。林はてみじかに説明した。

 1555年、安芸の大名毛利元就は、防長両国と豊前の一部を領する陶晴賢をうつため瀬戸内海の厳島に城を築き兵をいれた。
 劣勢である元就は謀略のかぎりを尽くして、その大軍をせまい厳島に集めさせるようはかった。
 陶晴賢は、軍事において当時第一級の才幹であったといっていい。しかし不幸なことに元就の謀略の才能は陶のそれをはるかに凌駕していた。
 晴賢は、ついにのせられた。
 陶勢は二万の大軍をもって上陸して城を囲んだ。わずか三千の毛利勢は闇夜にまぎれてその背後に逆上陸し、夜明けに城方とともに挟撃した。陶軍は壊滅し陶父子は浜辺で自刃した。

「マッカーサー元帥の仁川上陸も、ねらいとしては似たようなところがあるのかもしれません」
 朝鮮戦争初期の劣勢をひっくりかえした仁川上陸も、敵の主力を釜山橋頭堡までよびこんでおいていっきに政戦略上の要衝であるソウルを奪還、敵を挟撃した。
「やはり日本軍は奇襲をこのむのですか」
 錫元の疑問に林は首を横にふった。
 本来なら、正統な戦略によって敵に倍する兵数をそろえて平押しにおしてゆくというまっとうな戦法をとりたいのである。しかし、
「私たちは豊富な兵力・弾薬を持っているわけではありません。貧乏所帯はあるものでやりくりしていかなくてはならないのです」
 そのために戦術を駆使せざるをえなかった。巧緻に走りすぎたという批判もやむをえませんが」という。
「現実を正確、虚心に受けとめて最善を尽すべく方策を練る。この当たり前のことが難しいしいんです」
 これが完璧にできればどこの軍隊も負けないんでしょうがね、と林はわらった。

 また、林は、軍事顧問としては教え方も重要だともいった。
「わたしは顧問であって上官ではありません。命令するのではなく指導するだけです」
 つまり先生である。とはいえ、教えこむだけではなく、生徒にやらせることを主眼としなくては生徒の身につかないという。
「先生の質も大切ですが、生徒のやる気はそれ以上に大切なのです」
 先生はでしゃばってはいけない。謙虚に控えめであるべきだともいった。
(略)


戦神・根本博中将の義勇…台湾を死守した大和魂
作成日時 : 2010/08/15 06:31
http://dogma.at.webry.info/201008/article_5.html

終戦から4年…約束を果たす為、元司令官は再び戦場へ向かった。
共産軍を撃破した決戦の陰には我が陸軍の根本博中将がいた。
驚くべき作戦と勇敢な行動。埋もれていた日台秘史が鮮やかに甦る。



戦神 根元博陸軍中将
http://ameblo.jp/bellet/entry-11413639078.html
「ねずさんの ひとりごと」様より転載です
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1713.html#more
根本博中将
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